たった数日だったけど
晴香ちゃんは俺たちよりも遥かに長くコーエイの傍にいた。同じ小学校の同じクラス、家は遠いけれどお互いにとってはこれ以上ない友達なのだという。
コーエイのことを誰よりも考えているのは当然かもしれなかった。
知っている人が誰もいない児童養護施設に行くより、見知った人の近くで暮らせるほうが、コーエイ自身にとっても不安はないはずだ。
「どうかしたの、お姉ちゃん?」
「いや……」
雨の中、傘をさして歩いていると、狭い道では横に二人並んで歩くことはできない。後ろから茜ちゃんに声をかけられて、俺は曖昧に返事をした。
「楓は何がそんなに心配なの?」
今度は前を歩いていた茉希ちゃんが、振り返らずに尋ねてくる。
「友達同士なんだよね? だったら、俺たちよりずっとお互いのことわかってるだろうし、コーエイも大丈夫なんじゃないかな?」
茜ちゃんの後ろ、列の最後尾にいた翔太も、晴香ちゃんの提案には賛成の姿勢だった。
あの後、晴香ちゃんはコーエイを家に連れて帰ると言い出した。親には昨日のうちに許可を取っていたらしく、もともと今日はそのために来ていたらしい。どこか近くで待機していたらしい送り迎えの車もすぐに来た。
黒塗りの高級車だったり、専属のガードマン兼運転手がいたり、執事の茅君がいたり。晴香ちゃんは相当裕福な家の子だとわかる。未払いの光熱費・水道代もきっちり片づけるとまで言っていた。そんな晴香ちゃんは俺たちの是非も聞かずに車に乗り込み、コーエイの家を離れたのだった。
そんなわけで俺たちも解散となり、今は茉希ちゃんと翔太が、俺と茜ちゃんを家まで送ってくれているところだ。
「このまま晴香ちゃんたちに任せれば、コーエイも寂しい想いをしなくて済むんじゃないかな。同じ学校なんだから、これからは登下校も一緒だろうし」
「うん……」
翔太の言う通りだ。天涯孤独なったコーエイにとって、晴香ちゃんの行動はまさに救いのはず。衣食住の心配も、孤独の心細さも、すべて解決してくれるのだから。
その一方で俺は、今の空模様のように胸の内が晴れなかった。
理由があるわけじゃない。ただ、コーエイは昨日のうちに晴香ちゃんの提案を聞いていた。その場で受け入れていなかったことが、どうしても引っかかるのだ。
今日だって、その話を晴香ちゃんがすぐに切り出せば解決していたのだ。わざわざ俺が帰ってくるまで、みんなが暗い部屋に浮かない顔を揃える必要はなかった。晴香ちゃんが一瞬、コーエイの顔を窺ったのも何か理由が……。
なんでだろう。もやもやして、すっきりしない。
そんな風に考えているうちに、いつの間にか北見家の目の前に到着していた。
「それじゃ、また月曜日ね。朝に迎えに来るから」
「二人ともありがとう。気をつけて帰ってね」
二人にお礼を言う茜ちゃんの隣で、俺は無言のまま手を振る。二人が角を曲がって見えなくなってから、俺たちは家の中に入った。
初めてのアルバイトやコーエイのことで忙しかった日曜の夜は、雨雲に覆われたまま過ぎて行った。
それから何事もなく数日が経った。
日曜日以降は雨こそ降らなかったが、空にはまだ分厚く暗い色の雲が鎮座していた。カレンダーは六月に変わり、湿気を含んだ空気も梅雨の到来が近いことを物語っていた。
母さんにはコーエイの顛末をメールにして報告している。一度返事もあって、母さんも概ねみんなと同意見で、これまでのことを「ありがとう」と労ってくれていた。
おじさんにも一応は相談したけれど……「何が心配なんだ?」と聞かれると、自分でも説明できなくて首を傾げるしかなかった。
「ふわあ……」
晴れない空を見上げて欠伸を一つ。悩みが尽きないせいであまり眠れていなかった。
コーエイの家にはあれから行っていない。今頃は晴香ちゃんと茅君が学校へ連れて行ってくれているはずだ。帰る家も晴香ちゃんの家になって、寂しさを感じることもない。
そう考えるのは願望かもしれなかった。
「冴えない顔してるわね、楓」
「あ、茉希ちゃん、おはよう……って、もう衣替えしたの?」
後ろから声をかけてきた茉希ちゃんの制服は、半袖ブラウスに学校指定のニットベストを着た夏仕様だった。
「じめじめして暑いじゃない。アタシ以外にも、今週から夏服の子はちらほらいるわよ」
「そういえば今朝は透も半袖のカッターシャツだったな」
「あいつも暑がりだからね。翔太はまだ寒いって言ってたかしら」
「俺もまだ風が吹くと寒いから、もうしばらく長袖かな。茉希ちゃんはよく平気だね」
「朝は冷えるけど、お昼になったら決まって暑くなるのよ。……で、話戻すけど、なんでそんな浮かない顔してんのよ?」
