距離感の量りかた
俺は一人、二階の自室で植物図鑑を眺めていた。これは小坂家の自分の部屋から持ち出してきたものだ。あそこにはまだ、ここに持ち込めていない図鑑や本がたくさんある。全部は持って来れないので、お気に入りだけをこの部屋に置くつもりだ。
ちゃぶ台の上に数冊を広げて、同じ花に纏わる本ごとの文の違いを比べながら、俺は夕食までの暇つぶしをしていた。今日の分の宿題はさっき終わらせたし、いつもなら夕食の準備をする茜ちゃんを手伝っているのだが、今日は久々におじさんが帰ってきている。忙しい医学者であるおじさんが、茜ちゃんと父娘水入らずでいられる貴重な時間なので、気を遣って席を外しているわけだ。
ダイエットの問答があったばかりなので夕食のメニューは気になるところだが、おじさん曰くいつも通り生活したほうがいいらしいので、あまり神経質になる必要もないようだ。健康って意識すればするほど難しいものだし、しばらくは体重計とにらめっこするにしても、多少の体重の増加には目を瞑ったほうがいいのかもしれない。いわゆる成長途中ってやつで、体重が増えているのもそのせいかもしれないのだし。
おっと、そうやって気にしてたらますます逆効果だ。もう考えるのをやめよう。
図鑑のページを捲って頭の中身を切り替えたのと同時、机の上の携帯電話が振動した。
「なんだろ、電話?」
流行りの歌とか音楽はわからないので、着信音はない。それは別にいいのだけど、メールと電話の判別がつきにくかった。いざ携帯電話を開いてみると、着信したのはメールだった。
「わ……菊池さんからだ……」
送信元の名前を見た瞬間に、なぜだか心臓が一度、大きく脈打った。多分、菊池さんと連絡を取るのは初めてだから、ちょっと緊張してるのかも。ともかく、内容を見なきゃ。
「えーっと……今度の月曜日のことか」
ちょっと前に菊池さんとスイーツのお店に行く約束をしたのだ。文面を確認すると、最初の通り待ち合わせは二時にペイス内の「Radiant Flower」ということだった。その時は口約束だったから、確認のためのメールでもあるんだろう。
「『わかりました』っと……」
ポチポチ……ううん、打ちづらいな。手が小さいっていうのもあるけど、そもそも使い慣れてないからなあ。たった六文字を打つだけでも疲れるけれど、でもそれだけじゃ返事としてもちょっと素っ気ないな……。
返信に迷っていると、ふとドアがノックされた。
「私だ。今、ちょっと部屋に入ってもいいだろうか?」
「えっ、あ、はい」
慌てながらも返事をすると、ドアが開いておじさんが入ってきた。
おじさんはその場でぐるりと部屋を見渡して、お決まりのように顎に手を添えた。
「ふむ……特にこれといったことはないようだが」
「えっと……何か用でした?」
「ああいや、今のうちに部屋を観察しておけば、楓くんが眠れない原因のヒントが見つかるかもしれないと思ってな。滅多にこういう機会がないものだから、今のうちに見ておこうかと」
そういえば、おじさんに部屋を見てもらう約束もしてたんだっけ。俺はいったん携帯電話と植物図鑑を閉じて、おじさんが部屋を見やすいようにドアの外に出た。
おじさんは部屋に踏み込むと、布団の状態や窓の位置を見て、何やらメモを取っている。
「このぬいぐるみは?」
「ウーパールーパーの抱き枕ですけど」
個人的にはクマよりも胴長で抱きやすいウーパールーパーのほうが、よく眠れる気がする。のほほんとした表情にも癒されるし、おかげで愛着湧きまくりだ。
「ああ、これが抱き枕なのか……」
「抱き心地はいいですよ。抱いてみますか?」
「いや、遠慮しておこう」
きっぱりと断って、メモにだけ書き残すおじさん。俺はこいつの魅力がわかってもらえないことが腑に落ちなかったが、無理に勧めることもできない。むう、残念だ。
「とりあえず、部屋の状況を元に知り合いの医師にも聞いてみよう。何かわかったら検診の時にでも伝える」
「わかりました。わざわざありがとうございます」
「これくらいお安い御用だ。それと……」
