母さんからのお願い
ペイスの「Radiant Flower」を訪ね、サルピグロッシスを植え替えた日曜日から数日経った。
写真の一件から学校は落ち着きを取り戻し、俺に向けられる視線も徐々に少なくなっていった。下校中につけ回されることもなくなったのだが、登下校は五人で一緒にするのが習慣になってきていた。それについてのお礼はもう口癖になるほど言ったので透には鬱陶しがられている。俺としてもみんなと一緒にいられるのは嬉しかったので、今では何も言わなかった。もちろん、感謝の気持ちは忘れないようにしている。
先生たちからの評価も戻った――というよりは上がったようで、事あるごとに話しかけられては激励の言葉を貰うことがよくあった。騒ぎのことよりも、テストの成績が印象に強く残ったのかもしれない。それも榊先生が俺のために頑張ってくれなかったら、たぶん違う結果になっていたと思う。
榊先生には真っ先にお礼を言いに行った。言葉だけになってしまったけれど、先生はそれでも満足そうに頷いて「これからも頑張れよ」と返してくれた。恩を仇で返すことはしたくないので、頑張ろうと思った。
そして警戒すべき鹿角先生だけど……今のところは大人しくしているようだ。未だに俺や榊先生、果ては一緒にいるみんなを目の敵にしているみたいだったけど、授業も普段通りだし、すれ違いざまにいちゃもんをつけられることもない。事件のことも蒸し返したりしなかったから、ひとまずはほっとした。
こんな感じで、ようやく平凡になった日常を自室で思い返していると、母さんからの電話がかかってきた。
「Hi! 楓、元気?」
「母さん。どうしたの、急に電話なんて。いつもはメールなのに」
写真のことがあってからは、母さんとは一日一回のメールのやり取りをするようになった。俺からの送信より母さんからの返信のほうが少ないのは相変わらずだけど、忙しい中で返してくれるようになっただけでも大きいことだった。もちろん、事件が落ち着いたこともアルバイトができるようになったことも、母さんには報告済みだ。
「自分の娘の声を聞きたいって思うのは親として当然のことよ」
「なんだ、そういうこと」
「まあ、ついでに連絡っていうか確認っていうか……」
なんだか母さんの歯切れが悪い。どう伝えたものか、言葉を選んでいる感じだ。もうそろそろお風呂が沸く時間だから、茜ちゃんに呼ばれるまでに話を終わらせてほしいんだけど。
「らしくないなあ。言いたいことがあるなら遠慮しないでよ」
「実はね、頼みたいことがあるのよ。先に予定を確認したいんだけど、アルバイトが入ってない週末って作れそう?」
「うーん、一日中予定を入れないってことはできないと思うけど……おじさんに定期健診をお願いしている日なら、午後から空くと思うよ?」
「それっていつになりそう?」
「六月初めの土曜日かな。二週間後だよ」
次から定期健診は月一回に減らしてもらえることになっていた。第一週の土曜日に固定してもらえたおかげでアルバイトのシフトも組めるようになったけど、逆に言えばその日だけはアルバイトに行く時間がない。だから予定を入れづらい日でもあるけれど。
「それで、頼みたいことって何? 空くのは半日だけだから、内容によってはできないかもしれないよ?」
「半日も空くなら十分よ。ちょっとだけ知り合いの家の様子を見てきてほしいの」
「知り合い?」
「ええ。住所は後でメールするわ。歩いて行けるところだから安心しなさい。あんたがその日に訪問することも伝えておくから」
「それならいいけど……知り合いって誰のこと?」
母さんの知り合いなんて、樹おじさんしかいないと思っていた。ほとんどを海外で過ごすんだから、他に繋がりのある人なんて、俺には思い当たらない。
「えーっとね……仕事でもよく一緒になった人でね、あたしも今はどこに行ってるのかわからないんだけど……」
「同僚の人の家?」
「そうそう。その人もほとんど海外にいて、長いこと家を空けてるのよ。えっと、最近になって一度日本に帰ったんだけど、そこでちょっとトラブルがあってね。その人には小学生の男の子がいるんだけど、海外に連れて行けずに、仕方なくその子を家に残しているんだって。一人で」
「へー……一人で!?」
小学生が一人暮らし!? 俺も今までほとんど一人暮らしだったけど、茜ちゃんとお隣同士だったし、何かあったらおじさんを頼ることもできた。家に一人でいることになったのも中学生くらいからだ。それが小学生から一人暮らしなんて、かなり無茶じゃないか。
「だ、大丈夫なの、その子?」
「幸い気にかけてくれるお友達の家族がいるみたいだから、何かあったら頼るようには行ってあるけど……あまり連絡が取りづらい相手でね。その人もかなり心配しているのよ。それで、あんたに様子を見てきてほしいの」
「……家にその子だけになってからどれくらい経ってるの?」
「もう二ヶ月になるかしら」
「じゃあ明日にでも行ってくるよ。早いほうがいいでしょ?」
「そうだけど……あんたも忙しいんじゃないの?」
「放課後は特に何もないよ。夕方遅くならなかったら大丈夫。だから俺に任せといて」
小学生なのに一人暮らしなんて早過ぎる。ちゃんとしたものを食べてるのか、独りで心細くないか、その子の親でなくても心配だ。
「わかったわ。あんたが行くってこと、あたしからも電話してみる。お願いね」
