髪留め
なんとか茜ちゃんと茉希ちゃんに追い付き、三人で更衣室に戻ってきた。午後二時くらいのここには、外の混雑ぶりからは想像できないくらい人がまばらだった。今から泳ぐにも帰るにも中途半端な時間だからだろう。
俺たちはまず温水のシャワーを浴びて身体を流した。茜ちゃんはさらに俺のお団子ヘアーを解いて、手櫛で念入りに梳いてくれた。長いと傷みやすいから、よくすすがないといけないらしい。外と違って個室のシャワールームは二人で入るには狭かったので、大人しくするしかなかった。
こういう面倒なのがあるから、茉希ちゃんみたいな短い髪が羨ましくなる。長いほうがいいと言う茜ちゃんの前では言わないけれど。
髪をすすぎ終えてタオルで軽く身体を拭き、ようやく着替えだ。茉希ちゃんは俺たちがシャワーから出てくるころには着替え終わっていて、もう荷物を纏めて外へ出るところだった。本人のさり気ない気遣いには頭が下がる。
「ごめんな、茉希ちゃん」
「いいのよ。それじゃ、外で待ってるわね」
出ていく茉希ちゃんを見送って、再びタオルで身体を拭く。今度は髪の毛を含めて全身を念入りに、だ。拭いている最中に前髪が瞼を擽るので、やっぱり前髪だけでも切るべきだろうか。ずっとヘアピンで留めておくわけにもいかないし……。
「……あれ?」
俺はふと思い至って、髪を拭いていたタオルを下ろした。ふるふるっと頭を振ると、乾ききっていない重たい髪が乱れて顔に纏わりつく。それから手で前髪の当たりを確かめて、頭に浮かんだことを口にした。
「ヘアピン、どうしたっけ……?」
家から付けてきた椛の髪留めが、いつの間にかなくなっていた。
「ねえ茜ちゃん」
「ひゃっ、なに?」
「あ、わ、ごめん!」
せっかく背を向けていたのに、振り返ったことで着替え中の茜ちゃんを見てしまう。今更かと思われるかもしれないが、これは暗黙のルールだ、主に俺の中での。茜ちゃんもそれを知っていたから、俺を信頼して近くで着替えていたのに、これでは意味がない。
「だ、大丈夫だよ。それより、どうかしたの?」
背後で布擦れの音を立てながら、茜ちゃんが聞いた。
「うん、プールに入る時、俺ってヘアピンしてたっけ?」
「してたよ。お団子にする時も付けてたから、よく覚えてる」
「外したり、ロッカーに預けてたりしてなかった?」
「してなかったはずだよ。流れるプールに入った時もしてた……けど、さっき髪をすすいだ時は、なかったね」
念のため、俺はロッカーを開けて中を調べたが、ヘアピンは見つからなかった。
「どうしよう、見つからない……」
「もしかしてプールで落としちゃった?」
「そうかもしれない」
俺が答えると、あからさまに茜ちゃんが顔を曇らせた。
失くしたヘアピンがプールの中にある可能性は高いけど、他にも落としたかもしれない場所はいくつかある。一度、ここに来るまでの道を全部辿って探したほうがよさそうだ。範囲は広いし、人が多いせいで見つかるかどうかはわからない。プールの中に至っては絶望的だ。けれど、あのヘアピンは茜ちゃんがくれた大事なもの。簡単に諦めるわけにはいかない。
「俺、ちょっと探して――」
「もういい」
俺の言葉を遮って、茜ちゃんは短く告げた。何が「もういい」なのか、聞こうとした矢先に茜ちゃんが言葉を続ける。
「もういいよ。こんなに混んでるんだもの、探したって見つからない。時間の無駄だよ」
「そうかもしれないけど、せっかく茜ちゃんがくれたのに」