おじさんは一度言葉を切った。また顎に手を当てて、何か考えるような仕草をしてから、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「あまり、堅苦しい敬語は使わなくていい。楓くんとは長い付き合いだ。私の娘などとおこがましいことは言えないが、仮にも家族の身なのだし……その、変な気は遣ってほしくないのでな」
普段から口下手なおじさんにそこまで言われて、察せないわけがない。確かに俺の口調はちょっと他人行儀だった気もする。幼馴染の親ってそこまで距離があるわけじゃないのに、どうして敬語を使ってたんだろうか。
小さい頃はもっと気兼ねなく話しかけられた。それから歳を取るにつれて、ある程度は目上の人に対する態度というか、言葉遣いをだんだん考えるようになっていった。でも、敬意を払うのと距離を置くのは全く別のことだ。おじさんの言葉でそれがはっきりとわかった。
けれど、今更急に変えられるものじゃないし、距離感って言うのも大事だ。そう考えるとなんだか難しいな。敬語をやめろ、っていうわけじゃないだろうし、でももっと親しげな感じで話せないものかな。
「まあ、私も仕事があってあまり話す機会はないだろうがな。願わくば一度、三人で何気ない談話でもしてみたいものだ」
もっと話せれば打ち解けられるかもしれない。おじさんの言いたいことはそういうことだろう。
俺の立場はいわゆる養子で、事実そういった手続きの元、北見家での生活が出来ている。だからおじさんには親の念もあり恐れ多い感覚もありで、どの距離感で話をしていいかわからないから、堅苦しい敬語になってしまうんだろう。これも結局は時間と慣れが必要だ。
それでもおじさんが言葉にしてくれたおかげで、距離はちょっとだけ縮まった気がする。
「ありがとう、おじさん」
「……葵の入れ知恵だよ」
そう言って照れくさそうに笑った。珍しい、というかおじさんのそんな表情を見るのは初めてで、俺の口元は自然と綻んだ。
「俺ともそうですけど、茜ちゃんとも話をしてあげてくださいね」
「私の仕事の話など詰まらんだろう。だから、お前たちの学校や遊びのことを、今度聞かせてくれ」
「二人ともー、ご飯できたよー」
一階から茜ちゃんの声が聞こえた。夕飯の支度ができたらしい。
「今度なんて言わないで、今からどうですか? 夕飯の時くらい、家族団欒しないと」
俺が言うと、おじさんは顎に手を当てながら柔らかく笑った。
「……そうだな、考えてみれば今がいい機会だ」
慣れない言葉を残して部屋を出ていく背中に、俺は笑顔で頷いていた。
おじさんは明日また朝早くに病院へ戻るらしい。談笑しながら夕飯を取った後、おじさんはその雰囲気を惜しみながらリビングから出て行った。おじさんの寝室は一階にあるリビングの向かいの和室で、二階の書斎は仕事用の部屋らしい。これから寝るおじさんを起こさないように声の音量を下げた。
「おじさん、楽しかったのかなあ?」
「楽しんでたと思うよ。お父さんが笑うの、わたしも久々に見たから」
ほとんどは俺と茜ちゃんが話を振り合って、おじさんが聞いているようなスタンスだった。つまりおじさんは聞いているだけだったんだけど、それでも笑ってたってことは、それなりに楽しんでたってことなのかな。
「おじさんってあんまり仕事のことは話さないんだね」
「うーん、あえて話さないようにしてるのかも。せっかくのお休みなんだし、お仕事から離れたいんじゃないかな? わたしも興味はあるけど、無理に聞きたいって思わないから」
茜ちゃんの言うことも一理ある。仕事で疲れて帰ってきてるんだから、休みの時くらい仕事の話題から離れたいものかもしれない。大変そうだなあ……。
「お姉ちゃん、まだここにいる?」
「あ、うん。もうちょっとゆっくりしてようかな」
「部屋に戻るなら電気消してね。わたし、お風呂入ってくるから」
「ん、わかった」
返事をしながら、リビングの壁掛け時計を見る。そろそろ八時か、まだ寝るにはちょっと早い。けど、なんだか今日中にやらなきゃいけないことがあったような……。
「あっ!」
「な、なに? どうしたの?」