母さんも心配を隠せない声で言って、通話が終わった。
次の日、俺は母さんからのメールに書いてある住所を元にその家を探していた。そこは最寄りの駅から少し離れたエリアで、少し前に寂れてしまった商店街の近くだった。雨除けのアーケードだけが残っていて、周りのお店はほとんどがシャッターを閉めている。そんな人気のない通りから脇に逸れて、高い塀が続く小道に入った。
ちなみに今日は俺一人で来ている。個人的なことに付き添ってもらうのも悪い気がしたので、みんなには言っていないのだ。茜ちゃんだけは知っていたけど、家事が残っているので仕方なく家に残った。代わりに門限を守ることを固く約束させられて、万が一のために防犯ブザーも持たされた。
けど、こんな人気のない場所で鳴らしたところで、誰が駆けつけてくれるやら。不安が募る中、小道を進んでいると、足元から黒い影が飛び出した。
「うわっ! あ……なんだ、猫か……」
野良らしき黒猫が追い抜きざまにちらりとこっちを見て、さっと左に消えた。追うようにその場所に辿り着くと、そこには日本家屋の門が一つだけあった。
「こんなところに家が……」
表札を見ると、なんと母さんから聞かされていた知り合いの家だ。こんなところに住宅があるってだけでびっくりなのに、まさか探していた家だったとは。なんだか狐につままれたような感じだったけど、ひとまず目的地には着いた。人気のない小道に長くいたくはないので、早く男の子の様子を確認して帰ろう。俺は門の横にあるインターホンを押した。
「……誰もいないのかなあ」
中からは物音一つ返ってこない。門の扉は少しだけ隙間が開いていて、たぶん黒猫はここから入ったんだろう。思い切って中を覗いてみると予想通りで、さっきの黒猫が玄関前で毛繕いをしていた。
野良だって決めつけていたけど、ここの飼い猫なんだろうか? でも家の中に入らないし、どうなんだろう? 首輪はついてないけど……って、そんなことより、本当に誰もいないのかな。
「ちょっとあなた! 何をしているんですの!?」
「ふあっ!?」
後ろから甲高い声が耳に飛び込んできて、思わず全身をびくりとさせてしまった。振り返ると、ノースリーブの白いワンピースを着た小学生くらいの女の子がこちらを睨んでいる。驚いたことにその瞳はグリーンで、ハーフアップになっている髪もかなり明るいブラウン。外国人かと思ったけれど、全体的に東洋人らしい丸みも感じられたから、ハーフということだろうか。
「怪しい人ですわね! よからぬことを企んでいるのなら、今すぐ通報しますわよ」
「つ、通報っ? いや、ちょっと待って、俺はただこの家に用があって……!」
「用ですって!? やっぱり何か企んでいたのね! 覚悟なさい、すぐにガードマンをここへ――あたッ!?」
ぽこん、という音がしたかと思うと、勢いで捲し立てていた女の子の顔が急に下を向いた。その後ろには、絶妙な高さで手を掲げたままの男の子が無表情で立っている。どうやら女の子は、後ろにいた男の子に後頭部を叩かれたらしかった。こちらは小学校の制服なのか、黒い子供用のジャケットとズボンを身に着けていた。
「な、茅ッ!? あなたバトラーの身でありながら何をしますのっ!?」
「早とちりはよくないよ、お嬢。このお姉さんが怪しい人でも、よからぬことを企んでるかなんてわからないでしょ。もし本当にそうなら、見つかった時点ですぐに逃げると思うよ、ボクは」
すごい剣幕で怒鳴りつける女の子を、ちょっと辟易しながらも諭すように言う男の子。というか、バトラーって確か執事って意味だよな? 男の子も「お嬢」って呼んでたし、もしかしてお嬢様とその執事ってこと?
「ねえ、お姉さん」
「はっ、はい!?」
想像もしなかった登場人物に唖然としていたら、急に呼ばれて声が裏返る。
「この家に用があるって、何が目的なの? 場合によっては本当に警察呼んじゃうけど」
「いやいや、勘弁してくれ。俺はただここに住んでるっていう男の子に会いに来ただけだ……けど、君がそうなのか?」
「いや、ボクじゃないよ。もしかして、コーエイのこと?」
「そうそう、確か光栄君って名前の子。知り合いの人に頼まれて、一人暮らしの様子を見てきてほしいって言われたんだよ」
二人と邂逅したことで脱線しかけたけど、ようやく本題に戻ってこれた。
「君たちはその、光栄君のお友達?」
「その通りですわよ。あなたがどこの誰かは存じませんが、事情はわかりましたわ。そういうことなら、一緒に参りましょう」
「参るって……?」
「決まってますわ」
ハーフの女の子が得意げに胸を張ると、門の扉に視線を移す。たぶん中に入るってことだろう。でも、インターホンを鳴らしても反応がないし、単に留守なのかもしれない。家主がいないのに勝手に入るわけには――なんて思っている傍から、豪快に扉を開けて中に踏み込むお嬢様。
「ちょ、え? 勝手に入っちゃっていいの?」
「大丈夫ですわ。わたくしはコーエイのお友達なのですもの」
「いやいや、親しき中にも礼儀ありって言ってね? ああもう、これじゃあどっちが怪しい人かわからねえ!」
「堂々としてればいいんだよ、お姉さん」
「そういう問題!?」
開き直って門をくぐっても、他人の領地に入った時点で不法侵入は変わらない。でも、人気のない路地に一人で残る勇気はなく、場に流される形で俺も二人の後に続いた。