「ただのヘアピンなんだし、また買えばいい」
「そういう問題じゃないだろ」
確かにあのヘアピンは何か特別な価値があるわけじゃない。たまたま茜ちゃんが雑貨店で見つけてくれたもの。けれど、俺にとってはそれが十分価値のあるものなのだ。そう思ってるからこそ、探しに行かなくちゃ。
「ごめん、やっぱり探してくる。茜ちゃんは先に出て、みんなに言っておいて」
「あっ? ちょっと、お兄ちゃん!?」
呼び止める声を無視して、俺は更衣室から飛び出した。
まずは流れるプールにあたってみる。相変わらず親子連れで混んでおり、その水底にヘアピンが沈んでいるとなれば見つけるのはおろか、潜ることもかなり難しいことになる。でも、面倒くさがってはいられない。
俺は適当な人の隙間からプールに入り、辺りを見回した。当然、水面に浮かないヘアピンは、そんなことでは見つからない。そればかりか低い身長のせいで、一度プールに入ってしまってからでは潜りやすそうな場所を探すのも難しかった。
場所が悪かったといったん諦め、再びプールサイドに上がる。お団子を解いた髪は長い分余計に水を吸って、背中にぺったりくっついて気持ち悪い。うなじから軽く絞って水を落とし、溜息をつきながらプールを見渡した。
流れるプールでは絶えず人が動くので、潜りやすそうな場所を探してもすぐに隙間がなくなってしまう。仮に場所を見つけたとしても、髪が解けているので安易に潜るのも危なかった。さて、どうしたものか……。
「ねえキミ、ひとりなの?」
「暇だったらオレらと遊ばない?」
まったく知らない声でテンプレみたいなナンパ言葉が後ろからかかる。自分に向かって言われたような気はしたが、構ってられないので無視しようとした。
「きょろきょろしてどうしたのかなー?」
「……っ!」
目の前に回り込まれた。思わず後ろに下がろうとすると、背後にいた誰かの足を踏みつつぶつかってしまう。
「あっ、ごめんなさ……」
「うわー、いってぇ。足踏むとか何なのマジで」
痛がるようには見えなかったけど、怒ったような口調で言われると何も言い返せなくなる。すると足を踏まれたほうが一瞬笑みを漏らしたあと、あからさまに舌打ちを放った。
「ごめんって言うだけなら誰でもできるよなー。悪いと思うならちゃんと行動で示してくんなきゃさあ」
「えっと……」
そんなこと言われても、どうすればいいかわからない。俺は早くこんな奴らから離れたいし、ヘアピンも探さなくちゃいけないのに。
「どうしたらいいですか……」
「へへ、ちょっとだけオレらと遊んでくんないかな? それでさっきのことはナシってことで」
「向こうでダチも待ってるから、一緒に行こうぜー」
「いやあの、急いでいるので」
「ああ? 怪我させたの許してやるって言ってんのに、断るってーの?」
「都合よすぎじゃねえ? いただけねーわ」
俺を挟んでいた二人が言いながら、じりじりと距離を詰めていく。横にずれて逃げようにも人混みに遮られている上に、いつ手を掴まれてもおかしくないこの距離では危険な賭けだった。
八方塞がりで動けずにいると、壁だったはずの人混みからにゅっと手が伸びてきて、俺の手を掴んだ。
「ひえっ!?」
驚いて変な声が出ると同時に引っ張られ、抵抗する暇もなく二人の男の間から引き抜かれる。
「大丈夫か?」
「えっ……あ、透?」
透は俺の手を引っ張って、男たちから逃がしてくれたらしい。けど、どうして透がここに?
