起死回生
校門までおじさんを見送り、俺と榊先生は教室に戻ることになった。廊下では未だ生徒たちの視線が痒いけど、いちいち気にしていたら身が持たない。榊先生も勘付いているのか、歩くのが少し速い気がした。
「とりあえず処分は免れただろうな。だが、アルバイトがどうなるかはまではわからない。できることをしたつもりだが、最終的には校長が決めることだからな」
「でも、先生のおかげで助かりました。俺なんかを庇ってくれて、本当になんてお礼を言ったらいいのか……」
「なんか、ではないぞ。前にも言っただろう、お前は私の大事な生徒だ。不当な処分とあらば抗議するのも当然、これも教師の仕事のうちさ。もちろん個人的にも、私はお前のことを気に入っているがな」
廊下を歩きながら、榊先生は嬉しいことを言ってくれた。心強くて頼りがいのあるこの人が担任で本当によかったと思う。改めて俺はお礼を言った。
昼休みも残り数分で昼食の時間はとれなさそうだと思っていたけど、いざ教室に着いて先生が職員室に帰っていくと、あっという間にクラスメイトたちに囲まれた。
「どうだったの、楓ちゃん?」
「写真はやっぱり盗撮? 誰に撮られたの?」
「男の人って大学生らしいけど、本当に付き合ってるの?」
「え、ええと……」
困惑していると、人混みを掻き分けて茉希ちゃんが俺の前に躍り出た。
「はーい、みんな落ち着いてー。気になることがたくさんあるのもわかるけど、いっせいに聞かれても答えようがないわ。お昼休みももう少しで終わるし、今は質問を控えましょう?」
ちょうどチャイムが鳴ったのも重なって、みんなは大人しく席に戻っていく。
「ありがとう、茉希ちゃん」
「いいのよ。でも、放課後はちゃんと話してね? アタシたちだって気になってるんだから」
わかってる。それもクラスメイトや茉希ちゃんたちは面白半分じゃなくて、俺のことを心配してくれているから聞きたいんだ。
茉希ちゃんの言う通り、放課後になったらみんなに話そう。俺はそう決めて、午後の授業に取り組んだ。
ホームルームが終わって放課後、榊先生が出て行くのを見届けた途端、クラスメイト達が俺の机の周りに集まってきた。明日から週末だというのに帰ろうとはせず、みんな身を乗り出さんばかりに耳を傾けている。俺はその中心で、今日の昼休みの会議で話したことと、決まったことを伝えた。
ひとまずは処分を免れそうだということで、みんなは安心して帰り支度を始めた。まだ聞きたいことがあるのか、ちらちらと見ながら離れていくクラスメイトも数人はいるけど、俺がわかることは全部話したつもりだ。質問されても答えられるかは自信がなかった。
「お姉ちゃん、お疲れさま」
鞄を持って、茜ちゃんが労いの言葉をかけてくる。茉希ちゃんも一緒だ。
「大変だったわね。でも落ち着いたみたいで安心したわ」
「うん、……先生と、みんなのおかげだ。ありがとう」
「まったく、相変わらず頭のかてー奴だな、楓は」
透と翔太も鞄を手にして傍へ来た。俺は遅れて帰り支度に取り掛かる。
「だって、現にいっぱいお世話になってるし……もう言葉だけじゃお礼にならないかもだけど」
「いいんだよ、俺たちが好きにやってることだから」
「翔太くんの言う通りだよ。困ったらお互いさまなんだから、ね?」
俺が頭の固い奴なら、みんな本当に優しい友達だ。俺もこの中の誰かが困っていたら、手を差し伸べられるようになりたいな。
「お待たせ、行こうか」
帰り支度が済み、みんなと教室を出る。少し時間が遅くなったせいか、廊下にいる生徒たちはまばらになっていた。視線を向けられるよりはずっといいんだけど。
「ねえ楓、アタシ聞きたいことがあるんだけど」
「なに、茉希ちゃん?」
透と先頭を歩いていた茉希ちゃんが俺の隣に来て尋ねる。
「今日の会議で話したことって、あれだけだったの?」
「えっと……それはどういうこと?」
「楓の処分についてしか話してないみたいじゃない。結局、盗撮した犯人が誰とか、証拠があるかないかも話してないの?」
「そういう話はしなかったな……」
言われてみれば、学校側は問題そのものを起こした写真については言及してこなかった。犯人が誰かも、どれだけ調査をしているかも聞かされていない。
「……テストの二日目に、鹿角があんただけに笑いかけてきたの覚えてる?」
「えっ、ああ、みんなと帰ろうとしてた時のことか」
思い当たる節があって頷く。嫌なことが続くかもしれない、と予感した時なので、よく覚えていた。
「推測だけど、こうは考えられない? 盗撮の犯人は鹿角、あるいはその関係者が楓を貶めるためにやったことだって」
「それは……」
確かにこれまでの鹿角先生の言動には不自然なものが多すぎる。犯人捜しを放っておいて俺の処分ばかり主張していたのもそうだし、不純異性交遊だとふっかけてきたのも鹿角先生が最初だ。もしそれが茉希ちゃんの言う通り、俺を貶めるための罠だったとしたら?
