「お姉ちゃん」になるから
俺の身体にしがみついて泣く茜ちゃんを、俺はどうすることもできずにいた。
俺は俺として生きている。けれどこの手では、茜ちゃんの身体をいくら優しく撫でても、震えを取り除くことはできない。
茜ちゃんが求めているのは「お兄ちゃん」である俺だ。
事故に遭う前の、生きていた時の俺だ。
それじゃあ俺のできることは、何もないじゃないか。
茜ちゃんがいくら望んでも、俺はもう「お兄ちゃん」には戻れないのだから。
「あの時、わたしがもっと注意していたら」
茜ちゃんは胸中の言葉を並べる。
あの時、道路に飛び出さなければ。
あの時、走ってくるトラックに気づいていれば。
あの時、お兄ちゃんから離れなければ。
そのうちどれか一つでもできていれば、「お兄ちゃん」は死なずに済んだかもしれないのに。
「わたしの不注意が、『お兄ちゃん』を殺しちゃったんだよ」
ゴンドラが頂上にさしかかる。窓から差し込むのは鮮やかなオレンジの光で、この空間を幻想的に彩っている。
事故に遭ったのも、確かこんな時間帯だ。
荷物持ちとして茜ちゃんの買い物に付き合って、その帰る途中。あの時の俺にだって、何かできたはずだ。茜ちゃんが後悔していることは、俺にも当てはまることだった。
あの時、茜ちゃんの手を引いていれば。
あの時、違う道を歩いていれば。
あの時、もっと早く動けていれば。
俺が死ぬことも、茜ちゃんが悲しむこともなかったのだ。
俺はどうしたらいいんだ。
天井を眺めるのをやめて、目を瞑る。夕日の景色をシャットアウトして、腕の中で泣く大事な女の子のためにできることを、必死で考える。
そんな状況で俺はふと頭をよぎったのは、懐かしいなという感覚だった。
昔は、茜ちゃんはずっと泣き虫で引っ込み思案で人見知りで、何か困ったことがあるとすぐに俺を頼る子だった。幼稚園とか小学校低学年くらいの話だ。俺たちはずっと二人で、お隣さん同士だった。
いつからか、茜ちゃんは一人で何でもできるようになる。泣くことも怒ることも弱音を吐くことさえも、滅多になくなってしまう。茜ちゃんが成長することで、つらいことや悲しいことがあっても笑顔でいられるようになったのだと、俺は勝手に結論付けていた。
そうなる前に、最後に茜ちゃんが泣いて俺に縋ったのは、いつだっただろう。俺はどうやってそれを宥めたんだろう。
茜ちゃんの「お兄ちゃん」である俺はどうやって――。
「どうしたらいいのかわからないの。胸にぽっかり空いた穴はずっと痛くて、それを埋める方法も見つからない。これが報いなのかな? わたしが『お兄ちゃん』を殺しちゃったことを忘れないために、これからずっと痛くて苦しいのかな?」
「俺は茜ちゃんに苦しんで欲しくないよ。報いだとか罰だとかそんなの望んでない。だからっ――」
茜ちゃんを痛めつけているのは茜ちゃん自身だ。俺がどんな言葉をかけても、茜ちゃんが自分を絡めとる茨を取り払わない限り、ずっとその棘に傷つけられる。それを外から取り払おうとするなら「お兄ちゃん」の手が必要なのだ。
「もう『お兄ちゃん』じゃない俺には、何もできないかもしれないけど――」
その手を茜ちゃん自身が消してしまったと思っているなら、俺がその茨を取り除くことは不可能だ。結果、茜ちゃんは今まで、そしてこれからも傷ついていく。「お兄ちゃん」じゃなくなっても、俺はそれを見ているだけなんてできない。
「なんだってするよ。茜ちゃんにとって俺が『お兄ちゃん』じゃなくても、俺にとってはたった一人の、大事な妹のためなんだから」
力が抜けた右腕を叱咤して茜ちゃんの肩に触れる。身体の震えを止めたくて優しく撫でる。
たとえ「お兄ちゃん」の手で触れられなくても、茜ちゃんに触れる方法はあるはずだ。その結果として俺も茨に傷つけられることになっても、茜ちゃんの痛みを和らげることができるのなら、安いものだ。二人で痛みを分かち合えばいい。
茨を取り除けないのなら、一緒に傷ついてしまおう。
