仕事中の母さんより
テスト最終日の翌日、自宅謹慎一日目。日付が変わってから寝付いたはずなのに、俺は布団の中でぱっちりと目が覚めてしまった。
「いたっ……」
理由はこれ。鉛が入っているかのように重いお腹の痛み。一度だけ経験があったから、すぐに状況は理解できた。
そう、二度目の女の子の日だ。前回からまだひと月は経ってないけど、そろそろかと予想していたおかげで混乱せずに済んだ。でも、だからといって痛みを我慢できるとか、そういう話じゃない。
「いたたた……」
腰に負担をかけないように注意して起き上がる。とりあえず汚れる前にナプキンを取ってこないと。
この身体になって一番苦労しているのは、間違いなく生理だ。それも痛む瞬間だけじゃない。基礎体温とか周期とか、事前に知っておかなきゃいけないことがたくさんある。当然のことながら生理用品の使い方も覚えなくちゃいけない。
下着の中にナプキンを忍ばせて、タオルケットを腰回りに巻き、再び布団の中に入る。お腹が温まると痛みは和らぐから、かなり楽になる。それでも寝つきの悪さは相変わらずで、そのまま朝になってしまった。
布団の中にいると、部屋の外から足音が聞こえてきた。茜ちゃんとおじさんが起きだして支度を始めたようだ。その足音が部屋の前で止まり、ノックがあった後「お姉ちゃん?」と茜ちゃんの声がした。
「起きてる? 朝ごはんできたけど」
「ごめん、今はちょっと……」
「どうしたの? 入るね」
異変を感じ取ってくれた茜ちゃんが部屋に入って来た。
「大丈夫?」
「うん……今日、あの日みたいだから」
そう言っている間に、茜ちゃんは掛け布団を持ち上げて俺の身体を確かめる。
「お腹、ちゃんとあっためてるみたいだね。ご飯はラップかけて置いておくから、起きれるようになったら食べて?」
「ありがとう……おじさんは?」
「リビングで先に食べてるよ。用があるなら呼ぶ?」
「いや、いつ学校に行くのかなって思って……」
「十時に家を出るみたい。それがどうかしたの?」
「……その、言いにくいんだけど、なんて言うか……このことはおじさんには黙っててほしい、かな。なんかさ、恥ずかしくて……」
「あっ……そうなんだ……うん、気持ちはわかるよ。でも、お姉ちゃんは言ったほうがいいんじゃないかな? 身体が特別なんだし、お父さんも知っておくべきだと思うんだけど」
「そ、そうかもしれないけど……後日報告じゃだめ?」
「二人とも何をしているんだ? 茜はそろそろ登校する時間だろう?」
こそこそ話していると、開いていたドアからおじさんが声をかけてきた。俺も茜ちゃんもびっくりして、あたふたと取り乱してしまう。
「どうしたんだ二人とも……む、楓君はどこか優れないのか?」
「いっ、いえ、何でもないです。ただいつもの眠気で……」
「眠気? ああ、例の寝不足か。今日は休みなのだから、ゆっくりしていてもいいのだろう? しかし、あまりに長引くようなら、そろそろ専門医師に相談したほうが……」
「そっ、そうですね今日はゆっくり寝てますので! それより茜ちゃん、早く行かないとっ」
「あ、あああうん、もうこんな時間! お父さん、わたし行くねっ!」
慌ただしく部屋を出て階段を駆け下り、ややあってから玄関の扉を開閉する音がした。おじさんは「まだそんなに急ぐ時間でもないだろうに」と首を傾げながら、俺の部屋を後にした。
とりあえず誤魔化せたのでほっとして、また布団を被る。身体の大事なことだから、おじさんに話さなきゃいけないのはわかってるんだけど……なんで恥ずかしいんだろうなあ。
この身体になってから、無意識に恥ずかしいと思うことが増えた。生理もそうだし、体重とか体型とか、トイレとかも他の人にあまり悟られたくないって心理が働く。もちろん大っぴらにすることじゃないのはわかってるけど、男の時と比べてその傾向は明らかに強い。女性特有の心理なんだろうなあと思う。
いつまでも秘密にはできないので、日が変わってからでも報告しよう。そう思って、とりあえず重い瞼を閉じようとしたのだが。
テーブルの上にあった携帯電話が不意に震え始めて、やれやれと身体を起こす。時間はまだ八時を回っていない。こんな朝っぱらから誰だろうと画面を開けてみると。
「へ? 母さん?」
画面に出た発信者の名前を見てさらに驚く。それでも出ない理由はないので、通話ボタンを押して耳にあてた。
「Hey, Kaede!? What exactly happened!? Though read your email, but I don't understand!!」
甲高い声で電話越しに英語をぶつけられるけど、たまにあることだった。海外で活動する母さんと父さんは、うっかり日本語に戻らずに話してくることがある。こっちにいるときはそうでもないのに、なぜか電話越し限定だ。俺は慣れていたので、冷静に話しかけた。
「母さん落ち着いてよ。あと日本語でお願い」
「Oh、……ごめん、もしもしっ? 楓、あんたと樹のメール見たけど、これどういうことなのっ!?」
「メールって、学校の騒ぎのこと?」
「Right!! じゃなくて、そうよ! ああもう、なんだかこっちだと英語になっちゃうわ。嫌な癖がついたものね……って、そんなことはどうでもいいのよ。あんた、学校で何があったの?」
「えっと……話せば長くなるんだけど……」
