雨の病室に
みんなと勉強会をした次の日。
俺にとって週末は、週に一度の定期健診の日として習慣づき始めていた。今日もおじさんが迎えに来て、車に乗り込み総合病院へ向かった。空は曇っていて、今にも雨が降ってきそうな灰色。確か、台風も近づいているんじゃなかったかな。梅雨ももうすぐだし、季節の移り目を感じる。
「あれから調子はいいのか?」
「そうですね、居眠りすることはなくなりました」
「テストも頑張ってるようだな。茜から聞いている」
「あはは……アルバイトはいい成績を残さないと、許可が下りないって言われたので」
「理由はどうあれ、勉学に励むのはいいことだ。アルバイトもむしろ経験するべきだと、私は思うがね」
今のところ、おじさんもアルバイトには肯定的な意見を返してくれる。
「そういえば、君の両親――椋と葵には、アルバイトのことは伝えているのか?」
「ええ、メールで送りました。返事はまだないんですけど……」
本当なら、父さんや母さんの許可も得てからアルバイトしたいんだけどなあ。たぶんダメとは言わないだろうけど、後で聞いてないって怒られるのも嫌だ。だからメールで伝えているんだけど、返事がまだ来てないので、見ているかどうかはわからない。
「心配しなくても、君の連絡なら見ているだろう。親として子供のことが気にならないはずはない。だからそのうち、返事も来るだろうさ」
ぽつり、と車のフロントガラスに水滴が落ちてくる。その頃合いに総合病院の駐車場に着いた。
健診が終わる頃には、雨が目に見えて降り始めていた。雨粒は小さくて雫の音は耳を澄まさないと聞こえないけど、その分湿度が高いのか髪が広がってしまう。雨の日って嫌いじゃなかったけど、髪が長くなると面倒臭いなあ。
「今回も目立った異常はないみたいだな。楓君としては、何か気になることはないか?」
「そうですね……強いて言えば、あの日が……もうそろそろひと月経ちますから」
「あの日?」
「あ……いえ、やっぱり何でもないです」
「あ、あー……すまん、そういうことか」
もう少しでひと月。それは俺が女の子になってから、という意味ではない。この身体になったからこそ乗り越えなければならない日――生理の日だ。初めてそれを経験してから、もう少しでひと月が経つ。またあのつらい腹痛と頭痛を味わうのかと思うと、ちょっと憂鬱だ。
「その辺りは茜に相談してくれ。不安が拭えなければ、知り合いの女性の医者も紹介できる」
「はい……ありがとうございます」
当分は茜ちゃんを頼ることになると思う。それでも不安なままだったら、おじさんの言う通り先生を紹介してもらおうかな。
「さて、これで今回は終了だ。お疲れさま」
「いつもありがとうございます」
「いやいや、礼には及ばない。さあ、家まで送ろう」
おじさんが白衣を脱ぎ、診察室を出る。今いる二階から一階へ下りると、診察待ちの人たちが待ち合い席に座っているのが見えた。休日だから特に患者は多いはずなのに、俺のために時間を作ってくれているのだと思うと申し訳なくもなる。
「へぶっ」
「うわっと!?」
考え事をしていたら、角を曲がるときに誰かとぶつかった。ショックで尻餅をつくが、大事にはならなかったみたいだ。
「ごめんなさい、大丈夫ですかっ?」
「いてて……」
ぶつかった相手側も尻餅をついていて、赤くなった鼻先を手で押さえている。入院中の患者さんなのか、パジャマ姿だ。小さな体格と子供向けの飛行機柄から察するに、小学生くらいの男の子。
「まあまあ星ったら、病院内では走らないとあれほど言ったでしょう」
男の子の後ろから、彼の母親らしき女性が駆けつける。同じくして俺の前を歩いていたおじさんも戻ってきた。
「楓君、大丈夫か?」
「はい、俺は平気です……でもこの子が」
