芽生え
「楓ちゃん、大丈夫!?」
夕飯を食べ終えて部屋に戻ると、携帯電話に菊池さんからの着信履歴が溜まっていた。慌てて電話を掛けて、繋がってすぐの菊池さんの第一声がこれだ。何でも「Radiant Flower」に学校から電話が入って、今朝のことを聞いたというのだ。学校の連絡が回るのは覚悟していたけど、予想より早すぎた。
「ごめんなさい。菊池さんにはもっと早く伝えるべきでした。迷惑をかけるばかりか、驚かせてしまって……」
本当は菊池さんに連絡する気はあった。でも、俺自身まだわからないことだらけだったし、そのまま伝えても菊池さんを混乱させるだけだと思ったのだ。せめて明日、学校でおじさんが先生と話したことを聞いて、状況整理してから伝えようと思っていたんだけれど……その考えは甘くて、結局は菊池さんにショックを与えることになってしまった。
「いや、楓ちゃんが謝ることじゃないでしょ? 深く考えなかった僕にも責任はあるんだし」
「そんな、菊池さんは悪くないです! 俺にパンケーキ奢ってくれただけなんですから!」
「それでも周りの人にどう思われてるか、自覚してなかったんだ。そこは僕が悪い。楓ちゃんにも迷惑かけちゃったね、本当にごめん」
謝ったのに謝り返されて、俺は言葉を失う。
「店長には明日話しておくよ。電話を受けたのは僕だし、情けないことに混乱しちゃったから、まだ話してないんだ」
「……学校からは何を言われたんですか?」
「報告だけだったよ。どんなことがあって、僕にどんな疑いがかけられてるか……それよりも楓ちゃんは大丈夫? 学校は行けるの?」
「えっと、明日から二日だけ休むことになりました。それ以外は今のところ大丈夫です……でも」
俺は言うべきか迷って、いったん言葉を切る。でも、菊池さんが予想していないわけがない。
「アルバイトの許可は、貰えないかもしれません……」
テストで八割以上をとれば許可を貰えるという条件は、もともとは俺が素行のいい生徒かどうかを判断するためのものだったはずだ。写真のことが先生たちの間で議論されるのは当然だった。
つまるところ、テストの結果に関わらずアルバイトの許可を得られない可能性が出てきたのだ。
「学校側は今、写真を撮った犯人探しよりも、俺の処分を考えているような状態です。菊池さんも聞いたように、その……俺に不純異性交遊の疑いがかけられて……だから、学校が最終的にそう判断したら……」
柊さんに、アルバイトをしないかって誘われたときは、とても嬉しかった。好きだった園芸に携わる仕事を、菊池さんと一緒にできることが、とても楽しみでわくわくした。
鹿角先生に反対されたって、チャンスを掴んだからには諦めなかった。テストで八十点以上をとれば許可が下りるってわかったから、今日までの勉強を頑張ってきた。結果はまだわからないけれど、その目標を達成できた自信はあるのに。
今までの努力が全部、あの写真のせいで台無しになってしまうかもしれない。出たばかりの芽を踏み潰されたみたいだ。それも運悪く野良猫に踏み荒らされたのとはわけが違う。犯人は明らかな俺に対する悪意を持って、俺の努力を潰しに来た。言葉にならないくらい悔しかった。
「大丈夫だよ」
歯を噛みしめていると、菊池さんが諭すように言った。
「僕は楓ちゃんがとっても真面目でいい子だってことを知ってる。とにかく明日、店長に相談するよ。僕らみたいな学生にどうにもならないことは、大人に頼るほうがいい。店長は絶対に楓ちゃんの味方だから、力になってくれる」
「……はい」
「周りの人だってそうだよ。茜ちゃんも友達も味方になってくれるはずだ。独りじゃないから、安心して」
菊池さんの言う通りだ。俺のために動き始めてくれた人がたくさんいる。悔しさを滲ませて俯いているだけじゃ、その人たちががっかりする。暗く考えてばかりじゃ駄目だ。周りの人たちを信じて、俺も今できることをやらなくちゃって、そう考えたばかりじゃないか。
「ありがとうございます、菊池さん」
「お礼を言われるようなことはしてないよ」
「そんなことないです。心配してくれて、励ましてくれて……菊池さんは優しい人です」
「僕は普通だよ」
「普通じゃないです……あっ、いい意味でですよ? 変な人っていうことじゃないですからっ」
慌てて言うと、菊池さんは電話の向こうで屈託なく笑った。その声を聞いて、不意に胸がきゅーっとなる。何度か感じたことのある感覚だ。それを意識してからは、心臓がやけに大きく鼓動するのがわかった。