母さんにはおじさんからメールを送ってもらった上に、俺もほとんど同じ内容でメールをしていた。今わかってることを全部書いたつもりだけど、聞きたいこともあるだろうと思って、騒動の顛末を話す。
「何よそれ、おかしいじゃない! 学校は何を考えてるのよ! それに盗撮魔め、あたしの可愛い楓をつけ回して怯えさせるなんて、絶対に許さない……写真代は高くつくわよ……」
「だから落ち着いてってば。今日、おじさんが学校で話を聞いてくることになってるし、俺も外を出歩かないから、とりあえずは心配ないよ」
「ちょっと待って。それじゃあ楓が家で一人になるじゃない! ああ心配だわ、今度こそ盗撮魔が押しかけて来たりしたら……こうしちゃいられない。Hey, Ryan!」
「えっ、あの、母さん?」
電話から声が遠ざかり、なにやら英語での怒鳴り合いが始まる。母さんともう一人、男の人の声だ。ライアンってこの声の人のことかな。そんなことを思いながら向こうの怒鳴り合いが収まるのを待つ。
「Shit! まったく、あの頑固やろう……」
「母さん? 何の話してたの?」
「そっちに戻りたいって言ったのよ。でも無理だって。ようやく支援物資が来て、忙しくなってきたところなのよ」
「そうなんだ。大変なんだね」
「ええ……だから、もうしばらくそっちには戻れないわ。ほんっとうに残念。力になれなくてごめんね……何かあったら飛んで帰るって、言ったのにね」
しんみりした感じで言うので、ちゃんと心配してくれているのがよくわかる。忙しい中でわざわざ電話をくれただけでも、俺にとっては十分だった。
「ううん、気にしないで。声が聴けただけでも嬉しい。だから、俺は大丈夫だよ。ありがとう」
「本当に? 無理してないのね?」
「うん」
独りじゃないし、みんながいる。母さんが心配してくれるのはわかるし嬉しいけど、だからこそ大丈夫だってことを伝えたい。心配してほしくなかったから。
「……それじゃあ、一つだけお願いしてもいい?」
「ん、なあに、母さん?」
いつになく気弱な感じで言うので、軽い気持ちで聞き返すと。
「あんたの写メ、送ってくれる?」
「うん……、うん? 写メ?」
要求されたものが予想外すぎて、俺は聞き間違いじゃないかとオウム返しに口にした。
「あたし、日本を離れてひと月くらい経ちそうなんだけどね、絶望的に成分が足りないのよ」
「成分って、なんの?」
「決まってるじゃない。楓ちゃん成分よ。今この携帯にある写メだけじゃ物足りなくなっちゃったの。だから新しい写メちょうだい?」
「知るか!」
やっぱり母さんは母さんだった。何だよ楓ちゃん成分って。ていうか今なんて言った?
「俺の写真消したんじゃなかったの!?」
「え? ああ、いつかのパンチラは約束通り消してあるわよ。携帯からはね。でも、他にも撮っておいた写メはあるもの」
「いつ撮ったんだよ! ていうか携帯からはって、他に保存してるってこと!?」
「見せびらかすわけじゃないんだしいいじゃない。あたしはどこかの盗撮魔とは違うんだから」
「変わんないよ! 盗撮は盗撮だ!」
思わず叫んでしまって、お腹の痛みに顔を顰める。生理だからか、それとも母さんの発言のせいか、同時に頭痛が増した気がしてこめかみを押さえた。たぶん後者のせいだろうけど。
「そんなこと言わないでー。今のあんたの姿、見慣れるためにも写メが要るのよ。だから、ね? 一人で恥ずかしいなら、茜ちゃんとツーショットでもいいから」
「むう……じゃあ、一枚だけだよ?」
「ありがとう楓っ! さすがはあたしの娘ね、愛してるわ!」
茜ちゃんとツーショット、しかも一枚だけって条件付きで、俺はこのお願いを承諾した。でも、こんなに喜んでくれるならもうちょっとサービスしてもいいかな、なんて思ってしまう。何だかんだで母親だし、ちゃんと仕事も頑張ってるんだから、たまにご褒美くらいあげたっていいんじゃないかな。
「あっ、言い忘れてたわ。ゴールデンウィーク、プールに行ったんだってね?」
「うん、それがどうかしたの?」
「写メ撮るときは水着姿でお願いね?」
「ぜったいやだ」
前言撤回。あまり甘やかすとつけ上がるかもしれないから、ほどほどにしておこう。
「楓君、私も出るぞ」
ひとしきり母さんと話した後、しばらく眠っていた俺はおじさんに声をかけられて起きた。
「すまんな、起こしてしまって」
「ふにゃ……あ、いえ。ごめんなさい、なんかだらしなくて」
欠伸してしまったのを咄嗟に噛み殺して、時計を見ると十時だ。寝てたと言っても一時間くらいだから、まだ浅かった眠りから覚めてしまったんだろう。
「寝不足なのだから、ゆっくり休むといい。玄関の施錠もしておく。空腹になったらリビングに茜が作り置いた食事もあるから、食べたいときに食べなさい」
「ありがとうございます。いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
おじさんは部屋のドアを静かに閉めて、やがて家を出て行った。誰かに頼るしかないなんて、やっぱり自分は無力だと痛感する。けど、だからと言って何もしないわけにはいかない。生理を理由にするのも筋違いだ。
助けてくれる人たちを信じて、俺はできることをやる。そう決めたからには、寝てばっかりもいられない。
ベッドから起きて、まずはご飯を食べよう。それから茜ちゃんたちが帰ってくるまでに、できる範囲で家事を済ませよう。そう思って、俺は痛むお腹に負担をかけないように、そっと布団から抜け出した。