お兄ちゃん
それから乗り物以外のアトラクションを一通り回った。ほとんどはウォークスルー型のアトラクションに入ったり、時間が合えばキャラクターショーを見たり、園内の屋台でおやつを買ったりした。
その後で一度、遊園地のエリアから離れて小動物と触れ合えるエリアに行くことにした。
乗り物に乗れない茜ちゃんはよくここへ来て、いろいろな小動物と触れ合って遊んでいた。今まで触れ合えるのは犬とカメだけだったが、少し前にウサギと触れ合えるエリアができたらしく、噛まれるのに気を付ければ餌をあげたり、抱っこもすることができる。ここでは今日一番のはしゃぎっぷりを見せてくれた。
「この子、どうしたんだろう? お辞儀してるみたい」
茜ちゃんの前にいる一匹の茶色いウサギが、前足を揃えて出している。おしりのほうに重心があるようで、お辞儀というよりは土下座しているような格好だ。茜ちゃんがさらに近づいて、頭を撫でようと手を翳すと、ぐっと頭を下げて目を閉じた。
「待って、茜ちゃん。怖がらせちゃいけないよ」
「この子、わたしのことが怖いの?」
「たぶん。その格好は確か怯えたときとか、負けを認めた時とかにとるポーズだったと思うよ」
ウサギのエリアの入口の看板には少しだけ、ウサギに触れ合うときのための知識が書いてあった。丁寧にイラスト付きだったので、間違いないはず。
「……わたし、この子に何かしたかな?」
「その子が臆病なだけだよ、きっと」
フォローはしたものの、怖がられていると知った茜ちゃんはちょっとショックだったようだ。撫でたいけれど、これ以上怖がらせたくない。そんな風に葛藤した結果、残念そうにしながらその子から離れた。
「ひゃっ?」
俺のところに戻ろうとしていた茜ちゃんが短く悲鳴を上げる。他のウサギを見ていた俺も驚いてそっちを見ると、茜ちゃんの足元に一匹の白いウサギがいた。怯えたポーズをしていたのとは別の子だ。
「大丈夫?」
「あ、うん。この子が急に飛びついて来たから、びっくりしただけ」
そのウサギはしきりに鼻を動かして、茜ちゃんの匂いを嗅いでいるように思えた。そのうち靴に顎を擦りつけ始める。看板から得た知識が正しいなら、この子は茜ちゃんに興味を示しているようだ。
「その子なら撫でても大丈夫じゃないかな」
「本当?」
「うん。でも頭を撫でるなら掌じゃなくて、手の甲で撫でてね」
「えっと、こんな感じかな?」
ウサギの目は飛び出ているので、初めて掌で頭を撫でると指が目に触れてしまうことがある。それが危ないので、なるべく手の甲で撫でるようにと看板にも書いてあった。もちろん頭でなければ、他は普通に撫でても大丈夫らしい。
茜ちゃんの手が触れるとウサギは大人しくなって、「撫でてもいいよ?」みたいな顔をする。目を軽く閉じて、されるがままだ。こやつ、慣れておるな。
「さ、触れた。お兄ちゃん、触れたよ~」
「よかったね」
あまりに嬉しそうに口元を綻ばしているので、俺も釣られて笑顔になる。このウサギのおかげなら、ちょっと感謝しないとな。あとで飼育員が売ってる餌でも買ってくるか。
茜ちゃんがウサギに餌をあげてテンションが最高潮になる頃には、待ち合わせの時間が三十分後に迫っていた。
日も沈みかけていて、空の色が青とオレンジのグラデーションに彩られている。オレンジの比率が上がるのにつれて、プールから出てくる人も増えてきていた。
「もうわたしたちだけなのかな」
「みたいだね」
元々遊園地のほうには人が少なかったので、今は一人も見当たらない。プールは六時まで、遊園地も六時半で閉園だから、ほとんどの人が帰ってしまう時間帯だった。
今俺たちがいる場所は遊園地の中でも端のほうで、帰り道ですらない。アトラクション目当てでなければなおのこと、ここに人が来るわけがなかった。
「乗ろう、お兄ちゃん」
茜ちゃんがそう言って、最後のアトラクションへ俺を連れていく。
遊園地のほとんどの乗り物が無理な茜ちゃんだけど、中には例外もあった。
それが目の前にある観覧車だ。
空高くそびえる車輪は夕日を斜めに浴びて輝いていたけど、どこか物寂しさも感じさせる。
閉園間近だからだろうか。
あるいは夕日が一日の終わりを演出しているからなのか。
それらが俺の中にある何かを「終わり」に導こうとしている気がする。
その何かを予感しながら、俺たちは暇そうな係員に従ってゴンドラへのステップを踏んだ。
中は四人乗りで、二人ずつ向かい合えるようになっていた。
ガラスから射し込む夕日を背に茜ちゃんが座り、俺はその反対の席に座る。
係員が扉を閉めてから、少し沈黙が続いた。
「今日はありがとう、お兄ちゃん」
俺に横顔を向ける形で景色を見ていた茜ちゃんが、ぽつりと静寂を終わらせた。
「楽しかった?」
「うん、とっても」
「そう、よかった」
俺は溜息をついた。ひとまずはヘアピンを失くした失態の穴埋めをできた。おまけに茜ちゃんの機嫌がこれ以上ないくらい良好――のはずだ。
「お兄ちゃんは楽しかった?」
