無自覚
「それで、どうだったの?」
学校へ登校するや否や、待ち構えていたかのように茉希ちゃんが詰め寄ってきた。なんだろう、おはようの代わりの新しい挨拶か? そんなわけないよな。しかし、何がどうだと聞かれているのか、主語がない以上はわからない。
「どうって、何が?」
「決まってるじゃない。楓と菊池さんの初デートよ」
「ああ……はっ、つデートぉ?」
公の場で言われる恥ずかしさといきなり言われた戸惑いから、舌がもつれてよくわからない言葉になってしまう。
確かに茉希ちゃんは菊池さんとの一件のことも、ペイスへスイーツを食べに行く予定があったことも知っている。だからって、デートなんて言った覚えはない。
「あれはデートじゃないよ! ただ一緒にスイーツを食べに行っただけでっ」
「例のパンケーキ屋さんでしょ? アタシが紹介したいところだったのに、先手を取られちゃったわね」
「なんでそこまで知って……?」
「茜からメールで聞いたわよ」
「あああ茜ちゃん!?」
こやつら、裏で繋がっておったのか! それで茉希ちゃんがデートだのパンケーキ屋だの、俺は話した覚えもないのに知っているわけか。俺の情報が全部筒抜けじゃないか!
「違うちがう、わたしもデートなんて言ってないよ。それにわたしにだってあんまり詳しくは言ってなかったでしょ?」
「そうじゃなくても、あんまり恥ずかしいこと教えないでよ。特に茉希ちゃんには」
「な・ん・で、アタシにはダメなのよ~?」
「ぐえ、やめ、そういうことするからだよ!」
俺より背の高い茉希ちゃんにチョークスリーパーをかけられると、簡単には振りほどけない。もちろん本気で首を絞めているわけではないので苦しくはないけど、まるで男子みたいな悪乗りの仕方には付き合ってられない。
「で、本当のところどうなのよ?」
「だからデートじゃないってば……」
「男女二人だけでスイーツ食べに行ったんでしょ? デートと言わずして何と言う。ねえ、茜?」
「うん、当人たちがどう思っていても、傍から見ればデートだよね」
「茜ちゃんまで……ええい、外野が何と言おうとあれはデートじゃないんだよ! 菊池さんだってそういうつもりで誘ってくれたわけじゃないんだから!」
「あら、それは残念ね」
首を絞めていた腕を解いて、やっと俺を解放する茉希ちゃん。
「別に残念でも何でもないよ。わかりきってたことなんだから」
「でもお姉ちゃん、出かけるときはすごくうきうきしてたじゃない。ただスイーツ食べに行くだけなのに」
「だってそれは、菊池さんが誘ってくれたから……」
「ぶふっ」
何がおかしかったのか茉希ちゃんは盛大に噴き出した後、お腹を抱えて笑い始めた。あろうことか茜ちゃんも、笑いを堪えきれずに顔を逸らして肩を震わせている。
「俺、何かおかしいこと言った?」
「うん、うん。すごく面白いこと言った。ねえ?」
「お姉ちゃんって、ふふっ、自覚ないんだ?」
「自覚? どういうこと?」
言葉の意味が分からずに首を傾げて聞き返す。笑い終えた茉希ちゃんが「そうねぇ」と呟いて、
「例えば、透がまったく同じようにあんたを誘ったら、そこまで楽しみにする?」
「透が俺にスイーツを食べに行こうって?」
「そうそう」
「うーん……ちょっと想像しにくいってのもあるけど、たぶんならない、かなあ」
「じゃあ翔太くんに誘われたとしたら?」
今度は茜ちゃんに聞かれて考えるけど、答えは透と同じだ。菊池さんとどう違うかと聞かれれば難しいのだけれど、言いようもない高揚感とか緊張感とか、そういうのは二人に誘われたとしても感じられないと思う。
「つまるところ、楓は菊池さんに対しては特別な何かがあるわけよ」
「特別な何か?」
「心当たりない? 菊池さんといるとドキドキするとか、気が付いたら目で追ってるとか」
茉希ちゃんに言われて思い返してみると、そういうことがあったかもしれない。スイーツを食べに行った日だって、会う前からかなりドキドキしてた。いつも以上に身嗜みが気になったし、お店に入ってからも、人混みの中で手を繋いで歩いているときも、ずっと鼓動は落ち着かなかった。そして気が付いたらずっと、菊池さんだけを見ていたかもしれない。
「思い当たる節があるみたいね」
「なんでそんなことわかるんだよ……」
茉希ちゃんは顔を見るだけで何でも見透かしてしまう。一時はそれに救われたり安心したりもしたのだけれど、今はただただ怖い。知られたくないこと、隠したい恥ずかしいこともわかってしまいそうで。警戒と威嚇の意をこめて、じっと茉希ちゃんを見つめる。
「お姉ちゃん」
「むー、なに? 茜ちゃんまで俺をからかおうってんじゃ……」
「それね、きっと恋だよ」
「……コイ?」
あれかな、魚編に里って書くやつ。大きい池とかで飼われてる食べられない高級魚。って、今のくだりでなんで魚が出てくるかな。現実逃避もここらへんにしとこう。
「こいって、恋?」
「そう。恋愛の恋の字」
「要するに、楓は菊池さんのことが好きなんじゃないの?」