急に大声を上げたせいで驚いた茜ちゃんが、椅子に掛けようとしていたエプロンを取り落した。
「ご、ごめん。菊池さんのメールの返信、今まで忘れてたのを思い出して……」
「メールの返信?」
パジャマのお尻のポケットに入れていた携帯電話を開いて、メールを茜ちゃんに見せる。
「これなんだけど……」
「ああ、月曜日の……普通に『わかりました』でいいんじゃないかな?」
「そう思ったんだけど、なんていうか、素っ気なく思われる気がして……かと言って、何か他に言うこととかあるわけじゃないんだけど、その……」
「ははぁ……」
茜ちゃんは文面を見ながら顎に手を当てる。しばらく無言で考えた後、「そういえば」と続けて言った。
「これって、お姉ちゃんと菊池さんだけで行くんだっけ?」
「あれ? てっきり、茜ちゃんと茉希ちゃんも行くって思ってたんだけど」
「え、そうなの? でもわたしたちのほうには連絡来てないし……というか菊池さんのアドレスも交換してなかったよ。そもそもあの時に菊池さんが誘ったのはお姉ちゃんだけだったと思うけど」
俺は菊池さんとの会話を思い出してみる。スイーツの話題を振られたときは確かに、俺と菊池さんだけで会話していた気がする。予定が空いてるかどうかを聞かれたのも俺だけだったし……。
「えっと、どうしたらいい? 返事もそうだし、俺だけで行ってもいいのかな……?」
「いいと思うけど……うーん、じゃあこうしよう」
茜ちゃんは一人そう呟いて、ポチポチと何か打ち込み始めた。俺より慣れているのか、ちょっとだけボタンを押すスピードが速い。内容も結構長いけど、何を打ち込んでいるんだろう?
「送信、っと」
「えっ、メール打ったの?」
茜ちゃんは最近見せるようになった悪戯っぽい笑みを浮かべながら、驚く俺に向かって携帯電話を差し出した。
「……待ち合わせをバス停に?」
「そう。お姉ちゃん一人だと危ないから、なるべく早く菊池さんと合流できるように」
「そこまでしなくても……菊池さんに迷惑かもしれないし……」
「確かに菊池さんには面倒かけるけど、お姉ちゃん、ペイスで連れ去られそうになったの忘れてない?」
「う……」
そうだ、ナンパされて危ない目に遭いかけたんだ。菊池さんが来なかったらどうなっていたことか……今思い出してもぶるりと身体が震える。ペイスに一人で入るのはいろいろと不安だ。
「電車やバスでも気を抜くと危ないけどね。痴漢とか注意しないと」
「うぅ……」
ということは、茜ちゃんの言う通りなるべく早く菊池さんと会えるほうがいいな……。さすがに電車やバスまで送り迎えしてもらうのは我儘すぎるから、バス停で待ち合わせって形になったのか。
「とにかく、そうやってさり気なく一人で来ることを伝えて、菊池さんの返事を待つの。菊池さんがわたしたちも一緒に来るものだと思ってたなら、他の二人はどうしたのって聞いてくるはずだよ」
「なるほど……」
「ついでに一人が不安なことも伝えればバス停で待ち合わせしてもらえるし、菊池さんと早めに会えるよ。多分優しそうな菊池さんなら、我儘を聞いてくれると思うけどね」
「ははぁ……」
茜ちゃん、けっこう策士だな……。一通のメールで相手の考えを伺ったり、我儘を聞いてもらえるような文にしたり、なんかすごい。
「お姉ちゃん、もういい? わたし、お風呂に行くよ?」
「あっ、うん、ありがとう。菊池さんの返事待ってみる」
「わかった。上手く行くといいね」
茜ちゃんはそう言って悪戯っぽく笑うと、エプロンを椅子に掛けなおしてリビングを出て行った。
早めに会える、か。菊池さんを男避けに利用するみたいで気は引けるけど、菊池さんは承諾してくれるかな? でも、そうなるといいなあ……。
携帯電話を握ってぼーっとしていると、突然手の中で震えはじめた。
「わわ、返事きたっ?」
びっくりして落としそうになった携帯電話を何とか持ち直して、メールを開く。送信元が菊池さんなのを確かめると、いても立ってもいられずに本文に目を通して、
「……やった」
自然にそんな言葉が零れた後、俺は思わずガッツポーズを取った。
2015/10/08 小タイトル変更しました