交渉
朝のホームルームが終わってすぐ、榊先生を呼び止めて、アルバイトの件を軽く伝える。次の授業まで時間がないので、ここで返事は聞かない。昼休みに職員室で詳しく話をする旨を言って、そこでは別れた。
春の陽気に当てられて膨らむ睡魔と戦いながら、午前中の授業を乗り切る。アルバイトをする以上は授業態度と成績がいいに越したことはない。学校生活に支障をきたすようなら、却下される可能性が高いからだ。
授業態度のほうは、最近は授業中も居眠りすることは減っていて、先生からの評価も上がりつつある。俺の抱き枕のおかげだな。
成績のほうはと言えば、こちらも大して問題にならないだろう。もう少しで中間テストもあるのだが、俺は本来二年生に上がるべきだった頭の持ち主だ。それは今の脳にも受け継がれていて、今の授業だって理解できないことは一つもない。すでに一度、この学校で習ったことだからだ。そういうわけで、学校側に成績の心配をされても、大丈夫だと絶対の自信をもって答えることができる。
俺のほうに問題がなければ、あとは学校側の裁量次第だ。担任の榊先生を通じて申請されるはずだから、先生が反対していない限り、俺を貶めるようなこともしないと思う。
必要なのはアルバイトをするにあたっての正当な理由だ。これが一番の悩みの種で、昼休みまでになんとしても先生を納得させられるものを考えなきゃいけなかった。授業を聞いているふりして、頭の中はこれでいっぱいだ。時折ノートを書き写しながら、心の中で唸る。
それでも榊先生を納得させられそうな材料を集めて、つぎはぎのように寄せ合わせて文にしてみる。拙くて語彙力も物足りない内容だけど、要点を確実に伝えることができれば、納得させることもできると思うけど。
そんなこんなで昼休みを迎えた。先生との約束は昼休みだけど、昼食の時間を考えれば早く行くに越したことはない。それでも席から立ち上がれずにいると、茜ちゃんと茉希ちゃんが来た。
「お姉ちゃん、職員室に行くんでしょう?」
「そうだけど……これで先生が首を縦に振ってくれるかどうか」
「今更悩んだってしょうがないわよ。別に取り繕うわけでもないんだし、素直に考えてることを伝えなさい。ほら、立った立った」
「ちょ、一緒に来るの? 大丈夫だよ、職員室までなら一人でも」
「だめよ、何度言ったらわかるの。あんたを狙う男どもはいつだって隙を窺ってるのよ。一人になったら最後、職員室なんてたどり着けないわ」
「だからわたしたちも一緒に行くの。ほら、急がないとお昼休み終わっちゃうよ」
二人に急かされて、ようやく席から立ち上がる。正確には立ち上がらせられ、職員室に連れて行かれる。なんだかなあ、アルバイトをしたい俺よりも、この二人のほうが積極的に動いているように感じるのは何でだろうな?
教室を出て職員室へ向かう途中は、変わったことはなかった。ただし、一人でも大丈夫だったかと言われれば、そうでもない。男女問わずに、俺はいまだ注目の的のようだ。俺を狙っているらしい男子もいるらしく、茉希ちゃんを見て退散していく姿をちらほら見かけた。
「ごめんな、二人とも」
「いいのよ。それよりも、ちゃんとやって来るのよ?」
「うん、わかってる」
「頑張って、お姉ちゃん。わたしたちはここで待ってるから」
職員室の前に辿り着くと、扉の前で二人と別れる。俺は単身、中へ入った。
「失礼します。榊先生はいますか?」
「北見楓か、こっちだ」
いつものデスクの前に榊先生はいた。食事中に来られるのを嫌ったのか、デスクに乗ったお弁当を開けずに待ってくれていたらしい。昼食を取らずに来て正解だった。
「アルバイトの件なんですけど」
「ああ。詳しく聞こう」
俺は教室で書いてきたメモを片手に、「Radiant Flower」のことを話す。どんな場所で、どんな人たちがいて、どんな風に働くのか、なぜ働きたいのか。思いつく限りのことを榊先生に伝えた。
「大型ショッピングモール内にある花屋、か。お前は確か植物や園芸には詳しいんだったな?」
「ええ、まあ。店長の柊さんはそれもあって、俺に声をかけたんだと思います。大したことではないですけど、実際にお店を手伝ったこともありますし、他のアルバイトの方とも顔見知りなんです」
「なるほど。募集で来た人よりもはるかに信頼が置けるし、お前にとっても悪い話じゃなかった、ということか」
「はい、そうです」
