揺れ動く花芽
昼食で膨らんだお腹をさすりながら、俺たちはバイキングのお店を出た。透は茉希ちゃんに怒られてからも肉をメインに食べ続けていたし、デザートまで満喫したみんなも予想以上に喜んでくれたみたいだ。
「ふー、腹いっぱいだ。もう食えねー」
「お姉ちゃん、ご馳走さま」
「ご馳走さま、楓」
「すごく美味しかったよ、ありがとう」
勘定を終えた店の前で、改まってみんなからお礼を言われる。こういうことは慣れてないので、何だか照れくさい。
「みんなが喜んでくれたなら何よりだ」
感謝の気持ちの一部でも伝えられたならそれでいいし、みんなが嬉しいなら俺も嬉しくなる。
「えーっと、この後はどこ行くんだっけか?」
「一階のお花屋さんだよ。お姉ちゃんのアルバイトするお店」
「ああ、それで楓は写真撮ったり、履歴書に貼ったりしてたわけか」
そう、今日の予定はまだ半分にも達していない。俺にとっては次の用事が今日一番緊張する場面だろう。
「心の準備はできた?」
「うえっ? あ、うん……」
茉希ちゃんに見透かされて、俺は思わず頷く。その様子に意味ありげな笑みを一層深くして、今度は茉希ちゃんが先に立って移動になった。
履歴書が入ったトートバッグを胸に抱えるようにしながら、これからのことを頭の中でシミュレーションする。
もう少しで約束の時間だ。お店には今、柊さんと菊池さんがいるはずだから、入ったらまずはしっかり挨拶する。俺が今日来ることは菊池さんを通して柊さんにも伝わっているから、当初の目的通り履歴書を渡そう。後は学校のことを話して、心配かけたことも謝って……。
考えている間に一階へ着いて、「Radiant Flower」が目の前に見えてきた。相変わらず花と緑で店先が彩られていて、お客さんもそこそこ。お花屋さんにしては来客が多いほうだと思う。
「あんまり大勢で押しかけても迷惑かもしれないわね」
茉希ちゃんの言葉には同意だ。ただでさえお店の手は少ないんだから、目的のある俺以外がぞろぞろとお店に入るのは失礼かもしれない。履歴書を出すだけと言っても、面接に行くのと状況は変わらないんだし、ここは俺一人がいいだろう。
「わたしはお店までついて行くね。お姉ちゃんだけだとまだ心配だし」
「ありがと、茜ちゃん」
「じゃあ二人で行って、話が済んだらアタシたちを呼んでくれる? 買い物には荷物持ちがいるでしょ?」
親指で後ろの男二人を指す茉希ちゃんに、透だけが顔を顰める。
「ごめんな、また手伝ってもらうことになるけど」
「あー、いーよ別に、気にすんな。手伝うって約束だったしな」
表情のわりに、透は素直に手伝う意志を見せてくれた。
「俺らにできることなんて力仕事くらいだしさ、遠慮せずに頼ってよ」
翔太も快く引き受けてくれる。ほっとした俺は「ありがとう」と三人に告げた。
「それじゃ、終わるまでアタシたちはそこら辺をぶらぶらしてるわ。用があったらメールちょうだい」
「わかった」
俺と茜ちゃんはいったん三人と別れて、「Radiant Flower」に入った。
「やあ、こんにちは、二人とも」
入ってすぐのレジにいた菊池さんが、俺たちを屈託のない笑顔で迎えてくれた。こっちも「こんにちは」と挨拶を返して、まずは頭を下げた。
「すみません、忙しいのに急に伺ってしまって」
「いやいや、いいんだよ。楓ちゃんがアルバイトできるってわかって、僕も店長もすごく嬉しかったからさ。学校はまだ大変なんでしょ?」
「だいぶ落ち着きましたけど……本当に、いろいろと迷惑をかけてしまって……」
「楓ちゃんが謝ることはないって。僕のほうこそごめんね、嫌な誤解を招いてしまったようだし」
「そんな、確かに誤解ですけど嫌だなんて……あっ、えっと、その」
口を滑らせてしまって、語尾がフェードアウトしていく。これは聞きようによっては違う意味を持つ言葉だ。自覚した途端に、かっと顔が熱くなるのを感じた。
「あ、履歴書を持ってきてくれたんだよね? 店長なら奥にいるから、渡して来るといいよ」
