初めてのアルバイト
翌日、土曜日。
今日は待ちに待ったアルバイトの初日だ。出勤時間は朝の十時。身支度と移動時間も考えて、八時半にはもうベッドから起き上がっていた。
トイレと洗顔を済ませ、着替えに取り掛かる。服装は動きやすいように、メインはTシャツとジーパンだ。体力仕事もあるはずなので、スカートは極力控えることにした。その上から薄いカーディガンを羽織り、大まかな身支度は完了。それから朝食を食べるためにリビングへ下りた。
「はい、アルバイト頑張って?」
朝食の前に、茜ちゃんからお弁当を渡される。
「ありがとう、茜ちゃん」
すっかりお昼ご飯のことを忘れていた俺は、これ幸いとお弁当を受け取った。最近は何かと出費も多いので、お昼代が浮くのはかなり助かる。
しっかりめの朝食の後は身嗜みを整えて、いよいよ出かける支度をする。忘れ物がないか、格好におかしなところはないか。そわそわしているうちに時間になった。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
茜ちゃんに見送られ、俺は北見家を出発した。
すっかり慣れたルートで電車とバスに揺られ、俺はペイスへ辿り着いた。さすがに何度も来ただけあって道順は慣れてしまったけれど、休日の朝は人が少なくて、車内がかなり空いていたのが新鮮だった。
ペイスが開いて間もないこともあり、中も同じように人は疎らだった。不思議な感覚を覚えながら、俺は一階を突き進み「Radiant Flower」へ急いだ。
店先が見えてくると、まだ準備中なのか、二つあるシャッターが片方しか開いていなかった。出入り口を覆うほどの鉢もまだ出ていない。そこへ向かって進む途中、菊池さんが鉢を抱えて出てきたのを見つけた。
「おはようございます、菊池さん」
俺が声をかけると、振り返った菊池さんが人懐っこく笑った。
「おはよう、楓ちゃん。今どけるから、ちょっと待ってね」
出入り口に辿り着いてみると、中は鉢でいっぱいだった。これをどけないと中に入れないらしい。よく見ると、菊池さんもまだエプロンをつけていなかったし、菊池さんのらしい荷物も近くに置かれていた。
「俺も手伝います」
「そんなわけには……いや、それじゃあ、お願いするね」
言葉を濁らせた菊池さんは、今日から俺も働きに来たことを思い出して、申し出を素直に聞き入れてくれた。俺も適当なところに荷物を置いて、バケツリレーの要領で菊池さんと一緒に鉢を店先に出していく。役割分担して、俺は店の中から鉢を出し、それを受け取った菊池さんが店先に配置していった。
植えてある植物を傷つけないようにするために極力触れないように運ばないといけない。鉢を抱えたり下ろしたりするのに何度も中腰にならなきゃいけないし、けっこう重いので早くも額に汗が滲む。
対する菊池さんはさすがに慣れてるのか、表情一つ変えずにホイホイと鉢を並べていく。一見ほっそりしているように見えるけれど、腕とかの筋肉はかなり鍛えられてるみたいだ。何回か触ってるから、俺もよく知っていた。
「楓ちゃん、大丈夫? 力仕事だから、無理しなくても……」
「え? あ、はい、大丈夫です!」
顔が赤くなっているのを悟られたらしい。でも力仕事のせいだと思われたみたいで、運がよかった。人の筋肉を想像して赤くなるなんて、一体いつからこんな変態になったんだろうな、俺は……。
それからはひたすら無言で鉢を運び続け、五分くらいで店の中の鉢をすべて出し終えた。これでようやく奥の倉庫まで行けるようになった。
「よし、こんなものかな。出だしから力仕事でごめんね、楓ちゃん」
「あ、あはは……大丈夫ですよ。菊池さんはいつも、一人でやってたんですか?」
「お店の鍵を持ってる僕か店長が日替わりでやってるんだ。これは自動的に、お店を開ける人の仕事になっちゃうから」
「なるほど……ってことは、今日は菊池さんと俺だけなんですか?」
「いや、後で店長も来るよ。お店を開ける日は基本的にあの人は毎日来るからね。さて、そろそろ中に行こうか」
菊池さんが荷物を持ってお店の中に入っていくので、俺も自分のを拾い上げて追いかける。片方のシャッターはまだ閉まったままだ。開店自体はどうやら十時半かららしい。
明かりをつけていない薄暗い店内を進んで、菊池さんと一緒に倉庫へ入る。ガサゴソと棚を漁った菊池さんは、たたまれた服みたいなものを俺に差し出した。
「とりあえずエプロンはこれね。あ、名札もあげるから、ペンで名前書いてね」
「はい」
荷物を置いて、菊池さんからエプロンと名札、ペンを受け取る。机の上で名前を書いているうちに、菊池さんはエプロンをつけて準備を済ませていた。
「できた?」
「あ、はい」
「じゃあエプロンつけて、名札を左胸につけておいてね。着方はわかる?」
「大丈夫です」
「僕は店周りの掃除してるから、準備できたら出てきて。あ、一応、貴重品は自分で管理するようにね?」
「はい」
菊池さんはそう言って倉庫を後にする。紺色のエプロンは新品らしく、ポリエステルの生地が菊池さんのものよりへたっていなかった。