茉希ちゃんに言われて目をぱちくり。いや、何を言っているかわからないわけじゃないけど。つまり二人は、俺が菊池さんのことを好きで、恋しているんじゃないかって、そういうことだ。うん、大丈夫、俺の頭は正常に働いて――
「恋……好き……えっ、俺が菊池さんを? えっ、えっ? なんで?」
「知らないわよ。でもきっかけはたぶん、前のナンパから助けてくれたとき、とかじゃないの? 助けられて惚れちゃった、とか。まあありがちな話よね、悪くないしむしろ全然いいと思うけど」
「お姫様を守る騎士様、って感じだね。菊池さんがお姉ちゃんを助けるところ、見てみたかったなあ」
「見れなくても本人から聞くことができるじゃない。ほらほら、この際だから洗いざらい話しなさいな」
「いや、なんでだよ……って、そうじゃなくて!」
言葉の意味だけの理解じゃ足りなかった。つまりそれがどういう状況なのか、そこまでわかったから動揺したのだ。危うく二人に話題をすり替えられそうになったけど、ここは冷静になろう。まずは深呼吸。
「すぅー、はぁー……」
「まさか本当に自覚無しだったなんてねぇ。それで、今どんな気持ち?」
「どんなって……どうしたらいいかわからない」
困惑しながら答えた俺に、茜ちゃんは何だか納得したように頷いている。茉希ちゃんも概ね同じ反応で、「青春だね~」などと歳不相応なことを呟いた。あんたもその時期真っ盛りの歳だろうに。
「菊池さんのこと、好きじゃないの?」
「いやだから、その、そういう恋愛感情的なことははっきりわかんないっていうか……経験がないものだから」
「あらま、初々しい」
茉希ちゃんはわざとらしく口を手で覆っておどける。目元が笑っているので、見ていてちょっと癪に障る。
「いいだろ別に。ともかくまだはっきりとは言えない。もしそうだとしても、菊池さんの気持ちがわからないし、好きになっていいかどうか……」
「それは絶対、いいに決まってるよ」
「わかんないよ。だって俺……」
一旦言葉を切って周りを確認する。ここからはこの三人だけしか知らないこと、俺が抱える問題だ。近くに聞いている人がいないことがわかっても、なるべく声量を抑えて、続けた。
「……元は男なんだぞ? 口調も仕草もこんなんだし、気持ち的にもまだ時間がいると思ってる……なのに、それなのに、男の人を好きになるなんて、いいことなのかわからない……」
もし菊池さんが好きという気持ちが女の身体の本能から来ているのなら、それを押し止めてしまうのは男の理性が残っているからだ。少なくとも俺の見識では、男同士が好きになるなんてありえない。身体は女だけど、考え方はまだ男のままだ。好きとか恋とか、そういう気持ちでいたのだと冷静になって気づいた途端に、それは悪いことなんじゃないかって、不安になる。
「俺だけの問題じゃない。俺のことを菊池さんが知ったら、嫌われるかもしれないって……そう思ったら、すごく怖いし……」
言葉にするたびに自信がなくなって弱気になる。いや、最初から自分に誇れるものなんてないし、そんな俺のことを菊池さんが好きになることは、万に一つもないんじゃないだろうか。恋愛対象として見られなくてもいいから、絶対に嫌われたくない。
「お姉ちゃん?」
いつの間にか机に目を落としていた俺の頭の上から、茜ちゃんが優しく声をかけた。ゆっくり顔を上げると、茜ちゃんは何もかもを包み込むような、女性の微笑みを湛えていて。俺なんかよりずっと大人に見える妹の優しい表情に、目を奪われた。
「誰かを好きになることに、いいも悪いもないよ。お姉ちゃんが好きになるかどうかは、お姉ちゃんの自由なんだから」
「要するに、好きになったらしょうがないってことよね」
「うん、そう。お姉ちゃん、今はその気持ちを大切にして? 不安になるのはわかるけど、その気持ちをなかったことにして、自分に嘘をついたら駄目だと思う。そうしたら、きっと後悔するから」
茜ちゃんも茉希ちゃんも、俺の気持ちを肯定してくれる。その上で不安なことも、自分に嘘をついて逃げたくなる衝動も、共感してくれる。それだけで重く考えていたことが、少しだけ軽くなった気がした。
「おっす。三人とも朝っぱらから固まってどうした?」
「あーもー透、あんたってホント空気読まずに入ってきちゃって!」
登校してきた透、それから翔太も教室に入って来て、俺の人生初の恋愛話はお開きを迎える。
「おはよう。三人とも何の話してたの?」
「えへへ、男子には内緒の話。ねえ、お姉ちゃん?」
「そうだな、二人には内緒だ」
顔を合わせて笑い合う俺たちを見て、翔太が首を捻っているのが面白い。茉希ちゃんと透はいつもの言い合いに発展しているけど、それすらも賑やかな日常の一風景になりつつあった。
二人に打ち明けられてよかったと思う。まあ、打ち明けたというよりは誘導尋問に近いものだったけど、自分の気持ちに気づけたわけだし、共感してもらえたおかげで気が楽になった。
菊池さんが好きかもしれないこの気持ちに、もう少し前向きに付き合ってみよう。伝える勇気はまだないけれど、もっと会って話して、俺の中で本物かどうか確かめたい。そうだよ、そのためにもちゃんと学校側にアルバイトの許可をもらわなきゃ。