「ごめんなさいね。こちらの自業自得ですから、お気遣いなく。星、立てる?」
「うん、へっちゃらだよ……って、あれ? 北見先生だ」
「む……」
男の子がおじさんを指差して名前を呼ぶ。もしかして知り合いなんだろうか。おじさんが診察した患者さん、っていうならあり得る。男の子はここに入院しているみたいだから、たぶんそうなんだろう。
「星君か。そちらも怪我はないか?」
「大丈夫、もう先生のおかげで元気になったから!」
「はは、それはよかった。でも、病院内ではゆっくり歩こうな? さっきみたいにぶつかると危ないから」
「ほら、先生もそう仰ってるでしょう? 早く病室に戻りましょう」
「えぇー、もう? ベッドで寝てるだけじゃ退屈だよぉ……」
「ワガママ言うんじゃありません。さあ、ぶつかったお姉さんにも謝って」
「お姉さん?」
と、ここでようやく男の子が俺の顔を見る。可愛らしい子供のくりくりした瞳がじっと見つめてくるので、なんとなく俺も男の子と目を合わせる。
「お姉さん」
「は、はい。何でしょうか?」
「一緒にお部屋に来て!」
お母さんに言われた通り、謝るかと思いきや。最近の小学生の思考回路って、どうなってるんだろう。
「こっち!」
「え、ひゃ、ちょっと!」
ぐい、と手を引く力は小学生とはいえさすが男の子、有無を言わさずに俺を連れて突き進む。後ろでお母さんが止める声が聞こえるが、男の子は完全無視。ていうかおじさん、あなたも止めてくださいよ。
走る、というほどでもないけど結構な速足でロビーを抜け、階段を上がる。何度か男の子はこけそうになったけど、俺を引く手の力を緩めない。ぐいぐい俺を引っ張りながら三階の病棟まで上った。病人のはずなのに、体力あるなあこの子。
休むこともなく廊下を進み、とある病室の引き戸を遠慮なく開け放った。久々に訪れる白い空間は、俺の時と同じ間取りで個室。違う点と言えば、ベッドがこの男の子らしい自動車柄の布団だったことだ。
「ここ、オレの部屋!」
「へ、へぇ~、いい部屋だねえ~……」
なんて言ってる場合じゃないだろ、俺。健診は終わったんだから、早く帰ってテスト勉強の続きをしないと……。
「椅子出すから、座って座って!」
「え、いやあの、俺は……」
今度は出入り口で突っ立っていた俺の背中を押し、ベッドの傍まで移動させる。男の子は近くに折りたたんであったパイプ椅子を開き、「どうぞ」と言って自分はベッドに上った。
「よいしょ、っと。あれ? 座らなくていいの?」
「いや……あのさ、俺もう帰らなきゃ……」
「えぇー、帰るのー?」
勝手に俺をここまで連れてきて、帰ると告げたら物凄く残念そうな顔をする男の子。いやいや、俺にも都合というものが……。
「星! 勝手にお姉さんを振り回すんじゃありません!」
息を切らした男の子のお母さんがようやく追いついた。後ろにはおじさんもいて、珍しく思い悩むような顔をしている。追いかけて疲れた顔なら納得がいくんだけど。
「振り回してないよ! ここに連れてきただけ」
「それを振り回すと言うんですよっ。ああもう、ごめんなさいね、この子のワガママに付き合ってもらって……」
「い、いえ、大丈夫ですから……あはは……」
実際、子供のやることだからなあ。病院なんて退屈な空間だったら、遊べなくてこの子――星君も溜め込んでいるのかも。そう考えると怒る気にはならない。
「楓、この後に急ぎの用はあるか?」
「うーん、帰ったら勉強くらいで、急ぎってわけじゃないですけど……」
珍しくおじさんに呼び捨てにされて首を傾げる。けど、すぐにわかった。俺とおじさんは他人から見れば家族だから、「君」づけで呼ぶのはおかしいかも。となると、俺の敬語もあんまりよくないかな?