俺は自分の髪をいつものポニーテールに纏めてから、その新しいエプロンをつける。それからパリッとした生地の左胸に安全ピンを通して名札を留める。自分の姿を見下ろして、少し気持ちが高ぶってきた。
「……よしっ」
格好から入るとなんだか緊張もしてきたので、ここで気合を入れておく。菊池さんの話をよく聞いて真面目にやれば大丈夫なはず。とりあえず失敗はしないようにしないと。
貴重品は鞄に入れたままだけど、お客さんがここに入ってくることはないし、大丈夫だろう。俺は隅っこのほうに荷物を寄せて、倉庫を後にした。
出てみると菊池さんが見当たらない。照明がついて明るくなった店内をきょろきょろしていると、出入り口のシャッターがガラガラと開いた。どうやら外にいたらしい。
「菊池さん、着替え終わりました」
「ん、すぐ行くよ」
シャッターを開けきった菊池さんは、置いてある鉢の周りを迂回して店内に戻ってきた。
「ん、サイズもいい感じだね、エプロン」
「あ、はい。わざわざありがとうございます」
「まあ、必要経費だからね。あ、ちょっと動かないで?」
「え?」
菊池さんは首を傾げる俺の正面に立つと、いきなり近づいて片膝をついた。条件反射で身体を逸らしそうになったけれど、ぐっと堪えて行動を見守る。何をするかと思えば、菊池さんは手を俺の胸の名札に添えた。
「少しだけ斜めになってるから、微調整してあげる」
「は、はい……」
あまりの近さと不意打ちにどぎまぎしながら答える俺。でもよくよく考えてみると、これは身嗜みを整えてもらう子供と保護者の図だ。身長差のせいもあるけれど、菊池さんが俺を子供扱いしている可能性は捨てきれない。
ううん、そう考えると冷静になってきた。というか興奮まで冷めてどっか行った。いわゆる何かを期待した自分が馬鹿みたいだ。
「はい、できたよ」
「ありがとうございます」
名札が水平になって、菊池さんが何事もなかったように離れていく。まあ、実際に何事もなかったんだけれど。
「じゃあ早速だけど、楓ちゃんに最初の仕事をやってもらうね」
「はい」
気を取り直して、アルバイトに集中。俺は仕事をくれるらしい菊池さんの後についていった。
「ふふ、楓ちゃんお疲れさま」
お仕事に没頭していると、いつの間にやら午後一時になっていた。途中から来た柊さんも加わって一段落ついたので、今は倉庫でお昼の休憩中だ。
「お仕事やってみて、どう?」
「想像以上に楽しいです。まあ、まだ難しいことをやってないので、これからはわからないですけど」
今までやったことと言えば、商品の棚出し、在庫確認、それから簡単なお客さんの対応。レジはほとんど菊池さん任せで、生花・植木鉢の管理も同様。だから、俺はほとんど花には触っていなかった。
一流レストランでシェフを目指すには、まずその店のウエイターから極めろ、みたいな話を聞いたことがあるけど、そんな感じなんだろうか。今日入ったばかりの新人にデリケートな植物を触らせるのは、ちょっと心配かもしれない。レジに関してもお金のことだから、間違えられたらたまったものじゃないだろう。
そんな風に考えて、初日は雑用みたいな軽い仕事ばかりになるのも割り切ることにした。期待されて責任のある仕事が来るのはもちろんいいことだけど、失敗することを考えると俺も不安ではある。まずは小さい仕事からこつこつやって、自信をつけていこう。それと、体力つけないとな。
茜ちゃんお手製のお弁当を食べながら思っていると、倉庫のドアが三回ノックされた。柊さんが「どうぞ~」と言うと、菊池さんが少し遠慮がちに顔を覗かせた。
「店長、先生がお店に来てますけど」
「あ~、ありがとう。今行くわね」
柊さんは立ち上がって、菊池さんと入れ替わるように倉庫を後にする。
「あの、先生って?」
「ん? ああ、楓ちゃんは知らないんだったね。簡単に言うとこのお店のスポンサーみたいな人だよ」
「スポンサーですか……先生って呼んでるってことは、かなり偉い人なんですか?」
「先生って呼んでるのは、僕の高校の先生でもあるからなんだ。まあ、そこから起業して成功してるから、偉い人なのは間違いないけど……ついでに言うと、店長の旦那さんでもあるよ」
「へぇー……え?」
一気に情報が入りすぎて、よく理解しないまま相槌を打とうとしたけど、よく考えてみるとすごい話なんじゃないだろうか。ぽかんとしていると、柊さんが戻ってきた。
「ごめんね二人とも。ちょっと出ることになっちゃった」
「大丈夫ですよ。閉店前には戻ってきますよね?」
「もちろんよ。何かあったら連絡ちょうだい。それじゃあ、楓ちゃんを任せたわね、菊池君」
「わかりました」
何が何だかわからない俺を蚊帳の外に、二人が会話を終わらせる。柊さんは自分の手荷物を纏めて、また倉庫を後にした。
「それじゃあ楓ちゃん、休憩が終わったらまたお仕事、よろしくね」
「あ、はい……」
倉庫のドアが閉められて、静寂の中に一人でぽつんと残される俺。
想像以上にこのお店、忙しいみたいだ。少しでも二人に頼られるように、俺も早く仕事を覚えよう。難しいことはわからないけれど、このお店の力になりたいって気持ちは、あの時から変わってない。
水筒のお茶を一口啜って、俺も休憩から仕事に戻ることにした。