二日目 ~現代文・化学・日本史~
星君と病室で遊んだ日から二日が経って。
「……えへへ」
朝の教室。今日はテスト二日目にして、問題の鹿角先生の「化学」がある日だ。けれど土曜は病院から帰ってからしっかり勉強したし、日曜も一日中問題を解いて、準備を万端にしてきた。提出課題もちゃんと持ってきたし、後は気を緩めずに、確実に解答するだけ。
「楓、なんでそんなに締まらない顔してるのよ……」
「あ、茉希ちゃんおはよう。えへへ……」
うん、気を引き締めないといけないのはわかってる。けど、どうも顔は締まらない。
「お姉ちゃん、昨日の夕方からずっとこんな調子なの」
「テストだっていうのに、そこはかとなく不安になるわね。大丈夫なの? ていうか何があったのよ」
「えっとね、芽が出たの」
「芽? 何の?」
あっ、茉希ちゃんには説明してたかな、サルピグロッシス。そう思っている間に茜ちゃんは、俺が菊池さんとパンケーキ食べに行ったときに、お土産に貰った種の話をしてくれた。
「菊池さんから貰った種の芽が出た? ははぁ、なるほど、そんな惚けた顔にもなるわ」
「それで、菊池さんにメールで知らせたんだって。ちゃんと返事も貰って、それからずっとこんな感じ」
「……えへへ」
だめだ、メール貰ったのが嬉しすぎて頬が緩む。菊池さんがおめでとう、って。テストも頑張ってね、って。
「大丈夫なの? ほんとに」
「テスト頑張りますよぉ、えへへ……」
「あれだけ勉強したんだもん。問題がわからないってことは、お姉ちゃんに限ってないと思うよ。凡ミスとかは心配だけど……」
「まあ、何があっても本人次第だし。アタシはし~らない。余裕ないから勉強勉強っと」
そんなことを言いながら茉希ちゃんは自分の席に戻る。
「お姉ちゃん、しっかりね?」
「えへ……あ、うん、大丈夫。茜ちゃんもね?」
「そんなふうにニタニタしてたら、わたしのほうがいい点取っちゃうからね?」
茜ちゃんがライバルの捨て台詞みたいなのを残して、困ったように笑いながら席に戻っていく。気付けのつもりだったのかな。心配されなくても、今の俺は無敵だ。「化学」のテストくらい、余裕で乗り越えて見せますとも。
とはいっても、こんな表情じゃ監督の先生に不審がられるな。予鈴とともに頬をぺちんと叩いて、集中集中。
気持ちを切り替えて、まずは一時間目の「現代文」。教科書の小説や論文をベースに、漢字や語彙、構文の知識問題で固めてある。登場人物の気持ちや著者の考えのまとめを答えるのは難しかったけれど、自信のある解答で埋めることができた。
そして二時間目、鬼門の「化学」。解いた印象としては、なるほど難しい目に作ってある感じだった。わざわざ元素を「漢字で答えろ」って書いてあったり、ややこしい用語の問題があったり。でもお生憎様、鹿角先生。あんたなら好んで出題してくるだろうと思って、そういう問題はマークしてましたよ。こちらもベースは教科書と問題集なので、難なく答えられた。
あっさりと鬼門を潜り抜けて、今日最後の「日本史」。暗記科目なので、いかに覚えているかが勝負だった。もちろん、何度も教科書と問題集を繰り返し読んだので、わからない問題はなかった。答えそのものを書くか記号で答えるか、問題文をよく読んで凡ミスに注意しながら解いた。
テスト終了のチャイムが鳴る。三教科、全部見直しはしたし、凡ミスも注意したし、わからない問題はなかった。下手すれば百点満点だって可能性もある。ふっ、こんなものか。やはり今の俺は無敵だ。
テストがすべて終わり、ホームルームで課題を提出する。明日は最後の二科目、「古文」「地理」だけだ。どちらも暗記科目だから、どれくらい覚えられたかが勝負となる。けど、これまでの教科と同じように散々繰り返し勉強してきた。油断しなければ大したことない。
明日さえ乗り切れば……今度こそ、アルバイトができる。菊池さんと会う回数も、一緒にいる時間も、確実に増える。園芸の話もたくさんできるに違いない。そしたら……そしたら、
「えへへ……」
「まだニヤケてんの? 楓は」
「まあまあ、ちゃんとテスト乗り切ったみたいだし……ね、お姉ちゃん?」
「あ、うん。バッチリだよ。二人はどうだった?」
「アタシもそこそこ自信あるわよ。土日があったんだもん、納得いくまで勉強できたわ」
「わたしもできたよ。翔太くんたちはどうかな?」
「俺たちがどうしたって?」
茜ちゃんたちの後ろから、翔太と透が顔を出す。
「テストの結果、どうだったのって話」
「ああ、俺はいい感じだよ。金曜日にみんなで勉強してからモチベーション上がってさ、家でもけっこうやってたんだ」
「翔太は心配なさそうね。それで透は?」
「ん……まあ、そこそこだ」
透の返事は金曜よりもずっとよかった。みんなで勉強した成果だろうか、今日のテストに後悔はないし、明日に控えるテストにも自信が湧いてきている。
「ねえ、今日も集まれないかな? またみんなで集まって勉強すれば、明日も乗り切れそうだ」
「わたしたちは大丈夫だよ? ねぇ、お姉ちゃん?」
「うん、俺も歓迎するよ。みんなとやったほうが捗るし、自信がつく気がするんだ」