「はっ、はい。失礼しましたっ」
幸いにも菊池さんは深く考えなかったようで、俺はほっとするやら残念やら、よくわからない気持ちになる。まあ、考えるのは後にしよう。ひとまずは促されるままに、「Staff Room」のドアを三回ノックした。
「は~い?」
「あの、北見楓です」
名乗ってしばらくすると、ドアが開いて柊さんが出てきた。こちらも菊池さんと同じように満面の笑顔だ。
「こんにちは、柊さん」
「いらっしゃい、よく来てくれたわね。茜ちゃんもこんにちは」
「こんにちは、お久しぶりです」
「立ち話もなんだから中に入って~?」
「あ、わたしはただの付き添いですから、お店のほうで待ってますね」
「それじゃあ、お姉さんを少し借りるわね。楓ちゃん、いらっしゃい?」
「はい」
茜ちゃんをお店に残して、倉庫には柊さんと俺だけが入った。
「ちょっと散らかってるのはごめんなさいね~」
「いえ、突然伺ったのはこちらですし……」
そうは言ったけど、前よりはすっきりしている印象を受けた。たぶん荷物が減ったからだろう。お客さんが増えて、商品が売れているということかもしれない。
俺はパイプ椅子を勧められて、机を挟んで柊さんと対面する形で座った。
「菊池君から聞いているわ。学校、大変だったそうね?」
「ええ、まあ……ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
「いいのよ~、それよりも楓ちゃんがアルバイトできるようになって、本当にほっとしたわ。これでしばらくはこのお店も安泰ね。あ、まずは履歴書を貰ってもいいかしら?」
「あ、はい」
トートバッグから履歴書を出して柊さんに手渡す。しばらくそれを眺めた後、「よし」という感じで頷いた。
「記入漏れもないし、大丈夫よ。希望シフトは……土日祝日がメインなのね」
「平日は学校で、終わってから来るにしても余裕がないので……夕方以降は先生や父にもいい顔されませんでしたし」
「もちろん、楓ちゃんの身を案じるのが一番だわ。私も何かあってほしくはないもの。誰か送り迎えに付き添わせてもいいけど」
「いえ……そこまでは……」
茜ちゃんにだって家のことがあるし、週末の度に付き添ってもらうわけにはいかない。かと言って柊さんや菊池さんが付き添うのも、すでに迷惑をかけているのだし心苦しかった。俺がやんわり断ると、柊さんも「まあ、それもそうね」とあっさり引き下がった。
「曜日はそれでいいとして、午前から入れるかしら?」
「はい、大丈夫です」
「わかったわ。それじゃあ次の土曜日から、朝の十時から夕方四時までにしましょうか」
「はい」
シフトの話が終わったら、仕事をする上でのルールや注意を教えられる。基本的な仕事内容は主にレジ、接客、品出し、在庫チェックの四つらしい。百聞は一見に如かずとも言うので、来週から教えてもらいながら実際にやって覚えてほしいとのことだった。
「こんな感じかしらね~。他にはわからないこととか、聞きたいことはないかしら?」
「そうですね、今は大丈夫です」
「そう? じゃあお話はこれで終わり。茜ちゃんも待たせているから、戻りましょうか~」
柊さんが立ち上がったので、俺もその後を追って倉庫を後にする。想像していたよりも堅い話はなくて、履歴書もすんなり受け取ってもらえたので、緊張していたのがちょっと情けなくもなる。話が何事もなく終わったのはいいんだけどな。
「あら、菊池君がレジにいないわね」
柊さんが言った通り、菊池さんが見当たらない。店内には他のお客さんもいなくなっていたので、外の鉢の世話でもしているんじゃないかな。茜ちゃんの姿も見えないから、たぶん一緒にいると思う。
柊さんが店内に残り、俺は店先に出てみる。鉢の緑の向こう側に、菊池さんと茜ちゃんの姿を見つけた。お互いにちょっとかがむような格好で話をしている。菊池さんから花のことでも教えてもらっているのかな。二人とも顔が綻んでいて、なんだか楽しそうだ。
「……?」
