コーエイと透
次の日も、俺は帰宅してすぐに着替えて、コーエイの家に向かった。
相変わらず家の門は少し開けてあるだけで、庭には入れても家の中には入れない。仕方なく、晴香ちゃんがやったように縁側の雨戸を開け、ガラス戸をバンバンと叩いた。
しばらくすると襖が開いて、居間から寝ぼけた顔をしたコーエイが出てきた。俺を見るやいなや驚いた表情をしたのが面白かった。
「おっす、コーエイ」
「ほんとにまた来たのかよ……」
「ほったらかしにすると荒れそうだったからな、この庭みたいに。しばらくは俺が面倒見てやるつもりだ」
「頼んでねえよ、そんなこと」
「あえてそう言うってことは、断らないってことでいいよな?」
「あんたなぁ……」
今日はちゃんと布団で寝ていたのか、寝癖のついた頭を掻きながらガラス戸を開くコーエイ。
「お邪魔します」
一応そう言ってから、俺は縁側から中に入った。まず初めに昨日作ったスープの残りをチェックする。毎食分食べていたのか、量はかなり減っていた。一人なら数日持つかと思ったけど、晴香ちゃんや茅君にも分けていたし、減りが少し早いな。小学生男子の胃袋を舐めてたかもしれない。
「そういえば、今日はまだあの二人、来てないんだな?」
「毎日来るわけじゃねえよ」
まあ、お嬢様ってくらいだし暇じゃないだろう。習い事とかやってるかもしれないし。でも、それならそれで今日は好都合だ。
「コーエイ、今日はちょっと買い物に行こう」
「は? 買い物?」
「お前、一人暮らしするんだろ?」
「そう、だけど……」
「それなら買い物だって出来なきゃいけないし、料理もしないと駄目だ。だから俺が教えてやるよ」
コーエイは迷う素振りを見せた。
「……ちょっと待ってろ」
ぽつりと言って、居間のタンスを漁り始める。なんだかよくわからない紙を撒き散らしながら、奥から革の財布を取り出した。
「ああ、財布を探してたのか」
「あんまり、入ってないけどな」
「心配しなくていいよ。足りなかったら俺も出すし」
軽い気持ちで言ったつもりだったんだが、コーエイにとってはかなり驚いたらしい。目を丸くして俺のほうを見た。
「なんでそこまでするんだよ? お前にとって、俺の面倒を見ることに何の得があるんだ?」
「いや、得かどうかなんて関係ないよ。あるとすれば俺の自己満足くらいだ。個人的にコーエイがこのまま一人暮らしするのを、心配で黙って見ていられないだけ。俺が一人暮らしし始めた時とはわけが違うからさ」
コーエイは俺の言葉にさらに驚いた。
「お前も一人暮らししてたのか?」
「あ、言ってなかったっけ。まあ、そんなところ。それに母さ……じゃなかった、小坂さんの頼みでもあるし」
今の母さんとの立場はややこしいので、一応言い直しておく。気づかなかったのか、コーエイはそれには突っ込まずに、さらに考え悩む顔つきをした。
「理由としては、不服だった?」
「……いや、信じる。小坂さんには俺もたくさんお世話になったんだ。その人がお前に頼んだって言うんなら、信用できるよ」
どうやら信用はしてもらえたみたいだ。けど、母さんがコーエイの世話をしたっていうのは、初耳だ。
昨日送ったメールの返信はまだ来ていない。聞きたいことはいっぱいあるけど、コーエイから聞くのはどうも気兼ねしてしまう。いったい母さんとコーエイの間には、どんな関係があるんだろう?