「私はいいと思うぞ。こういう機会でもなければ、なかなか社会に触れることは少ない。むしろいい経験になるだろうからな、私は賛成だ」
「本当ですか?」
話しながらいい感触だと思っていたけど、すぐに賛成してくれるなんて予想外だった。でも、俺のほうはまだ話していないことがある。
「でも、その、アルバイトするにあたって、特別に事情があるわけではないんですけど……」
「そんなものは建前さ。中には家庭の事情で、という理由もあるからな。誰でも許可するわけではないが、一定の条件下ではハードルを下げることも可能なんだ」
成績の良し悪しに関係なく、金銭的問題やその他の家庭の事情で、アルバイトをせざるを得ない人もいるということか。例えはよくないけど、先生の言いたいことはそういうことかもしれない。
「お前にはその理由がないものの、さっき言ったようにこれはいい経験になるだろう。働く上での社会のルール、上司との付き合い方、金銭感覚、接客によるコミュニケーション能力の向上。得られるものは多いはずだ。学校生活に支障をきたさない、特に授業態度や成績が悪くならないことを約束できるなら、この申請も通るだろう」
はっきりとアルバイトの許可が下りることを聞くことができて、俺は安心すると同時に嬉しさのあまり顔が緩みそうになる。ここが職員室じゃなかったら、飛び跳ねて喜んでしまいそうなくらい。けれど、
「そんなに簡単に許可を出してしまっては、校内の風紀に障りますぞ」
突如、向かいのデスクから飛んできた言葉に、俺の思考は一時停止した。
「鹿角先生、聞いていらっしゃったのですか」
「聞こえていたんですよ、榊先生。北見楓がアルバイトをしたいと、そういう話でしょう? 私としましては反対ですな、特に彼女の場合は」
見ていて癪に障る笑みを浮かべながら、痩せ形で中背のオッサンが席を立った。骨と皮しかないような気味悪い手で眼鏡の位置を直しながら、デスクを回ってこっちへ来る。
転校当日から俺に目をつけている、化学教師の鹿角だ。気難しい上に教え方は雑、陰気な見た目も相まって、クラスメイトの間では悪い噂しか流れない最悪の先生だ。誰も笑ったところを見たことがない彼が口を歪めているのを見て、嫌悪感が鳥肌を立たせる。
「どういうことでしょうか?」
「榊先生もご存じでしょう? この生徒は一限目も、二限目も三限目も昼前の四限目でも、机に突っ伏して居眠りしていることで有名な転校生ですから。そんな授業態度が最悪とも言える彼女に、アルバイトの許可など下ろしたらどうなることか」
「っ……」
俺は唇を噛みしめて、視線を床に移す。
授業中に居眠りしたことが悪かったのはわかっている。不本意な寝不足や体調不良があったとしても、それを言い訳にして正当化することは筋違いだ。鹿角先生の言い分だって、教師としては正しい。
でもそれだけじゃない。鹿角先生の場合は、何か意図的に俺の行動を否定しているとしか思えない。
「それは彼女が転校当初で、生活環境が急激に変わった反動でしょう。その時こそ彼女の居眠りは目立ちましたが、今ではそのような報告は上がっていません。連休中の課題もすべて提出しているようですし、成績面でも問題ないと思われますが」
「いいえ、授業態度こそ重んじるべきでしょう。他の生徒にも示しがつきません。居眠りしたことのある彼女だけがアルバイトを許可されて、自分はなぜ許可されない? そういった不満が学校全体に広がってしまいますぞ」
榊先生と鹿角先生の主張が対立する。お互いの口調はまだ穏やかだが、一歩も引かない力強さが滲み出ていた。傍にいながら口を挟めない俺にとっては、非常に居心地が悪い。問題の発起人となればなおさらだ。
「何を揉めているのですか?」
その時、職員室の奥のドアからもう一人の先生が顔を出した。そのドアの先は廊下ではなく、この学校の上位の職員が出入りする部屋だ。そこから出てきたということはつまり。
「校長先生……」
俺が呟くのと、先生二人が校長先生の顔を見るのが同時。それから鹿角先生は前に出て、至って真面目な顔で畏まる。
「おお、これはこれは。何、この生徒のアルバイトを許可するか否かで、榊先生と討論していたまでです。しかしながら、校長のお手を煩わせるほどではございません。私にお任せを」
「いえ、ここは校長にも意見を伺いたく思います」
鹿角先生の言葉より大きく声を発して、榊先生が校長先生に訴える。
