テストに向けて
その日の夕方。
帰宅してから洗濯物の取り込みとお風呂掃除を手伝った後で、俺は自室で携帯電話とにらめっこしていた。画面には菊池さんのアドレスが表示されている。通話ボタンを押せば、そのまま電話をかけられる状態だ。
今日学校で決まったことを、どう報告するべきか迷っていた。メールでもいいけれど、文面だとどうしてもよそよそしくなるので、諦めて電話をかけようと思った。でも、いきなり電話をかけると迷惑かもしれないし、出てくれない可能性もある。そう思うと、なかなか通話ボタンを押せなかった。
こんなことで時間を無駄にするわけにはいかない。今日から勉強すると決めた以上、早く取りかからないと。机の上に広げた問題集を一瞥して、いざ通話ボタンを押そうとした途端、携帯電話が震えた。
「ひゃっ」
びっくりして落っことしそうになったのを空中で受け止め、画面を確認するとメールを受信していた。なんだろうと思って、開いて読んでみる。
『 From:菊池さん
今日から学校だったよね?
アルバイトの件、店長が早く聞いてくれってうるさくて(笑)
家に帰ったら一度、電話かけてくれないかな? 待ってるね』
って、連絡しようとしてた菊池さんからじゃん。タイミングの良さに驚きながら、ふと最後の一文に目が留まる。
で、電話、かけていいってことだよね、これ? メール来たばかりだけど、待ってるなら早いほうがいいはずだし。うん、菊池さんが電話欲しいって言ってるんだから、大丈夫。
意を決して通話ボタンを押し、耳に当てる。何回かコールがあって、繋がった。
「もしもし、楓ちゃん?」
「あっ、はい。今、よかったですか?」
「大丈夫だよ。お客さんも少ないし……あっ、ええ、楓ちゃんからですよ。代わります?」
「あの、菊池さん?」
「ああごめん、今、店長もいるんだ。代わるからちょっと待って」
ガサゴソとノイズが聞こえた後、「もしもし?」と女性の声が聞こえてくる。
「楓ちゃんごめんね、お返事待つって言ったのに急かしちゃって~」
「いっ、いえ、大丈夫です。今日、学校の先生に許可をもらえるかどうか聞いてきました」
「それで、どうだったの?」
今回の件について、許可を得るには中間テストを高得点で乗り切らなければならないことを話した。紆余曲折は伏せたけれど、柊さんは少し驚いたようだ。
「楓ちゃんたちの学校って、けっこう厳しいのね~」
「まあ、私立の進学校ですし、生半可な成績じゃ却下されるみたいです。アルバイトと学校生活、両立できることを証明しないと」
「楓ちゃん的には、クリアできそう?」
「正直難しいかもしれないですけど、頑張るつもりです。あっ、テストの結果が分かるのは、今からちょうど二週間後なんですけれど、期限のほうは大丈夫ですか?」
最初の期限は、アルバイトを持ちかけられた日から二週間後までに返事だったから、テストの結果が分かる頃にはそれを超えてしまう。だから少し心配になって聞いた。
「ああ、それは心配しないで。楓ちゃんがオッケーなら、私たちはいつでも歓迎するから~。今はお勉強に集中して、ちゃんと学校の許可を取って来てね?」
「はい、頑張ります」
期限の問題がなくなってほっとする。ダメって言われたらこの報告も、榊先生に相談したことも無駄になる。アルバイトの話そのものがなくなるのも嫌だった。
「それじゃ、菊池くんに代わるわね~」
再びノイズが入り、それが止むと菊池さんの声が聞こえた。
「もしもし? なんか楓ちゃんを元気づけろって言われたけど……」
「え、柊さんが?」
「うん、店長が。アルバイトの許可取るの、思ったより大変みたいだね。楓ちゃんの負担にならなきゃいいけど……」
「そんなことないですよ。ちょっと勉強を頑張らないといけないですけど」
「無理はしないでね。大事な身体なんだから」
「はい。でも、せっかく頑張るんですから、ちゃんとアルバイトの許可取りたいです」
「うん、応援してるよ。テスト頑張って」
「はい」
「電話くれてありがとう。それじゃあ、またね」