「茜から聞いたんだよ。落としたヘアピンを探しにプールに戻ったって。一人だといろいろ危ねーから、ついて行ってくれって頼まれたんだ」
「茜ちゃんが、透に?」
「俺だけじゃねーよ。翔太も来てるし、着替えに手間取ってるけど茜と茉希もあとで来る」
喋りながら、プールに沿ってその場を離れる。俺をナンパしてきた男どもはすでに人混みに阻まれて見えなくなっていた。それでも透はゴムの切れてずり落ちそうな水着を片手で掴み上げたまま、俺の手を引いてずんずん前へ進んでいく。
「どこ向かってるんだ?」
「みんな流れるプールの近くで落ち合うことになってんだ。ぐるぐる回ってりゃそのうち会えるだろ」
そのまま透に手を引かれて歩くこと数分、言葉通りに翔太と合流できた。さらに数分後には茉希ちゃんと茜ちゃんも加わり、再びプールサイドで五人が揃った。
「まったく、一人だと危ないって何度言えばわかるのよ」
「……ごめん」
飛び出す前にみんなに相談しなかったのは俺が悪い。それに他の男の目もある。迷惑ばかりかけてしまう自分がほとほと嫌になってきた。
「それで、失くしたのは楓がつけてたヘアピンよね? あの葉っぱの形の」
説教からヘアピンの話になったので、俺はほっとしつつ頷いた。落とした可能性のある場所をいくつか教えて、みんなでどうするか考える。
普通なら分かれて人海戦術で探したほうが効率がいい。そこまではみんな同意したのだけれど、どうやって分けるかで悩んだ。そもそもヘアピンが見つかる保証がなく、茜ちゃんに至っては完全に諦めている。みんなの足並みはなかなか揃わなかった。
「こうなったらジャンケンよ。みんな、グーとパーのどっちかを出して。それで二人と三人に分かれたら、その人数でチームを組むこと。いい?」
いわゆるグッパーである。その案にみんなが頷き、茉希ちゃんの掛け声とともに全員が右手を出すと、一回で見事に二手に分かれた。構成は翔太と茜ちゃんのペアと、俺と透と茉希ちゃんの三人のチームだ。
「翔太、茜を頼んだわよ」
「腕っぷしは二人ほどじゃないけど、俺も男だからね。任せてよ」
「悪い虫が寄ってきたら、立ち向かうんじゃなくて逃げるのよ?」
「わかってる」
一時間後にプールの案内所の前で集合することに決めて、俺たちは二方向に分かれた。
翔太たちはプールサイドを探すことになったので、俺たちは自然と流れるプールの中を探すことになった。水に入って、水面から目を凝らして底を探す。見づらいけど、プールの底は一面青なので、ヘアピンがあれば気づくこともできるはずだ。
「ねぇ、楓。あんた大丈夫?」
黙々と探しているところに、隣にいた茉希ちゃんから声がかかった。聡い彼女のことだから、また何かに勘付いたんだろう。
「大丈夫って何が」
「さっきからすごい焦ってる感じ。そんなに大事なものなの?」
「茜ちゃんが見つけてくれたものなんだ。言ってみれば茜ちゃんからのプレゼントみたいなものだよ。それを失くすなんて、ほんと自分に呆れてるところだ」
「なるほどね。茜の様子にも少し納得できたわ。でも、まだ何かありそうだけど」
「何かって?」
「たぶん茜にとってもそのヘアピンは、特別に思っているものがあるんじゃないかしら」
「どういうこと?」
茜ちゃんはすでにヘアピンが見つからないと諦めている。探しに行く俺を止めるくらいなのだ。本当に思い入れがあるなら、茜ちゃんももっと真剣に探すだろうに。
ああ、そうか。
茉希ちゃんからは焦っているように見えるけれど、俺はそうじゃない。意地でも見つけてやるという気持ちはあるけれど、これは見つからないことへの焦りじゃなくて、茜ちゃんに対する怒りの表れなんだ。
俺がヘアピンに思い入れがあったように、茜ちゃんもそうだと思っていた。でも茜ちゃんがヘアピンを探すのを諦めたとき、それが俺だけだったのだと思い込んだんだ。もし茉希ちゃんの言う通り、茜ちゃんにも俺と同じような思い入れがあったなら、どうしてヘアピンを早々に諦めたんだろう?
「それは直接、茜に聞くしかないわよ」
茜ちゃんにもヘアピンへの思い入れがあるなら、何か理由があるはずだ。何にしたってヘアピンが見つかるに越したことはない。それを見つけて茜ちゃんに謝ろう。そうすれば、茜ちゃんも考えていることを教えてくれる気がした。
2015/12/03 誤字・会話文修正