晴香ちゃんの想い
雨足は朝から変わらないまま、バイト上がりの時間になった。
今日は昨日よりも従業員がいたから、仕事量が減って少し楽だったように思う。柊さんはレジから動かなくて済んだし、優希さんが接客をほとんどやってくれた。俺は昨日覚えた商品の棚出しと在庫整理を終えた後は、先輩たちの仕事の様子を見て学ぶことに専念した。
結果的には、昨日よりも感覚が掴めたと思う。これを来週も忘れないようにしないと。
倉庫で帰りの身支度を済ませた俺は、レジにいた柊さんと、苗のチェックをしていた優希さんにそれぞれ声をかけてから、「Radiant Flower」を後にした。
商店街はもともと寂れていたこともあって、雨の降る音しかしなかった。それはコーエイの家の前まで来ても変わらず、昨日のような会話が聞こえてくることはなかった。
「みんないるんだよな……?」
不安になって携帯電話を開くと、メールが一件。送信者は茜ちゃんだ。そういえばお昼の休憩からは一度も見てなかった。
「……ガスと電気がつかない?」
予想しなかったことがメールに書いてあった。他にも、お昼はなんとか済ませたらしいこと、晴香ちゃんと茅君も来ていること、今日は玄関が開いていることが書かれていた。
内容には驚いたけど、ともかくみんなはまだ家の中にいるみたいだ。俺は門を潜って庭へ向かい、初めて玄関の戸を引いた。
「みんな、いるー?」
俺は家の中に呼びかける。暗いのはみんながいないからか、電気が通らないからか、あるいは両方だ。
「お姉ちゃん?」
奥の食卓から、茜ちゃんの声が聞こえた。薄暗い中で目を凝らすと、顔を出している茜ちゃんが見えた。
「ごめん、メールに今気づいたんだ」
「そうだったんだ。とりあえず上がって? みんな奥で待ってるよ」
閉じた傘を持て余して傘立てを探すと、下駄箱の近くにあった。外の光がなかったら見つけられなかった。
「……ほんとに電気、つかないんだ?」
「うん。さっき郵便受けを見てきたら、請求書がいっぱい入ってたよ。電気とガスと、まだ止まってないけど水道も未払いみたい」
話しながら、廊下を進んで食卓に入る。
「楓、おかえり」
入ってきた俺に最初に声をかけたのは茉希ちゃんだった。
「ただいま」
俺は答えて、明かりがつかない部屋を見回す。食卓にある四つしかない椅子の一つにコーエイは座っていた。その隣は空席だったけど、テーブルを挟んで反対側には晴香ちゃんと茅君が座っていた。翔太は奥のほうで冷蔵庫に背を預けて立っている。
そして、みんなが囲む食卓のテーブルには、請求書と封筒が何通も無造作に乗っていた。
みんなが表情を暗くしているのは、明かりがつかないからって理由だけじゃないだろう。重苦しい空気があたりにのしかかっていた。
「楓は、何か聞いてないの? コーエイ君のこと、教えてもらったのは小坂って人なんだよね?」
「ごめん翔太、俺もメールで連絡はしてるけど……」
「もしかして返事がないの?」
「向こうは忙しくて、なかなか返せないんだ」
「そんな……保護責任者とかじゃないの?」
「ちがう」
答えたのは俺じゃなく、コーエイだった。
「小坂さんは俺にとって赤の他人だ。色々と世話をしてくれたけど……あの人に責任はないよ。お金の問題ならなおさら、俺の家の問題なんだ」
「でも、コーエイ君のことを知っているんだよね? その……今の状況をさ」
翔太が続けたので、コーエイの言いたいことを引き継いだ俺が説明に回る。
「コーエイが今の一人暮らしをしているって知ったのは、小坂さんもつい最近なんだよ。その前から仕事で海外にいたから、支援が難しい状態だったんだ。じゃなきゃ、俺なんかに頼んだりしないで、自分で世話しに来るだろ?」
翔太の言いたいことはわかる。状況を知らない翔太からすれば、小坂さんもコーエイの世話を放り出して逃げた大人に見えなくもない。
「そういうことか……ごめん、早とちりだった」
「いいんだ、説明してなかった俺にも落ち度はあったと思うから」
「それで、具体的にはどうする、これ?」
お互いに謝って和解したところで、茉希ちゃんが再び問題を提示する。
「誰かがお金を振り込めば簡単なんだけどね……」
「うん……でも、その場凌ぎでしかないと思う」
