プールへ
小鳥が囀る清々しい朝が来た。今俺は自分の部屋で、一つ一つ荷物を確かめながら、忘れ物がないか最終チェックをする。
「タオル三つ、ブラシ、ナイロンポーチ、トリートメント、着替え……こんなもんかな」
水に濡れても大丈夫なハンドバッグに、結構な数のアイテムを詰め込む。それぞれは小さくてかさばらないので、数の割にあまり膨らむことはない。でも男だったら海パンとタオルと貴重品くらいしか持って行かないだろうから、明らかに多いのは確かだろう。
細々した荷物と貴重品をまとめ、ふと壁掛け時計を見上げる。昨夜は久々にぐっすり眠れたおかげで、今日は目覚めもよく余裕の時間だ。茜ちゃんと一緒だったからだろう、寝つきがよかったのだ。
俺が誰かと一緒に寝れば眠れるという仮説は、これでほぼ確証に至ったことになる。どうしてこんな体質になったのか、病院ではなぜ眠れていたのかはわからないままだ。それでも解決策ができただけマシだろう。あまり他言できるようなことではないけど。
「お兄ちゃん、準備できた?」
「あー、うん、荷物はできてるよ」
家を出る時間まで、まだしばらくある。俺は立ち上がって鏡の前で身嗜みを整えた。今日のコーディネートは七分袖のチュニックとホットパンツ。最近知ったけど、女の子は短パンのほとんどをショートパンツ、あるいはホットパンツって言うらしい。ホットパンツとショートパンツがどう違うのかと言えば、厳密には丈が違うんだそうだ。最も短い丈のズボンをホットパンツ、短パンと同じ丈のズボンをショートパンツと言うらしい。すべて、茜ちゃんと茉希ちゃんから教えてもらったことだ。
スカートより恥ずかしくないかと言えば、そうでもない。脚はかなり露出しているし、お尻が完全に覆われている以外はやっぱり下着と変わらない。でもこの格好に慣れておけば、水着にもなりやすいだろうと茜ちゃんに言われて、それでこの服装にしたのだ。水着と違って下着の上のちゃんとした服だから、確かに抵抗は心持ち少ない。そう言い聞かせて、俺は鏡の前で身嗜みの最終チェックだ。
「服よし、顔よし、寝癖なし……」
と、髪を弄っている時に何か足りないと思った。すぐにそれを思い出して、机の上に置いてあった椛のヘアピンで前髪を留めた。
「ん、髪よし」
どこからどう見ても私服の女子高生の完成だ。何せ今日は人混みに入ることが確定している。変な格好をしないに越したことはない。自分で言うのも何だが、ちょっと可愛くし過ぎたかもしれないけど。
俺は鏡の前で満足して頷き、荷物を持ってリビングへ下りる。朝食の片づけを終えた茜ちゃんはソファに座って寛いでいた。
「おまたせ、行こうか」
「うん」
茜ちゃんの荷物も俺と同じ大きさのハンドバッグが一つだけ。服装は上が七分袖のトレーナー、下は赤いチェックのミニスカートだ。
玄関に向かい、お揃いのサンダルを履いて外に出た。まだ五月の初めということもあり、裸足に近い足元は風に煽られるだけで少し寒い。でもプールで靴下を脱ぐ手間が省けることを考えれば、我慢してもいいだろう。
「歩きづらくない? お兄ちゃん」
「ん、大丈夫だよ。ヒール低いみたいだし」
女性もののサンダルは初体験だが、ヒールも低くて歩くのに気にならない。靴擦れとかも心配なさそうだった。
このサンダル、実は俺の母さんが知らない間にネットショッピングで買っていたものだった。お揃いなのは、俺のものばかり買っていては悪いので、茜ちゃんのも一緒に買っておいたかららしい。茜ちゃんは喜んでいたので、良しとした。
「それより、もう外でお兄ちゃん呼びはやめたほうがいいんじゃないか?」
「えへへ、ごめん。なるべく気をつけるね」
昨日の夜に本音を吐き出したおかげか、茜ちゃんの様子はずっと明るくなったように思えた。まだ茜ちゃんが何を望んでいるのかはわからないけど、茜ちゃんがやりたいことがあるなら、俺はもう少し付き合おうと思う。もし後悔するようなことがあれば、俺が支えてあげればいい。
集合場所である駅には、約束の時間の十分前に着いた。それでもゆっくり来すぎたようで、待ち合わせの三人はすでに集まっていた。
「二人とも遅いよー」
「茉希ちゃんたちが早いだけだろ。時間より前に来てんだから」
「みんな、おはよう」
「おはよう、茜」
「おはよう」
「うっす」
茉希ちゃん、翔太、透の順に挨拶が返ってくる。その直後、急に茉希ちゃんが抱き付いて来た。標的は茜ちゃんだ。
「ひゃっ、なに?」
「いやあー、今日も可愛いわねぇ、って思って」
「茉希ちゃんだってすごくオシャレだよ。大人のお姉さんみたいで羨ましいなぁ」
茜ちゃんと茉希ちゃんがお互いのコーディネートを褒め合う。
茉希ちゃんはブラウスの上からデニム生地のアウターに袖を通していて、長い脚を魅せるストレッチパンツを履いていた。今日はなかなかオシャレで、ブレスレットや帽子など細かいところに気合が感じられる。大人のお姉さんみたい、という比喩は的を射ていて、俺から見てもかなり格好いい。
「アタシ、可愛い系似合わないからねー」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「どの口が言うか。茜と比べられたら、そりゃ負けるわよ」
そうかもしれないけれど、茉希ちゃんだってかなり美人の部類に入る。女性としての魅力のベクトルは違うが、茉希ちゃんだってラブレターを貰うくらいモテてもおかしくなかった。