「アルバイトや課外活動は、いずれ社会に出る生徒たちにとって貴重な経験になるはずです。校則や常識の範囲内で、そういったことを許可することも時には必要ではないでしょうか」
「何を仰る。校則に反するか否かを未熟な生徒たちが判断できるわけがない。我々教師が制限をかけなければ、ただの小遣い稼ぎをしたいと考える生徒が後を絶えなくなりますぞ。勉学に関係のないことを許可するなど言語道断だ」
「学校は勉学のみを教える場ではありません。生徒に一般知識を学ばせ、社会的自立を促す教育機関です。時には課外活動を許可して、社会での経験を得ることも必要だと思いますが」
「まあまあ二人とも、少し落ち着きなさい」
先生たちが討論するのを見かねて、校長先生が穏やかに宥める。
「双方とも主張はもっともです。生徒の積極性や社会的自立を促すためには課外活動も視野に入れるべき。しかしそれで勉学や校内風紀に支障をきたせば本末転倒と。二人の意見の相違としては概ねそういうことでしょう?」
「ええ、仰る通りです。しかし今回の彼女の場合、授業態度が芳しくなく、私や他の教科の先生方からもたびたび注意を受けておりました。僅かに改善の兆しがあるとはいえ、中間テストを二週間以内に控えた今、アルバイトの許可を下ろすにはもうしばらく観察が必要かと……」
「それですよ」
榊先生が前触れなく口を開く。鹿角先生も思わず言葉を切り、榊先生のほうを見た。
「それ、とは?」
「中間テストです。彼女が次のテストで良い結果を出せば、アルバイトの許可を出すということでどうでしょうか?」
「榊先生、それはいくら何でも軽率すぎますぞ。たった一度のテストの結果だけでアルバイトを許可すれば、やはり生徒の不満を掻き立てることに」
「鹿角先生は言いましたよね? 彼女には授業態度に改善の兆しが見られると。その上でいい成績を残したなら、彼女がアルバイトをすることに何の問題がありますか?」
自分の失言を取られて、鹿角先生は苦い顔をする。
「しかし、周りの生徒にはやはり示しが……居眠りで注意を受けた彼女だけがアルバイトを許可されるなど、他の生徒から見れば不平等もいいところでしょう」
「彼女はきちんと授業態度を改善し、いい成績を残したうえでアルバイトの許可を得る。周りはそれを見て、アルバイトしたければ彼女のように授業態度を改め、好成績を残せばいいと考えるようになると思いますが?」
榊先生は、俺がアルバイトをしたい生徒たちのいい見本になればいい、そう主張しているのだ。なんだか大事になってきたことを理解して、握る掌に汗が滲む。
「ふむ」
二人の討論が止まって、ようやく校長先生が口を開いた。
「わが校の教育理念に『生徒の自主性・自律性を尊重し』という一文があります。生徒を個人として扱うことで、責任を自覚する人間を育成するためですね。つまり、生徒が積極的に取り組むことに対して、我々教師が無碍にチャンスを取り上げることは、これの本意ではないのです」
校長先生はゆっくりと榊先生、それから鹿角先生に視線を移して、最後に俺の顔を見る。ここでは誰よりも穏やかで、でも芯には威厳のある視線に、萎縮して顔を逸らしそうになる。
「君は心からアルバイトをしたいと、そう思っているのでしょう?」
「は、はい。もちろんです」
答えると、校長先生は改めてにっこりと笑みを浮かべた。
「それなら、君がアルバイトの許可を得るにふさわしい生徒であることを示すことです。君と同じ考えを持つ生徒たちも、後に続いてくれるかもしれません。結果を期待して待っていますよ」
そう言い残して、校長先生は出てきたドアから職員室を後にする。しばしの静寂の後、鹿角先生は苦い顔をしながら自分のデスクに戻っていった。
「まったく、外野は黙っていればいいものを……」
その背中を睨みつけながら榊先生が呟く。ぎょっとしたけど、当人には聞こえなかったようだ。それから俺に視線を向けて、溜息をつきながら椅子に座った。
「とりあえずチャンスは掴んだ。後はお前の努力次第だ。他に聞きたいことはあるか?」
「えっと……今はまだ考えがまとまらなくて」
「そうか。まあ少し大きい話になったからな。放課後、時間があるならその時に話そう。昼食はまだなら、早く戻ったほうがいい」
「はい。ありがとうございました」
お弁当の包みを広げ始める榊先生に礼を言って、俺は職員室を後にした。