鹿角先生は今回のことで俺に厳罰を与えようともしていたけれど、それはたぶん上手くことが運べば視野に入れていた程度のものだろう。恐らくは元々反対していた、俺のアルバイトの許可を下りなくすることが目的だったんじゃないだろうか。「化学」のテストが終わった直後だったことも考えると、俺の努力を潰そうという悪意が浮き彫りになって見えてくる。
考えれば考えるほど、鹿角先生が犯人であるという線が濃厚になっていく。事件が起こるタイミングも目的も、鹿角先生がすべて仕組んだことだとしたら納得がいった。
でも、肝心な証拠がない。学校がどこまで調べているかはわからないけど、警察が動いたとは聞いていないし、写真から盗撮の犯人を導き出すのは難しいはずだ。もしかするとそれも鹿角先生の思惑のうちかもしれないけど……疑いはしても、犯人だと断定はできない。
「何にしても盗撮犯は捕まってないってことだから、お姉ちゃんは気をつけないとね?」
「楓だけじゃなくて、茜もよ。当分はアタシたちと一緒にいてもらうからね?」
「そりゃ頼もしい」
そう言って俺たちは笑った。この四人といれば、そうそう危険な目には合わない気がする。もちろん気を抜くつもりはないし、十分注意するつもりだ。友人の忠告と気遣いには、しっかり耳を傾けておかないとな。
「本当ですかっ、先生!?」
風呂掃除の途中でかかってきた電話に出た俺は、聞かされた吉報に声を大きくしてしまった。
「ああ、正式に決まった。北見楓の厳罰および処分はない。アルバイトの件もこれから先方に電話を掛けて伝えるつもりだ」
「ということは……」
「今回のテストでの成績を考慮し、アルバイトの許可が下りたんだ。お前の努力が認められたのさ。よかったな」
榊先生に言われて、俺は一瞬だけ放心した。だって、数日前はあれほど絶望的だと思っていたアルバイトの許可が、昨日今日の会議で下りたのだ。信じられなくても仕方ない。夢ではないかと頬を抓ったけれど、ちゃんと痛かった。ベタな方法で現実であることを確かめると、喜びが抑えられずに拳を握った。
「ありがとうございます、先生!」
「これも教師の仕事だからな。何日も不安だっただろう、すまなかったな」
「謝ることなんてないですよ! 許可が下りたのは先生が頑張ってくれたお陰です。本当に嬉しいです!」
「はは、そうか。それは私も努力した甲斐があったというものだ。だが、気をつけろよ」
喜び勇んでいた俺に向かって、榊先生は声のトーンを落として言った。
「盗撮犯は未だに見当もついていない。当日は警察も来たらしいのだが……奇妙なことに聞き取りだけで引き揚げて行ったらしいんだ。不審な点は残るが……現状ではっきりとわかっているのは、犯人が学校関係者ということだけだ」
「学校の中に犯人が?」
「ああ、それも職員が怪しい。事件前日の放課後から当日の朝まで監視カメラの電源が切られていてな、犯人の足取りも掴めていないんだ。写真をばら撒くためにそうしたんだろうが、そのお陰で生徒の犯行だとは考えにくくなった。逆に私たち教職員にかけられる疑いは一層強くなったがな。特に私はお前の担任だから、重要参考人らしい」
「そんな、先生がそんなことするはずないのに!」
「もちろん私はやっていない。定時まで他の先生方と職員室にいたというアリバイもある。だから心配には及ばんさ」
「他に怪しい先生はいないんですか?」
「すまないが、まだ調査の途中だ。私の口から他の先生方を貶めるようなことは言えない。だからこそ、お前は十分注意するんだ。いつまた目をつけられるかわからないんだからな。外出の時は必ず誰かと一緒に行動することだ」
「はい、わかりました」
「伝えることは以上だ。他にお前から聞きたいことはあるか?」
少し考えを巡らしたが、特に思い当たることはなく「大丈夫です」と答えた。
「わざわざお電話ありがとうございました、先生」
「何、気にすることはない。北見茜やお父様にもよろしく伝えてくれ。それではな」
「はい」
俺の返事から一拍置いて、電話が切れた音が聞こえてくる。俺も受話器を元に戻し、すぐさま茜ちゃんに伝えようと二階の部屋に向かった。
思わずノックを忘れて部屋に入ってしまい、茜ちゃんをびっくりさせてしまったけれど、電話のことを伝えると一緒に喜んでくれた。
「よかったね、お姉ちゃん。そうだ、茉希ちゃんたちにも知らせなきゃ」
携帯電話を取り出してメールを打ち始める。そうだ、俺も菊池さんと柊さんにメールで知らせておこう。そう思ったけど、よく考えたら明日会えるんだった。その時に口頭で伝えたほうがいいかもしれない。あ、でも母さんたちにはちゃんとメールしないと。おじさんは今日も帰って来るから、その時でいいかな。
それにしても本当によかった。これまでの努力もようやく報いたことになる。みんなにもたくさん心配かけたけど、一緒に喜んでくれるかな。菊池さんも、よかったねって言ってくれるかな?
早くも舞い上がった俺は放ったらかしにしてた風呂掃除を思い出して、るんるんとスキップしそうな勢いで家事に戻ったのだった。