「今度はずっと一緒にいる。『お姉ちゃん』として傍にいるよ。『お兄ちゃん』の代わりにはなれないかもしれないけど、もう目の前でいなくなったりしないから。茜ちゃんが傷ついたら、俺も一緒に傷つくから」
「おねえ、ちゃん……?」
茜ちゃんの呟いた声に「そうだよ」と語りかけた。
「これからは『お姉ちゃん』だ。『お兄ちゃん』と同じくらい茜ちゃんのことを大切にする『お姉ちゃん』だよ。だから茜ちゃんは独りで苦しまないで? いつでも傍にいるし、妹のためなら何でもするから」
撫でてるだけじゃ足りない気がして、茜ちゃんの身体を抱きしめた。少しでも近くにいれば、茜ちゃんの痛みや苦しみが、そして震えが和らぐかもしれないと思ったから。
数分の間、無言が続いた。ゴンドラはいつしか頂上を超えて、緩やかな下降に切り替わっている。差し込んでいた夕日が消えて、あたりは徐々に暗闇になりつつあった。
揺れも小さくなったおかげなのか、茜ちゃんの震えも治まってきていた。俺の服にしがみつく手は相変わらずだったけれど、幾分か力も抜けているみたいだ。
「……お姉ちゃん」
茜ちゃんが顔をあげないまま、ぽつりと口にした。
「なに?」
「『お姉ちゃん』は、それでいいの?」
不安げに尋ねてくる声に、俺は笑って答えた。
「いいも何も、大事な妹のためだって言ったでしょ? 茜ちゃんが笑ってくれるなら、なんだってするよ」
安直な気はするけどね。「お兄ちゃん」じゃないから「お姉ちゃん」になる、だなんて。
けれど、茜ちゃんとそっくりの女の子になった時から、考えてはいたことだ。いくら「お兄ちゃん」のつもりでも、周りから見れば姉妹以外の何者でもない。身体にも血の繋がりがあるのなら、いっそのこと「お姉ちゃん」もアリだろうって。
それはこれまでの「小坂楓」の一部を切り捨てるようで、少し怖かったのも事実だ。性別が変わっただけでも大問題なのに、それ以上のアイデンティティを失うのは避けたかったのだ。
でも、その結果として茜ちゃんが傷ついた。俺が中途半端に「お兄ちゃん」を持っていたせいで、戸惑わせて苦しめた。そうとわかったら、俺は「お兄ちゃん」に拘らない。
「『俺』って言うのもやめようかな。そのほうが女の子っぽいし、お姉ちゃんらしいよね」
「そこまで無理しなくても」
「もちろん、すぐにはできないよ。仕草とかも当分治らないと思う。でも、無理じゃない。これからちゃんと『お姉ちゃん』になるためにも、そのほうがいいでしょ?」
「……そう、だね」
それまでじっとしていた茜ちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした目や赤くなった鼻もそのままに、どこかすっきりした顔で俺を見つめる。
「わたし、最期まで『お兄ちゃん』には甘えてばかりだったんだね」
薄暗い中で透明な涙が頬を伝う。目を凝らさなければわからなかった。
「……妹に甘えられて、嬉しくない兄はいないよ。『お兄ちゃん』にとってはむしろ本望だった」
「そっか。嫌われてなくて、よかった」
「ついでに『お姉ちゃん』も、甘えてくる妹は大歓迎だからね?」
「ふふっ」
涙を流しながら笑って、茜ちゃんはもう一度俺の胸に顔を埋めた。もう肩は震えていない。眠ったかと思うほど静かになってから、
「ありがとう、『お兄ちゃん』」
――――さよなら。
ぽつりと聞こえたそれと、声もなく唱えられた言葉に、俺は「終わり」の意を汲んだ。それは間違いなく茜ちゃんと「お兄ちゃん」の別れだ。それは俺にとっても、もう一人の自分との別れでもある。
でもきっと、これでいい。
茜ちゃんも俺も、ようやく前へ進んでいける気がする。
「もう少し、このままでいい?」
「うん、いいよ」
観覧車が下に着くまで、あと一分くらい。十分もない一周のうちに、一つの大きな区切りがついた気がする。ここを降りたらまた、茜ちゃんの隣に立って、歩いて行こう。
二人の道がどこまでも重なっていることを信じて。