一瞬、胸の内にもやっとした感覚を覚えた。菊池さんと茜ちゃんの仲が良さそうなのは俺にとってもいいことのはずだ。なのに俺は、素直に喜べていないことに気づいて、思わず二人に話しかけるのを躊躇ってしまった。
「あ、お姉ちゃん」
「っ!」
ふと顔を上げた茜ちゃんが俺に気づいて手を振る。なぜか後ろめたくなった俺は、すぐには思い切れずに反応が遅れてしまって。動かないでいる俺のほうに、茜ちゃんのほうから近づいてきた。
「柊さんとのお話は終わったの?」
「う、うん」
「そうなんだ、思ったより早かったね? じゃあ茉希ちゃんたちに連絡するね」
そう言って携帯電話でメールを打ち始める。気づくと、いつの間にか菊池さんも俺たちの傍に来ていた。
「楓ちゃんはいつからバイトに来れるの? 明日?」
「い、いえ、来週の土曜日からです。後は日曜日と祝日にも入る予定で……」
「そっか。楽しみにしてるよ、きっとお客さんも増えるだろうから」
「はい。よろしくお願いします」
菊池さんと話すと、さっきの茜ちゃんとの光景が頭をよぎった。戸惑いつつも、なんとかそれを顔に出さずにやり過ごす。会話はそれから一言二言で終わり、やがて菊池さんは店内に戻っていった。
おかしいな、話したいことはいっぱいあったはずなのに。前に来た時よりも全然話が続かなくて気落ちしてしまう。もやもやした感覚も残ってて、言葉にはできないけど、もどかしかった。
「お姉ちゃん、何かあった?」
「えっ?」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、茜ちゃんが不思議そうに俺を覗き込んでいた。
「何だか元気がないように見えたから。仕事のこと、何か不安なの?」
「別に……」
急に俺は苛立ちを覚えて、茜ちゃんを振り切るようにそっぽを向いてしまった。こんなこと、初めてだ。喧嘩をしたことがないと言えば嘘になるけど、根拠もなく茜ちゃんに冷たく当たるなんて、今日の俺はどうかしてる。自己嫌悪に陥って、ますます気持ちが暗くなる。
いたたまれなくなって、勢いのまま店内に踏み込む。
「わっ」
「っ! あ、ご、ごめんなさい」
俯いていたせいで、出入り口の近くにいた菊池さんと危うくぶつかりそうになった。
「もう帰っちゃったのかと思ったよ。どうかしたの?」
「あ、その、今日はちょっと買うものがあって……今から友達がみんな、ここに来るんですけど」
「そうなんだ? じゃあゆっくり見て行ってよ。楓ちゃんもアルバイトになったことだし、社員割引も利くはずだよ」
へえ、そんなのがあるんだ。ちょっと得した気分になって、さっきまでの暗い気持ちから少しだけ復活した。
「ちなみに何をお求めで?」
「えっと、苗用のポットと土関係ですね。サルピグロッシスの仮植えをやろうと思ってて」
「へえ、もうそんなに大きくなったんだ? さすが楓ちゃん」
「そ、そんな大したことじゃないですよ……」
菊池さんに褒められて、身体の奥に火が灯ったみたいに熱くなる。みるみるうちに顔が火照ってしまって、まともに視線を合わせられない。嫌に畏まっておどけたような口調も、菊池さんとの距離が縮まったからかな? そうだとすごく嬉しいな。
いっぱいあった話したいことも話せて、さっきのもやもやなんかも忘れてしまった。みんなが揃ってお店に入ってくるまで、菊池さんと他愛もないお喋りをした。サルピグロッシスのことやテストのこと、茜ちゃんや茉希ちゃんたちみんなのこと――。
こんな何でもないことで、俺は簡単に嬉しくなって、笑顔になれる。俺にとって菊池さんはやっぱり特別な人なんだって、改めてわかった。できればもっと知りたいし、近くにいたい。ずっとこうやって話をしていたい。そこでふと、茜ちゃんと茉希ちゃんの言葉を思い出して、目の前にいる男の人を見つめる自分に気づいた。
これってやっぱり――――恋、なのかな。
ぼんやりとそんなことを思って胸の奥がきゅっとなるのを、なんとか顔に出さないようにして、菊池さんとのお喋りを続けていた。