コーエイを連れて駅の方面へ出かけた。コーエイの家の付近の商店街は、寂れてお店もほとんど閉まっているけれど、幸い駅前の繁華街には近かった。逆に言えば、商店街が廃れた理由もそこにあると思うけれど。
「コーエイは何が食べたい?」
「カップ麺以外」
「そりゃもちろん。それと、野菜は取ってもらうからな」
「……野菜より肉がいい」
コーエイが苦い顔をしながら言う。野菜より肉なんて、こういうところは年相応の男の子だな。それともスープのおかげで野菜には飽きたのか。
コーエイとの会話で微笑ましくなりながら、俺たちはスーパーに入った。ちょうど夕方で、タイムセールもやっている。カゴが重くなることも考えてカートを使うことにしたけど、普段より人が多いから動きづらいかも。
とりあえず精肉売り場に到着したので、適当にセール品を見て回る。どうやらひき肉が安いらしい。
「ハンバーグはどう?」
「おう、食いたい」
俺の問いに即答するコーエイ。表情の変化は乏しいけれど、けっこう嬉しそうだ。今日だけじゃなく明日の食材も考えて、ひき肉以外も選んでカゴに入れていく。
「今更だけど、好き嫌いってある?」
「子ども扱いすんな。何でも食うよ」
「そうか、えらいな」
俺はそう言って、思わず近くにあった頭を撫でてしまう。
「何してんだ?」
「何って、褒めてるんだけど?」
頭を撫でられたコーエイは、きょとんとした顔で俺を見上げてくる。天邪鬼でももう少し喜ぶかと思ったけど、どうやら様子が違う。
「もういいだろ? くすぐったい」
「お、おう、ごめん」
鬱陶しいとでも言うかのように頭を振ったので、俺は乗せていた手を下ろす。
「どうしたんだよ、ボケっとして。野菜は買わねえのか?」
「いや、買うよ」
コーエイは呆気に取られている俺を急かすようにカートを引く。立ち塞がる人を分けてくれるので、進むのもスムーズだ。おかげで難なく野菜売り場に辿り着いた。
好き嫌いはないという言葉を信じて、常温保存の利く野菜を選びながらカゴに入れていく。特にタマネギは色んな料理に使えるから、多めに買うことにした。
その他にも朝食用の食パンや牛乳、ジュースなんかをカゴに追加しながら、一通りスーパーの中を回る。
「コーエイ、重いけど持てるか?」
「任せろ。ふぬっ……!」
意気込んで掴みかかったものの、米十キロは小学生には重すぎるか。かと言って俺も持てないし……。
「無理なら今度、誰かに頼むしかないか」
「無理じゃねえよ、ちょっと待ってろ……むぐうぅ!」
コーエイが踏ん張ると、かろうじて米袋が持ち上がった。びっくりしたけど、それでもこれを持って帰るのはやっぱり無理だ。カゴの中にある荷物を持つだけで、たぶん俺たちはいっぱいいっぱいだろうし。
「お前、楓か? こんなところで何やってんだ?」
ふと聞き慣れた声がして振り返ると、見慣れた坊主頭の男子が私服姿で立っていた。
「え? とっ、透!? どうしてここに?」
「どうしてって……お遣いのやり直しだよ。ここって俺んとこから近いからな。ところで豆腐って二種類あるけど、何がどう違うんだ?」
透の目的は豆腐らしい。さては木綿と絹ごしを間違えたな。
「いや、そんなことよりちょうどよかった。透、ちょっと運ぶの手伝ってくれない?」
「はあ? 何で俺が……」
「頼むよ。お米は俺もコーエイも持てないみたいだからさ」
「あ? コーエイって誰だ?」
透が知らないのも無理はない。俺は後ろで必死に米袋を持ち上げてるコーエイを指差して紹介しようとした。
「あっ、お前」
俺が口を開くよりも先に、透の口から言葉が突いて出る。すぐにコーエイも透のことに気づいて、「げ」と短く声を漏らした。
「え、透、知り合いだったのか?」
「俺んとこの教え子だ」
「教え子? 透って先生やってたの? 一体何の……って、待って。そんな怖い顔しないで」
透が先生って何の冗談だろう、とはさすがに口にはしなかったけれど、考えを悟られたのか透は凶悪な目つきを俺に向けていた。慣れてる俺だからよかったものの、耐性のない人だったら卒倒するレベルの睨みだ。
「俺のことをなんだと思ってんだよ……。教えるっても勉強じゃねーよ、柔道だ。俺んとこ、家は道場やってんだよ」
「そうなんだ、知らなかった」
そういう話なら、逆に透のイメージにぴったりですんなりと納得できた。で、コーエイとは道場を通して会うわけだから、透も面識があったってことか。
「んで、なんでお前らが買い物なんかしてんだ?」
「ちょっと深いわけがあって。気になるならついてくる?」
「まあ、俺は暇だからいーけどよ」
透はお使いのことをすっかり忘れたらしい。でも、手伝ってもらえるなら好都合だったので、あえて掘り返すことはしなかった。