ややあって、通話が切れる。ふうっと息をつきながら俺も携帯電話を閉じた。机に置いて、脱力した身体をベッドに投じて天井を見上げる。
「緊張したぁ……」
考えてみれば、誰かに電話をかけるのって初めてだった。図らずもその最初の相手が菊池さんだったから、なおさら緊張した。心臓は今もまだバクバクしてる。
菊池さんも期待してくれてる……のかな。応援するって言ってくれたし、身体の心配もしてくれたし。言葉だけでも、すごく嬉しく思った。
「あっ」
菊池さんのことを考えていたら思い出した。サルピグロッシスにまだ、水をやってない。俺はベッドから起きて一階へ下りた。
「茜ちゃん、ちょっと隣行って水やりしてくる」
「水やり? あ、昨日植えた……わかった。でも、帰ったらすぐに」
「勉強でしょ? わかってる、水だけあげたら帰って来るから」
「まったくもう……」
リビングで早くも勉強し始めていた茜ちゃんだったけど、呆れて笑いながらも止めなかった。感謝しながら家を出て、小坂家の玄関前に向かう。鉢は今朝見たときと同じ、軒下の日陰にあった。
種を撒いて一日なので、芽はまだ出ていない。
そりゃそうだ、と自嘲しながら土の状態を確認する。少し乾きすぎかな。やっぱり水やりを思い出してよかった。芽が出なかったらショックだもんな。
じょうろで軽く水をあげて、すぐに北見家へ戻る。本当はもっと時間をかけて世話したいけど、種を眺めていてもしょうがない。今できることをやらないと。
一度自分の部屋へ行って、教材を取ってからリビングに戻ってきた。茜ちゃんはそれに気づいたけど、何も言わないで勉強を続ける。ちょっとだけ微笑んでいるように見えたけど、なんでかはわからなかった。
「何かあったの?」
「ううん、ただ、お姉ちゃんとこうするの、すごく久しぶりな気がして」
言われてみればそうだ。小学校とかなら一緒に宿題をやってた気がするけど、大きくなってからはお互い別々に勉強するようになった。別に意識したわけじゃないんだけど、一人でやるのが普通になっていったんだ。
それは今でも変わらないし、一緒に住んでても俺は部屋、茜ちゃんはリビングでの勉強だから、結局離れてやっていた。こんなふうに二人そろって勉強するのは、いつぶりだろう。
茜ちゃんと暮らし始めてから、こんなふうに気づくことがときどきある。今まで何となく距離を置いてたことを、また小さいころみたいに二人ですることが増えてきた。俺が「お姉ちゃん」になったから、かな。物理的にも近くにいる時間が増えたし、心理的な距離感も昔みたいになくなってきているのかもしれない。もちろんそれは、いいことだと思う。
「お姉ちゃん、ここ教えて?」
「ん、どこ?」
やっている部分は同じだけど、俺のほうが経験の分、進むのが速い。たまに茜ちゃんの勉強を見ながら、俺も課題の問題集を進める。お風呂が沸いたことを自動タイマーが知らせてくれるまで、姉妹での勉強は続いた。
学校側から出された全七教科分の提出課題も、三日もあれば終わってしまった。クラブにも委員会にも入らなかった俺は、放課後はそれなりに暇なのだ。土日となれば一日中暇で、やることと言えば一通りの家事手伝いと、まだ芽が出ていないサルピグロッシスの世話だけ。それでも空いた時間はテレビを見たり、雑誌を読んだりして潰した。
そういうわけで勉強時間をたっぷり取ることができたので、予想よりも早いペースで課題を終わらせてしまったのだ。茜ちゃんは俺と一緒にやったし、茉希ちゃんと翔太もほとんど同時に課題を終わらせた。ただ一人、透だけはテスト前の土日が過ぎても課題を終わらせてなかったけど。
ともかく、学校側が出したノルマを達成しただけで、本当のテスト勉強はそれからだった。
次の日、四日目からは茜ちゃんと苦手科目を分析した。提出課題に使った問題集の、どこでよく間違ったか、どこで解くのに時間がかかったか。俺は茜ちゃんのノートを、茜ちゃんは俺のノートを見て、お互いにそういう間違いやすい問題を指摘し合ったのだ。