「すごく楽しかったよ。今度はみんなで来ような」
「……うん、そうだね」
茜ちゃんは目を細めて呟いた。笑顔かと思いきや、そうでもない。夕日が眩しそうなわけでもなさそうだ。答える前の間を合わせて考えれば、茜ちゃんの本心の答えでないことはわかった。
けれど、俺には茜ちゃんが何を望んでいるのか、今もってさっぱりわからない。
「もう少しで頂上だね」
ゆっくりと下がっていく景色を眺めるのをやめた茜ちゃんは、まっすぐに俺を見る。
「隣に行ってもいい?」
「いいけど、動くと揺れるんじゃ?」
「いいの」
茜ちゃんが立ち上がった拍子に、ゴンドラが揺れる。バランスを崩すほどじゃないけど、茜ちゃんが何よりも嫌いとする動きだ。おまけに高所。
俺の左隣に座りなおした茜ちゃんは、微かに震える手を握り締めることで誤魔化していた。
乗り物が苦手な茜ちゃんが観覧車だけ大丈夫なんて、元から嘘だってわかってる。
「大丈夫?」
「こうしていれば、平気だよ」
言って、俺の左手を強く握り締める。少し汗が滲んだ手は、俺と変わらない大きさだった。以前なら茜ちゃんの手を包み込むことができるくらいだったのに。
「まだ震えてるよ」
「……じゃあ、こうする」
「わっ?」
今度は俺の肩に額を押し付けてきた。ぐっと体重がかかって、今の俺じゃ支えられない。倒れそうになったのを右手をついて支えた。その動きで、ゴンドラの揺れが大きくなった。
「茜ちゃん、ちょっと?」
「……」
「ねえ、あの、これ……きついんだけど」
俺と茜ちゃん、両方の体重を支える右手がプルプルと震える。それは一分と持たずに限界を超えて、茜ちゃんに押し倒される形で座席に横になった。ゴンドラはまた大きく揺れた。
「あ、茜ちゃん? まだ怒ってたの?」
「……」
俺の問いかけに首を横に振る。でも相変わらず額を俺の身体に押し付けたままで、表情が確かめられない。震えも止まらないままだ。
「ねえ、ほんとに大丈夫……?」
こわごわと右手で茜ちゃんの肩に触れる。ぴくりとしたこと以外、大きな反応がなかった。ゆっくりと撫でても震えは一向に治まらない。
大丈夫なわけがなかったのだ。高所で揺れる乗り物に、茜ちゃんが耐えられるわけがない。こうして俺にしがみついていなければいけないくらい、限界なのだ。
「どうして」
茜ちゃんに何の目的があったのかはわからない。けどこれはいわゆる自殺行為だ。俺は茜ちゃんが茜ちゃん自身の望みのために、自ら行動して欲しい、選択して欲しいと願ったけれど――――無理をして欲しかったわけじゃない。
「どうして、茜ちゃんは」
いや、俺のほうも茜ちゃんばかり責められる立場にはいない。茜ちゃんがこうなるまで気付けなかったのだ。翔太、透、茉希ちゃんはおろか、北見おじさんよりも、誰よりも長く彼女の隣にいたのに。
だけど。
「自分のこと、何も言ってくれないの?」
今まで茜ちゃんはずっと、自分の気持ちを言ってくれたことはなかった。
女にならなければわからなかったと思う。茜ちゃんは普段から、俺のことをずっと気にかけてくれていた。何か困ったときは真っ先に心配してくれたし、手助けを惜しまなかった。それこそ、自分を犠牲にしかねないほどに。
俺はそのことに気づくべきだったのだ。
「俺なんかじゃ、茜ちゃんを助けられないの?」
「……わたしは」
顔を上げないまま、茜ちゃんが言う。
「もう、お兄ちゃんに助けてもらえない」
頭が一瞬で漂白された。喪失なのか、悲壮なのか、そんなことを考える余裕もない。言うべきかもしれないと用意していた言葉がすべて頭から飛んで、しばらく息をするのも忘れた。
「お兄ちゃんは確かにここにいるよ。でもわたしは、お兄ちゃんに触れることができないの。触ろうとしても届かないの。いくら手を繋いでも、こんなふうに抱き付いても、絶対にお兄ちゃんに届かない」
茜ちゃんの肩が怯えとは違う理由で震えだす。鼻声と嗚咽を交えて、言葉を絞り出していた。
「俺から手を伸ばしてもダメなのか?」
「同じだよ。その手はわたしに触れられない。その手じゃ、触れられない」
「……どうして」
無力さから、茜ちゃんの肩を撫でていた右手の力が抜けていく。座席からだらりと落ちて、ぴくりとも動かすことができない。
「わたしね、前は観覧車、本当に平気だったんだよ? あの時はお兄ちゃんがいたから」
そう口にした茜ちゃんは少し嬉しそうで、恥ずかしそうで、悲しそうだった。
「お兄ちゃんがずっと隣にいて、怖がるわたしを撫でてくれたから。揺れるのも怖くなかったし、高いところからの景色を綺麗だって思えた。お兄ちゃんのあの手があったから」
今だって傍にいるじゃないか。かつてないほど近くにいて、こうして触れてさえいるはずなのに。
でも、その手の大きさも柔らかさも体温も、全部が全部違ったなら。
それは「お兄ちゃん」の手じゃない。
俺にとっては間違いなく自分の手でも、茜ちゃんにとってはそうじゃない。
茜ちゃんはそのギャップに困惑して、ずっと苦しんでいたんだ――。