スーパーの外に出ると、もう空は鮮やかなオレンジに染まっていた。日は長くなったけど、夏はまだまだ先って感じだ。
「なんかごめんね、ちょっと買いすぎたかも」
「別にいーけど、よっと」
透という荷物持ちが増えたので、つい欲張ってしまった。俺とコーエイは袋を一つずつ持っているけど、透は米袋一つと牛乳、野菜の入った袋も持っている。それでもふらつく素振りも見せない。
「さすが体育系男子は違うな」
「当たり前だ、鍛えてんだから」
何でもないことのように言って、袋を抱え直す透。でもちょっと照れているのがわかったのは、わざわざ俺から顔を逸らしたからだ。
「俺だって鍛えてんだよ、もう一つくらい持てる」
俺たちの会話を聞いてムキになったのか、コーエイが透の手から袋を一つひったくった。ここにきて負けず嫌いの一面を見せてくれるとは、子供って微笑ましい。
「何言ってんだ。お前、二ヶ月くらい全くうちに来てねーだろーが」
「えっ、二ヶ月も?」
驚いてコーエイのほうを見る。二ヶ月行ってないなんて、習い事にあるまじきことだ。
「突然だったから、もうやめたんだと思ったぜ。でも親父が言うにはお金が振り込まれ続けてたらしいから、近々どうするのか聞きに行こうと思ってたんだ」
「お金のことは、俺はよく知らねえ。けど……もう道場には行かねえと思う」
コーエイはそれだけ言って、俺や透よりも先を歩いていく。その背中を見ながら、透がぽつりと言った。
「あのこと、まだ気にしてんのか」
「あのことって?」
聞いてみるけど、透はちらとこっちを見ただけで、またコーエイに視線を戻した。コーエイが気にしているくらいだから、聞くのは野暮だったかもしれない。本人がいる手前ではなおさらだろう。
無言で歩いているうちに寂れた商店街に戻って来て、やがてコーエイの家に戻ってきた。透には荷物を台所まで運んでもらって、俺とコーエイは食材を冷蔵庫や戸棚に収納していく。今更ながらほんと、けっこうな量を買ったな……。
「コーエイ、スープはまだ残ってるか?」
「あー? 一応、明日の昼までは持つと思うけど」
鍋の蓋を開けながらコーエイが答える。
「悪いけど、明日までそれで我慢してくれ。今日はもう料理する時間がない」
俺の目線を追ってコーエイも時計を見る。もう少しで門限の時間だった。
「料理を教えるのは明日からだな」
「別にいいよ。すぐには困らねえし」
コーエイだけで準備できる食事をいくつか買ってきているから、万が一スープがなくなっても大丈夫だろう。俺は一通り食材を片づけ終わると、透を連れて縁側から庭へ出た。コーエイも縁側まで出て見送りしてくれるらしい。
「また明日来るよ。戸締りしっかりな」
「……わかってるよ」
俺たちが縁側から離れると、コーエイは雨戸とガラス戸を閉めてしまった。
「あんな冷たいやつだったかなあ、あいつ」
家の門を潜りながら、透は首を傾げて呟いた。
「どういうこと?」
「あー、なんつーかさ、うちに習いに来てた時のほうが礼儀正しかったって言うか、ちゃんとしてたイメージがあるんだよな。あんまり笑ったり怒ったりしないのは今も変わってねーけど」
「えっ? コーエイってああ見えて表情豊かだよ? わかりづらいけどさ」
「そうか? いつ見ても俺にはぶすっとしてるようにしか見えねーけど……」
俺の言葉を聞いて首を傾げる透。どうやらコーエイの表情の変化は、透には見分けられないものらしい。もしかしてさっきの別れ際も、コーエイが照れていることに気づかなかったんだろうか。何に照れているのかは俺もさっぱりわからないけど。
「でも、コーエイはいい子だと思うよ。ちょっと不器用だけど子供らしいところもあるし、曲がりなりにも今はしっかり一人暮らししてるんだから」
「一人暮らしかー。最初聞いた時は冗談かと思ったけど、ついて行ったらマジだもんな。びっくりしたぜ」
スーパーで買い物をしている時に、コーエイについて俺が知っていることは全部話してある。おかげで透は荷物運びも最後までやってくれたし、俺もコーエイも非常に助かった。
「でも、まだ小学生だから心配なんだ。できる範囲で助けてあげたいけど、今日みたいにどうしようもないことがあるかもしれない。その時はまた頼ってもいいかな?」
「そう言われたら断れねーよ……まあ、俺にできることがあったら呼べばいい。俺にとっても無関係な奴じゃねーし、親父にも相談してみっから」
「ありがとう」
二人でコーエイのことを話しながら、暗い商店街のアーケードを抜ける。暗くなってきたので、その日は透に家まで付き添ってもらった。
ちなみに余談だが、透はそれ以来お遣いを頼まれなくなったらしい。それが良かったのか悪かったのかは、俺にはわからなかった。