それに比べて男どもときたら……いや、無理は言うまい。俺だって茜ちゃんとよく一緒に出掛けたりもしたのに、服装に関してはまったく無関心だったからな。ましてそういうオシャレに気を遣わないでいい高校生男子なら、普通のジーンズとTシャツで来るのが当たり前だ。幸い二人ともルックスが悪いわけでもないし、変な格好じゃないだけマシだろう。
「もう電車来るぞ、二人とも早く切符買って来いよ」
「あ、うん」
透に言われて、そそくさと自動券売機に並ぶ。やっぱり連休のせいで人は多かった。でも、今日は唯一の平日だ。ゴールデンウィークの中で祝日に当てはまらない日だから、心持ちプールも混雑は軽くなるといいな。
切符を買って改札口を通過し、ホームへ出る。電車はすぐに来た。さすがに五人はまとまって座れないので、ドアの近くに固まって立つ。俺と茜ちゃんは近くの手すりに、三人は吊革に捕まったところで、電車のドアが閉まり発進した。
車内を見渡すと、若い人を中心にほとんどの人が俺たちと似たような格好をしている。つまるところ、軽装でハンドバッグかリュックサック一つの人が多い。プールに向かう人も少なくなさそうだ。
「どれくらい並ぶかなあ」
「今の時間ならそんなに待たないでしょ。心配なのはロッカーくらいかな。混むだろうから」
そうだなぁ、と同意した直後、俺は見落としていた大変なことに気づいた。
「着替えって、個室じゃないよな……?」
「え? 何言ってんの、当たり前でしょ」
茉希ちゃんの答えで、俺は絶望に顔を青くした。
下りる駅に着くまで、乗客は大きく二つに分かれた。ペイスに行く人たちと、俺たちのようにプリズムリゾートに行く人たちだ。大型連休の一日ということもあるだろうけど、これだけ人が集まるなら、新しくできたレジャー施設への世間の期待が窺える。まだ開園前の遊園地のゲートに、俺たちを含む大勢の若者が列を作っていた。
プールへ行くには、面倒だが段階を踏まなくてはならない。今回新しくできたプール施設、ミラージュウォーターパークは、あくまでプリズムリゾートの一施設なのだ。つまり、まずはプリズムリゾートの入場券を購入しなければならなかった。それからミラージュウォーターパークの利用チケットを買い、やっとロッカー兼更衣室に入れる。客がプールに入るだけでもお金が入る寸法になっていた。
学生割が利いたおかげで三千円以内に収まったが、このサービス期間以外には来るのを躊躇う金額だ。交通費と合わせると、遊びの出費としてはなかなか豪華に思う。
「くそ、思ったより高くついたじゃねーか……」
「そうね。まあ、楽しんで後悔しなければ御の字じゃないかしら」
ぶつくさ言う透に声をかけて、茉希ちゃんは女子更衣室に向かう。男二人も分かれて男子更衣室へ行ってしまった。
「ねえ、茜ちゃん」
「なに?」
「……入らないとまずいよね」
「着替えられないよね」
ごもっともな話だ。もちろん俺もこんなところで裸になろうという話をしたいわけじゃない。問題は俺が、女子更衣室に入らなければならないということだ。
これまでだって男が入るには気まずい場所をいくつか経験してきてはいるが、今回はレベルが違う。下着や水着は、あくまで物体だ。本物の女性の身体を目にするのと比べれば玩具のようなものだ。断っておくが、変な意味ではない。
冗談はさておき、女性の裸体がひしめくような空間に足を踏み入れる勇気は、まだ俺にはないのだ。
「気持ちはわかるけど、待ってても空かないと思うよ? 後ろからどんどん入って来てるし」
「そうだよな……茉希ちゃんも待たせるわけにはいかないし」
「そうだ。おに……お姉ちゃん、目を瞑って。わたしがロッカーの前まで連れて行ってあげる。そうすれば、変なところに目を向けなくて済むでしょ?」
「う、うん……」
言うや否や、茜ちゃんは俺の手を取って更衣室に歩き始めた。中が見えないように曲がった入口に足を入れた瞬間に、俺は目を閉じてすべてを茜ちゃんに委ねる。
「そこの足元、気をつけてね」
「うん……おわっ、と」
簀の子のようなものに躓くが、茜ちゃんのおかげで転ばずに済む。しばらくそのまま歩いて、「着いたよ」の声と共に目を開けた。
「お疲れさま、二人とも」
すぐ傍で茉希ちゃんの声が降ってきた。反射的に目を向けると、すでに着替え終わった茉希ちゃんが荷物を纏めているところだった。
「先に行くなんてひどいな」
「何言ってんの。あんたの正体を知ってる以上、あんたの前で着替えるのは勇気がいるのよ」
「う……ごめん」
「あー、謝るところが違う。別にアタシは見られたところで何とも思わないのよ。楓が過剰に反応するのが困るの。無理に戸惑わせたくないから、アタシは先に着替えた、それだけ」
「……」
つまるところ、これも茉希ちゃんなりの気遣いだ。俺は納得して、また勘違いしていたことを詫びた。
「いいのよ。ほら、早く着替えて来なさい」
茉希ちゃんはロッカーに鍵をかけて、先に外へ出て行った。
この場所はどうやら、更衣室の中でも隅のほうらしい。視界の二方向がロッカーになっているおかげで、無闇に他の人を見なくて済むのはありがたかった。茉希ちゃんと話している間に茜ちゃんも着替え終えたらしく、荷物を纏めている。
「周りは女子、自分も女子、ノープロブレム……ノープロブレム……」
個室じゃないことがまだ不安ではあるが、俺も腹を括って着替えに取り掛かった。