どきどきという鼓動の音が、電話越しの菊池さんの声を遮るくらいに大きい。それにしても、菊池さんはまだ笑ってる。
「そんなに笑わなくたって……」
「ごめんごめん。でも、人から優しいって改めて言われることないから、お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないです。だって菊池さんは前にも、ナンパから俺を助けてくれたじゃないですか。簡単にできることじゃないですっ」
初めてナンパに遭って、抵抗することもわからなくて。そこから助け出してくれたのが菊池さんだ。俺のことを迷惑とも思わないで、自然に連れ出してくれた。
「菊池さんには何度も元気づけてもらってます。今この瞬間だって、菊池さんが電話をかけてくれなかったら……」
部屋に一人でいたら、また写真のことを考えてしまう。菊池さんへ迷惑をかけて、嫌われるかもしれないことに怯えたまま、ずっと暗い気持ちでいたと思う。
菊池さんはそんな俺の不安を他所に、心配して電話をかけてきてくれた。菊池さんだって被害者、それも巻き込んだのは俺のほうなのに。大丈夫だよって、その言葉だけで救われる気がした。
「菊池さんには、もう言葉だけじゃ感謝しきれないんです。だから、アルバイトして菊池さんの期待に応えて……あっ、もちろん俺自身が働きたいっていうのもあるんですけど……そういう形でも恩を返せたらなあって」
「僕だって、楓ちゃんには感謝してるんだよ?」
「えっ、菊池さんが? どうして?」
「最初に助けてくれたのは楓ちゃんじゃないか。君が初めてお店に来たとき、ニリンソウを配ってくれたでしょ?」
「でもそれは、綺麗なのにもったいないって思ったから……それに、茜ちゃんも手伝ってくれましたし」
「もったいないって思ったのは僕も同じだよ。でも二人がみんなに配ってくれたから、花を捨てないで済んだんだ。二人が花のために手伝うって言ってくれて、嬉しかった。僕が楓ちゃんを助けたのと同じくらい、僕も楓ちゃんに助けられてる。だからね、恩を返すとか考えなくていいんだよ」
「はい……」
俺は本心から菊池さんの役に立ちたい、期待に応えたいって思ってる。でもその理由はよくわからない。菊池さんに話すつもりで恩返しって言葉を使ったけど、これも後付けの理由だ。
菊池さんの口から、そんな風に考える必要はないって言われたら、どうしたらいいのかわからなくなった。当然、俺の気持ちは変わらないんだけど、それに理由がつかないんだ。考えがもやもやして纏まらなくなって、次に言うことが思いつかない。
「思ったより話し込んじゃったね。疲れてるだろうし、そろそろ切ろうか?」
俺が無言になったのを悟って菊池さんが言った。もう少し話したいとも思ったけれど、気を遣ってくれているし、菊池さんにも都合があるだろうから無理強いはできない。
「そうですね……今日は心配かけて、本当にごめんなさい」
「気にしなくていいよ。楓ちゃんの声を聞いてほっとした。それじゃあまた今度、連絡するね」
「はい……」
ややあってから、プツンという音とともに通話が切れる。俺は携帯電話を閉じて、座っていたベッドに身を投げた。
まだ胸の中がもやもやする。菊池さんに対する気持ちを伝えたつもりだったのに、上手くいかなかったみたいだ。でも、俺の中でもこじつけみたいな理由だったし、本当の答えじゃない気がする。
この気持ちは感謝に似てる。でもそれだけだったら、もう少し電話していたいなんて思うだろうか。また会いたいとか、笑う顔を見たいとか、そういうことも。
「これって……」
前に茉希ちゃんから指摘されたことと、ほとんど同じだ。菊池さんとデート……じゃなくて、パンケーキを食べに行った時も、同じことを思った気がする。それを茜ちゃんと茉希ちゃんは、「恋」だなんて表現して。
「俺は、菊池さんが好き……?」
言葉にした途端、胸がきゅーって反応した。え、嘘――なんて思ってる間に顔が熱くなって、一瞬息が止まりそうになる。思わず全身に力が入って、僅かに手足を縮めた後、ようやく息を吸った。苦しい、でも快感を伴った癖になる感覚。
他の誰を思い浮かべても、そんな感覚にはならない。菊池さんのことを考えた時だけ、その症状は現れた。つまり俺の中で菊池さんは特別な存在ってことで。そこから導き出される答えは、それしか思いつかなくて。
「まじか……」
理性ではまだ半信半疑。でも心ではそうだとしか言いようのない反応だ。
茜ちゃんにお風呂を呼ばれるまで、俺は無意識に抱き枕をぎゅっとしたまま、ぼーっと部屋の天井を眺めていた。