お互いに教え合えるし、自分の苦手なところもわかるので、勉強としてはとてもいい方法だった。事実、その回数を重ねるほどに問題の正解率は上がったし、俺のほうは凡ミスも少なくなった。理系なら問題を解くコツだったり、文系なら単語の暗記や文章の要点がわかるようになったのだ。
この調子で行けばかなりの高得点を狙える。俺ばかりか、茜ちゃんも八十点代に乗りそうだ。
もちろん普段の授業にも気を抜かなかった。いや、正確には気を抜けなかった、かもしれない。俺のアルバイトのことが先生たちの間で話題に上がったのは知っているけれど、そのせいで俺を見る目が変わったみたいだった。授業中の教科書の朗読や、問題の解答を指名されることがあからさまに多かったのだ。居眠りせずに授業に集中したのが幸いして、全部難なく答えられたのだけれど、当てられるのは心臓に悪い。ここ一週間は勉強よりも授業で疲れた。
そして、いよいよ明日から中間テストだ。
いわゆるテスト前日である今日は、授業が午前だけになっている。先生たちはテストの準備や最終調整があるので、授業をせずに生徒を早く帰らせるのだ。生徒たちはテスト勉強ができるし、最近の授業で参っていた俺にとっても悪いことじゃなかった。
四限目が終わるとすぐに帰りのホームルームに移り、榊先生が連絡事項を述べる。明日のテストの注意とか提出課題とか、そんな話もした。そして最後は激励の言葉だ。
「高校生になって初めてのテストだ。みんな、これまで勉強してきたことを活かし、気を抜かずに挑め。くれぐれも一夜漬けはするな、睡眠は充分に取るように」
号令がかかって解散、放課後となる。榊先生も数学担当なので忙しいんだろう、すぐに教室を出て行ってしまった。
クラスメイトたちも各々に帰っていく中、いつもの五人が集まって帰路につく。
「いよいよ明日からね……」
茉希ちゃんが真面目な顔で呟く。提出課題した上に勉強もやってるんだから、そんなに緊張しなくたって大丈夫だとは思うけど。
「どうせなら満点採る気で行くの。楓こそ、余裕かましてたら足元掬われるわよ」
「わかってるって。でも、緊張しすぎだって良くないだろ? 少しは心に余裕があったほうがいい」
「その考え方、俺はできないんだよなあ。いくら問題集やっても、間違える可能性はあるわけだしさ……」
「翔太くんも大丈夫だよ。ちゃんと勉強したんだから、落ち着いて解いていけば」
四人がテストへの意気込みを語る中で、一人だけ俯いて最後尾をトボトボついてくる坊主頭の男子がいた。透である。気にかけた翔太が真っ先に振り返って声をかけた。
「元気ないな、どうしたのさ」
「どうしたもこうしたもねーよ。明日から地獄だ……テストなんて解ける気がしねー」
あまりに絶望の顔色で言うので、励ますつもりで俺も口を開く。
「そんなに悲観してたら解ける問題も解けないぞ。透だってちゃんと勉強したんだろ?」
「してねーよ。課題だってまだ途中だ」
「さらば透、短い付き合いだった」
「ちょ、見捨てるのかよ楓!」
ガシリと肩を掴まれて前後に強く揺さぶられる。さすがは柔道男子、力が強すぎて振り払えない。かと言って無抵抗だと俺の脳みそと首が持たない。
「ぐふ!」
透の後頭部に茉希ちゃんの手刀がクリティカルヒット。ようやく解放されたけど俺は目が回ってくらくらする。透も衝撃で目から星が飛んでた。
「あんたの自業自得でしょうが。楓に当たるのはやめなさい」
「ぐう……」
「そもそも、透はなんで課題すらしてないのさ? 茉希が見てくれたんじゃなかったの?」
俺に代わって翔太が尋ねると、透はぐうの音も出ないようだった。結局のところ、茉希ちゃんが見てくれたところだけ解いて、自主的にはしてなかったってオチだろう。
「まあ、まだ一日あるんだし、死ぬ気でやれば赤点くらいは避けられるかもね?」
「くそ……一夜漬けに賭けるしかねーか……」
榊先生が一夜漬けするなって言ってた気がするけど、俺は口を噤む。透の最終手段を防ぐのはさすがに忍びなかった。
俺だって透の心配ばかりしてられない。明日のテスト初日に備えて、みんなと同じく気持ちを引き締めた。