確かに茉希ちゃんが言うように、光熱費や水道代についてはそれで解決できる。でも根本的には、コーエイが一人暮らしをする現状そのものが問題なのだ。
お金のこと、学校のこと、この家での普段の家事のことだって。山積みになった問題を片づけようにも、俺たちじゃ荷が重すぎる。
「……ちょっと待ってて」
俺はそう言って食卓を離れる。電話をかけるためだ。俺たちでは無理な以上、大人を頼るしかなかった。
まずはアドレス帳からおじさんの名前を見つけて、発信ボタンを押す。コールが何回か鳴ってしばらくすると、向こうから留守番電話サービスのボイスが流れた。
望み薄だけど、次に母さんの番号にかけてみる。でも、こっちもコールが延々と鳴るだけで、母さんには繋がらなかった。
「やっぱ出られないか……」
仕方がない。俺は肩を落としながら電話を閉じて、みんなのところに戻った。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
「電話をかけたんだけど……小坂さんにも、おじさんにも繋がらなかった」
「そっか……」
茜ちゃんも顔を俯かせる。俺たちの様子を見て、茉希ちゃんが尋ねて来た。
「おじさんは頼れるの?」
「聞いてみないとわからない。そうそう無碍にはしないだろうけど……」
「可能性も曖昧ね……」
それには返す言葉がない。実際、おじさんの許可が取れるかなんてわからなかった。それでも相談さえすれば、何らかのアドバイスはしてくれると思っての判断だ。
「今回はゆっくり悩んでいる暇がないんだ。自分たちでわからないことは大人に聞いて行かないと」
「それなんだけどさ」
再び翔太が声を上げて、みんなの注目を集める。
「市役所とか児童相談所とかに持ち掛けるのは、どうなのかなって」
「あ……」
提案を理解してから、俺はそんな声を発した。馬鹿なことに、今まで思いつきもしなかったのだ。
小学生の一人暮らしが異常だと認識される理由。それは、本来保護・育児をするべき親がいないから。だとしたらこの問題は、立派な育児放棄に当てはまる。
母さんの返事を待ったり、おじさんに相談を考える以前に、そうすればよかったんじゃないか?
「それはすでに話を通していますわ」
黙っていた晴香ちゃんの一言が、思考を停止させた。
「わたくしの父を通して、数日前からそういった公的機関への相談を持ち掛けていましたの。結果はご覧の通りですわ」
「……動いていないってこと?」
「いいえ、わたくしが頼んで待ってもらっているのです」
「それはどういうこと? 晴香ちゃんはコーエイがこんな状態なのを知っていて、どうして……」
「もし動いていたら、コーエイはどこかの児童養護施設に預けられることになりますわ」
「それのどこがいけないのさ?」
「っ」
晴香ちゃんは質問しかけた翔太を責めるように睨んで、それから言葉を続けた。
「……あなたは、ご自分がコーエイの立場になったときのことを、少しでも考えたことがありますの? 親が去って、知らない大人に連れられ、どこかもわからない場所に独りで行く気持ちを考えたことが?」
晴香ちゃんのそれは、冷静なように見えて痛いほどの感情が込められている。小学生の女の子の静かな怒りに、俺たち高校生は息を呑んだ。
晴香ちゃんの言うことが本当で、公的機関がしかるべき対処に動いた場合、コーエイはここを離れてどこかの児童養護施設で生活することになる。それは世間一般からしても当然のことで、翔太が思ったように決して悪いことじゃない。
でも、コーエイの気持ちを考えたとき、果たしてそれは最善と言えるのか。
親に残された不安と孤独を抱えたまま、知り合いもいない場所に行けって言われたら、どんな気持ちになるか。
「それもわかって言っているのなら、あなたたちは敵ですわ。これ以上、コーエイと関わることはわたくしが許しません」
晴香ちゃんはコーエイの気持ちまでしっかり考えて行動しているんだ。
「……晴香ちゃんの考えはわかったよ。でも、結局のところ解決策がないのはどうすればいいのさ?」
「一つだけ、方法があります」
晴香ちゃんはちらっとコーエイを見た後、俺たちに向かって短く言った。
「わたくしの家でコーエイを預かります」
隣にいるコーエイは、もう言葉を口にしなかった。