「決まりね。透も強制参加ってことで」
「言われなくたって行くっつーの。その代わりちゃんと勉強見てくれよ?」
「あんたがお菓子ばっかり食べないで真面目に勉強するならね!」
茉希ちゃんの一言で一斉に笑い声が上がる。透だけは「わかってるよ!」と顔を赤くしながら速足で教室を出て行った。みんなお腹を抱えながら、その後を追う。今日も北見家は賑やかになりそう。廊下を歩きながらそう思っていた時だった。
「そこ、うるさいぞ。テスト期間中は無暗に騒ぐんじゃない」
聞き覚えのある声が、俺たちの笑みを一瞬で凍り付かせた。その人は後ろからツカツカと歩いて来て、足を止めてしまった俺たちにすぐ追いついてしまう。
「なんだ、やはり君たちか」
眼鏡の位置を整えて、白衣を着た細身の先生が言う。苛立たしげに顔をしかめ、俺たちをじろりと見渡した。そんな顔をするから評判も落ちるのだけれど、本人は知らないだろうし、知ったところで直すような人でもないだろう。
「学校に用がないならさっさと帰れ。我々の仕事の邪魔だ」
やっぱりこの先生は嫌いだ。気に入らないからって言い方があからさまに悪い。敵意剥き出しの人を好きになれる物好きなんて、少なくともこの学校にはいないだろう。
「鹿角先生こそ、こんなところで油を売ってていいんですか? テスト期間中は忙しいんでしょう?」
「ちょっ……茉希ちゃんっ」
茉希ちゃんが鹿角先生のことを気に入らないのは知ってたけど、ここでそんな煽るような台詞を吐くとは思ってなくて驚いた。
「馬鹿を言うな、君たちのような生徒が残っていないか見回りをしているところだ。騒がれては添削の邪魔になるからな。それに人のことより、君たちはテストの心配をしたほうがいいんじゃないのか」
「生憎と俺たちは大丈夫なんで。今日のテスト、採点すればわかりますよ」
そう答えたのは透だ。茉希ちゃんの横に立ち、自分より背の高い鹿角先生を下から睨み上げている。格闘技を習っている透の威嚇はさすがに堪えたのか、鹿角先生は誤魔化すように「ふん」と鼻を鳴らして目を逸らした。
「成績がテストの点だけで決まると思うなよ。その反抗的な態度、今後の評価にも反映させてもらうからな」
その言葉の後、一瞬俺のほうに目をやってから、鹿角先生は俺たちを追い越して廊下の角を曲がって行った。
「はぁあ、怖かった……」
「二人ともよくやるよ。あんなのでも先生なんだからさ、ほどほどにしないと」
茜ちゃんと翔太が息をつくと、茉希ちゃんはようやく緊張を解いた。怯える茜ちゃんの頭を撫でながら、柔らかい口調で謝る。
「ごめんごめん。あんまりな言い分だったから、ついカッとなっちゃったわ。透も、なんかごめんね」
「気にすんな。俺だってあのオッサン嫌いだし」
あっけらかんと透は答える。もともとは鹿角先生から吹っかけてきたんだから、二人に落ち度はないと思う。みんなで騒いでたのは迷惑だったかもしれないけど、先生としてもっと言い方があったはずだ。俺たちを敵視してあからさまに喧嘩を売ってきたのはあっちだろう。
「お姉ちゃんは大丈夫?」
「そうよ、楓もごめんね。嫌な思いしたでしょ?」
「平気だよ、二人が追い返してくれたから。ありがとう」
微笑んで見せると、茜ちゃんは安心したように溜息をついた。けど、茉希ちゃんはさらに声を潜めて、俺に耳打ちしてきた。
「あいつ、最後にあんたのこと見てたでしょ。気をつけて。何か企んでるかもしれないから」
「……うん」
俺も小声で返事をすると、何事もなかったかのように茉希ちゃんは先頭を歩き始める。
「さ、嫌なことは忘れて、さっさと楓と茜の家に集合ね。明日に向けて最後の勉強会よ」
茉希ちゃんの指摘は間違ってない。去り際、鹿角先生が俺に視線を送ったのは、何か裏があってのことだ。確証はないけど、悪い予感がする。「化学」のテストは完璧にできたはずだけど、他に見落としてることでもあるんだろうか。思いつかないからこそ、不安になってくる。
いや、それこそあのオッサンの思う壺なのかもしれない。俺の不安を掻き立てて明日のテストに集中させなくするつもり、とか。だったら気を引き締めて、今までの勉強を明日に活かすだけだ。あんたの思惑通りにはならないぞ。
不安になったったしょうがない。今は目の前のやるべきことに全力を向けなきゃ。
「わ、もう降りだしてる」
昇降口に着いて、外を見た翔太が言った。朝から曇り空だったけど、先週末から接近していた台風が夕方に通過するらしい。昼前の今はまだ小振りだけど、みんなが集まる頃にはどうなるんだろう。
「台風のことすっかり忘れてたわ。どうしよう」
「集まるのはやめといたほうがいいんじゃねーか? 風が強くなっちまったら俺たちも外は危ないし、翔太は最悪の場合、電車が止まるかもしれねーぞ」
「そうだね。言い出しっぺなのに悪いけど、今日は参加できそうにないな」
透の言うことはもっともで、翔太もそれに納得した。一人だけハブる形は避けたくて、今日はそのまま集まらずに各自家で勉強という流れになった。
気のせいかもしれないけど、鹿角先生に出くわしてから嫌なことが立て続けに起こった気がする。それが続かなきゃいいけど……。