「それならば、少しだけ星君の遊び相手をしてくれないか? 私はこちらのお母様と、少し話したいことがある。その間だけ頼む」
「はあ……わかりました」
おじさんとお母さんが、星君から目を離すのは心もとない。だから俺に見てもらうついでに、遊んでやってほしいってことだろう。おじさんの頼みとあれば断ることはできないし、星君と出会ったのも何かの縁だ。
「楓さん? 本当にごめんなさいね?」
「大丈夫です、お気遣いなく」
「ありがとう。星、お姉さんの言うこと聞いて、いい子にしてるんですよ?」
「はーい!」
星君は笑顔で元気よく返事をする。お母さんは心配そうに俺と星君を交互に見ながら、おじさんの後をついて病室を出て行った。病室に静寂が下りる前に、星君が待ちきれないと言った様子で話しかけてくる。
「ねえねえ、何して遊ぶ?」
「え、えーと……」
ぐるっと病室を見渡してみる。テレビの前にミニカーと飛行機のおもちゃはあるけど、それ以外は見当たらない。
「星君は何して遊びたい?」
「うーん、車遊びとしりとりはやだ。飛行機も。それ以外で」
おおう……いきなりおもちゃが全滅。まあ、いくら好きでも入院中に遊び飽きたのかもしれない。で、真っ先にやったのがしりとりかな。それも飽きたのかも。星君はどれくらい病院にいるんだろう。あんまり考えるのはよくないけど、そんなに重い病気なのかな……でもさっきは、おじさんのおかげで元気になったって言ってたし……。
「どうしたの、お姉さん? 早く遊ぼうよ」
「ごめんごめん、そうだね、何しようかなあ」
暗い考えを振り払って、遊びを探すことに集中する。でも、今日は健診に来ただけだし、ハンドバッグに遊び道具なんて入ってないしなあ。今の子はゲームとかしてるかもだけど、病室にはなさそうだ。
俺が小学生の時って、雨の日は何して遊んでたっけ。友達と遊んだ記憶は乏しいし、茜ちゃんとも遊んだというよりは、一緒にいただけのような気がする。お互いの家のどっちかに二人でいて、それぞれ別のことをしてたと思う。だから、改めて遊ぶとなるとよくわからない。
いや、一つだけ、茜ちゃんとやった遊びがあったかも。
「ねえ、お絵かきは好き?」
「お絵かき? うーん、それなりに」
「じゃあ俺と絵を描こうか」
とあるゲームを思いついて、ハンドバッグを漁る。うん、さすが俺。こんな時でも手放さないとは。
「なに、それ?」
「図鑑だよ。花とか草とかの」
今日の健診は順番待ちの心配はないけれど、検査結果が出るのには時間がかかる。だから暇つぶしになるものをいくつかバッグに入れていたんだ。そのうちの一つが、この植物図鑑。今日の小さいバッグにも収まるハンディサイズ。それを星君に手渡す。
「何するの?」
「適当な花の絵を隠してくれる? 今から俺が花の名前だけ見て、イメージで花を描く。その次は交代して、俺が絵を隠して星君が絵を描くんだ」
「花の絵を?」
「そう。想像で花を描いて、図鑑の絵とどれくらいそっくりに書けたか見せっこするんだ」
「似てたほうが勝ち?」
「勝負じゃないんだけど……まあ、それもいいかもね」
説明をしながら、バッグからメモ帳とシャーペンを取り出す。これは昔、俺が図鑑の花を覚えるために、茜ちゃんに付き合ってもらってやった遊びだ。思い出してみるとちょっとだけ、今の勉強方法と似ているかもしれない。相手に問題を選ばせて、自分が解くところなんかは共通点がある。
「よくわかんないけど……面白そう!」
興味が出たのか、星君は俺が言った通りに花の絵の一つを手で隠してページを見せてくれた。
「こう?」
「そうそう。えっと、フクジュソウか……」
典型的な「春の妖精」の一種だ。花弁はパラボラアンテナみたいに緩いカーブがあり、お椀みたいに咲く。中心のめしべを囲むようにおしべがあって、茎は短め……。
図鑑のイラストを思い出しながら、メモ帳にシャーペンを走らせる。もともと勉強のために持ってきたものだけど、こんなふうに役に立つとは思わなかった。
「できた」
「見せて見せて!」
星君はすぐさま俺からメモ帳をひったくり、図鑑の絵と見比べる。
「すごい、そっくり!」
「だろ? 今度は星君、描いてみる?」
「描きたい! でも、あんまり花って知らないよ?」
「大丈夫、簡単なやつにするから。何なら絵を見ながらでもいいよ」
「むぅ、それじゃ勝負にならないじゃん。いいよ、絵を見ないで描く」
「そう? じゃあ、星君にはタンポポを描いてもらおうかな」
「わかった!」
星君はメモ帳を捲り、新しいページにシャーペンで絵を描き始める。おじさんたちが帰ってくるまで、僅かな時間だったけど星君といろんな花を描き合った。時折小雨の音を遮るくらいの笑い声が響いて、俺も勉強や時間のことを忘れるくらい、懐かしい遊びを楽しんだ。
2016/08/13 台詞の誤字修正および追加