問い詰められて、俺はまた言葉を渋ろうとした。コーエイのことを気にしているのは俺だけで、みんなからすれば終わったことなのだ。それに加えて俺の感覚的なものが大きくて、上手く説明できそうにもなかった。
でも、それは茉希ちゃんが最も嫌う行為だ。俺は頭を回転させて、どうにか今の気持ちを言葉に変換した。
「……コーエイのこと、なんだけどさ」
「ふうん?」
茉希ちゃんは興味をそそられたように片眉の形を変えた。
「俺自身、上手く言葉にはできてないんだけど……まだ気になるって言うか」
「心配ってこと?」
「うん、まあ」
「そうなんだ」
そう答えた後、茉希ちゃんは「うーん」と唸って悩み始めた。
「楓ほどじゃないけど、アタシも少し気になってる部分はあるのよね」
「気になってること?」
「アタシが聞いてないだけかもしれないけどさ、コーエイ君って不登校だったんだよね?」
「そうだよ。学校で何があったかまでは俺も聞いてないし、教えてくれなさそうだけど」
「つまり本人が行きたがらなかったってことね? でも晴香ちゃんは、コーエイ君のことを学校に連れ出すんじゃないかしら」
「そりゃあそうだろ。小学生なんだから、学校には行かないと」
俺が頷くと、茉希ちゃんはまた唸った。
「コーエイ君はそんなに学校に行きたくないのかしら? 晴香ちゃんはコーエイ君を学校に行かせたい……だからコーエイ君を預かるって言いだした? それでコーエイ君は学校には行きたくなくても、これから養ってもらうわけだから言うことを聞くしかない……ってところ?」
「どうしてそんな風に思ったんだ?」
「だって、面倒見てくれるって言われた割には、本人があまり嬉しそうじゃなかったんだもの」
俺ははっとする。そうだ、コーエイはあれから一度も笑っていない。それどころか、晴香ちゃんには感謝の念すら抱いていないように見えた。
いや、心の底では少なからず感謝の気持ちはあるだろう。それを表に出せないほどの理由が何かあるんだ。コーエイは言葉足らずなせいで何を考えているのかわかりづらいけど、顔に出る感情自体はわかりやすいんだから。
「今のコーエイ君の状況で、誰かの家に居候させてもらえるって言うのは、どんな言葉よりも救いになるわ。でも、本人が喜んでいるようには見えなかった。そんなに学校に行くのが嫌なのか、あるいは何か他に喜べない理由があって……」
「喜べない理由……それって」
口にしようとしたところで、授業開始のチャイムが教室に鳴り響いた。
「残念ね。またあとで」
「う、うん……」
俺たちは互いに自分の席に戻る。教室の引き戸を開けて入ってきたのは鹿角先生。そう、これから地獄の時間が始まるのだ。
とは言っても、最近の鹿角先生はかなり大人しい。俺たちにいちゃもんをつけてくることも、ふてぶてしい態度で授業をすることもなかった。
それでも授業が始まると、教室には重苦しい沈黙が舞い降りる。ぼそぼそと話す先生の声は聴きづらく、文字も汚くてわかりづらい。何を説明しているのかわからない授業を受けるより、帰って自習したほうが明らかに学力は上がりそうだ。
俺はそんな授業を無視して、コーエイのことを考える。
茉希ちゃんに言われたように、俺はまだ心配なんだろう。でもコーエイは、すでに俺の知らないところに行ってしまっている。しかも俺の役割はあの日終わっていて、できることはもうないはずなのだ。
それが酷くもどかしい。俺はこんな状況でも、コーエイをどうにかしてやりたいと思ってしまっているのだ。からかったらすぐ拗ねたりとか、ハンバーグを年相応に頬張る姿とか、そんな姿を見ていたからなおさら。
あんな思いつめた顔でお別れなんて、嫌なんだ――――。
目の前に白い景色が飛び込んできて、あっ、と声を上げそうになった。
瞼が開くと同時に教室の風景が飛び込んでくる。その明るさに白い景色を錯覚したのだった。
つまり、俺は今の今まで眠っていた。間の悪いことに、鹿角先生の化学の時間中に、だ。
俯いていた顔を恐る恐る上げて、教壇の上を窺う。でも、先生は俺に目もくれず、相変わらず暗い表情でぼそぼそと講義を続けていた。
――――ばれなかった、のかな?
俺はそう結論付けてほっと胸を撫で下ろし、少し周りを見渡した。なんだ、居眠りは俺だけじゃなかった。午前中だというのに透はいびきを上げているし、俯いて教科書を読むふりをしながら船をこいでいる人も何人かいる。こんな状態なら俺が注意されなかったのも当然か。
授業が壊滅的だとはいえ、勉強しない理由にはならない。先生の講義がわかりにくいからこそ、自分で勉強していかないと。
それ以降は、俺は先生の話を聞き流しながら自習することにした。
コーエイのことはまだ頭をよぎるけど、自分のできることに集中して、ひとまずこの授業を乗り切ることにしよう。