声をかけられて
俺たちがレストランを出る頃には三時になろうとしていた。明日のプールのことや学校のことでお喋りもして、たっぷり一時間もレストランで過ごしていたのだ。
「なーんか甘いもの食べたいわね」
「さっき昼飯食ったばかりだろ」
「いやいや楓くん、そこは別腹ってやつだよ」
確かにおやつ時だが、俺たちはたった今お腹を満たしたばかりだ。ところが茉希ちゃんの言う通り、別腹は存在するらしい。甘いものと聞いたとたん、俺の満腹感が少し和らいで、ちょっとしたものなら食べられる気がしてくるのだ。
「不思議なもんだなぁ」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
お腹をさすっていると茜ちゃんが不思議そうに聞いてきたので、俺は苦笑して誤魔化した。
「それで、美味しいパンケーキを出してくれる喫茶店があるんだけど、二人とも行く?」
「茉希ちゃんが行きたいなら、ついて行くけど」
「わたしも行きたい。あ、ちょっとその前に……」
不意に茜ちゃんが通路の上をきょろきょろと探し始めた。
「どうかしたか?」
「うん、先にお手洗いに行きたいなって……あ、あっちだね」
どうやらトイレへの案内板を探していたらしい。矢印はこの先のエレベーター付近にトイレがあることを差していた。ひとまずそこまで移動する。
「アタシも一緒に行くわ。楓はどうする?」
「あー、俺は出入り口近くで待ってるよ」
俺は近くに設置されたベンチに座って、二人を見送った。
そういえば女子ってなぜかトイレに入る時は複数人だよな。俺も女の身体だが、一緒に行く理由はよくわからない。学校では誰かが付き添ってくれるけど、集ってくる男子さえいなければ特に一人でも問題ないし。身体が理由じゃないなら、心理的なものなのかなあ。
どうでもいいことを考えていると、いつもの眠気が襲ってきた。気を抜くとすぐこれだ。今日は寝坊したとはいえ、睡眠不足を取り返す時間がなかった。おまけに食べたばかりで、満腹感から普段より瞼が重く感じられる。ベンチの座り心地はよくなかったが、あまりに手強い睡魔に頭を垂れそうになった。
「ねぇ、キミ」
「っ……!」
突然、かけられた声に身体がびくりと反応した。やばい、ちょっと寝てたかもしれない。もしかして誰かに見られたか? 反射的に顔を上げると、知らない男の人が立っていて、人のよさそうな笑顔で俺を見下ろしていた。
「キミ、なんだかヒマそうだね。一人なの?」
「え? ああ、えっとその」
間違いなくこの人には寝落ちしそうなところを見られていた。恥ずかしさと焦りでパニックになり、何を尋ねられているのかもすぐには頭に入ってこない。
そもそもこの人誰だよ。第一印象は「チャラそう」の一言だ。茶髪で片耳にピアスをしていて、腕にバングルを嵌め、十字架のチョーカーも首から下げている。服はパッと見ならオシャレなのに、アクセサリーや染髪のせいで遊び人感が溢れている。それと座っているから錯覚かと思ったけど、生前の俺より背が高い。
混乱してても観察する時はすごく冷静だ。女の人の脳ってすごい。
「今ちょっと待ってるところで……」
客観的になったことで少し混乱が収まり、男の人の質問に答えられた。
「ああ、なるほど。カレシ?」
「友達です」
「そうなんだ。じゃあさ、お願いがあるんだけど」
「……何ですか」
にこにこと作ったような笑みを浮かべて話してくる男に、俺は不信感を持ち始めていた。そもそも「じゃあ」ってなんだよ、取ってつけたような会話の繋ぎが胡散臭い。
「この辺りにパンケーキの美味しい喫茶店があるんだけどさ、オレちょっと迷っちゃって、良かったら一緒に来てくんないかな?」
初対面なのに、なんでこんなに馴れ馴れしいんだろう。見たところ年は同じくらいなのに……いや、逆だ。向こうは俺のほうが年下だと思ったのかもしれない。追い払いたかったけど、いい言葉も言い訳も見つからなかった。仕方なく、俺の中での妥協案を言ってみる。
「友達が戻って来てから行く予定だったんで、一緒になら案内できると思いますよ」
「いやいや、待ってたら席埋まっちゃうよ。すごい人気のお店らしいんだ。だからさ、今から行こうよ」
そう言って手を差し伸べてくる優男モドキ。その実、こっちの事情はお構いなしだ。友達待ってるって言ってんのに。
「大丈夫だよ、携帯で連絡すれば。それに今から行っておけば、早いうちから友達の分まで席が取れるよね。ほら、だから行こうよ」
「いや、あの、俺も道は知らないんです。そういうお店があるってさっき友達に聞いたばかりだから……」
一瞬だけ男の人が目を丸くした。あっ、と思って口を塞ぐが、出てしまった言葉は戻らない。その仕草を見て男の人は目を細めて屈み、低い声で尋ねた。
「へぇ、珍しいね、自分のことを俺って言うなんて」
睨んではいない。でもなぜか、威圧されていることはわかった。男の人の静かな凄みに耐えかねて、俺は声を絞り出すように聞いた。
「癖、です……気にしないでください」
「そう言われても気になるよ」
ぐっと迫るように顔を近づけられて、俺は咄嗟に顔を背ける。でもそれは間違いだった。耳に吐息がかかるような距離で、男がさらに低い声で囁いた。
「ねぇ、向こうでちょっと話そうよ。キミに興味が湧いてきた」
背筋がぞくりと震えた。不意に身体の力が抜けて、おまけに何も考えられなくなる。男から離れたくても逃げ道はなく、椅子の背凭れに追いつめられた。
不意に左腕が引っ張られる。いつの間にか男が手首を掴んでいて、初めは優しく、動かないとわかると力を込めてぐっと引っ張ってきた。
「っ、痛い!」
振りほどこうとするも、力の抜けた身体では敵わない。身体を丸めるように抵抗するが、逆に俺自身が男に引き寄せられた。連れて行かれる、頭では理解していても、身体が麻痺したように動けない。
「おいで。一緒にくるんだ」
手を引かれる先で、男が口元を三日月に歪めていた。手首を握る手はきつくて痛いままだ。さらに力を込められたらどうなるんだろう。言うことを聞かなければ骨を折る、そう脅されている気がして、抵抗を諦めかけたその時。
「楓ちゃん?」
あまり聞いたことのない呼び方だったけど、よく聞いたことのある声だ。そしてそれは、間違いなく俺を呼んだものだと理解して、はっと我に返る。
「……やっ!」
空いていた右手を使って力づくで男の手を振りほどき、勢いのまま両手で男の身体を突き放す。気のせいかもしれないが、男の手が緩んでいたのも幸いした。抜けていた力が戻ったことを確かめて、俺は椅子から立ち上がり、転びそうになりながらも無我夢中で逃げようとする。
「ひゃっ!?」
「うわっと!」
数歩足を踏み出した刹那、不注意で前方の誰かとぶつかってしまう。視線を男に向けていたせいだ。ぶつかってしまった誰かの大きい胸板と腕に、俺は包まれるように受け止められた。
「楓ちゃん、だよね? 大丈夫?」
「う、あ……?」
言葉にならない声を漏らしながら顔を上げると、見覚えのあるお兄さんが心配そうに俺を見つめていた。
「き、菊池さん」
「やっぱり楓ちゃんだ。急にどうしたの、あの人は知り合い?」
菊池さんが尋ねながら視線を俺の後ろにいる男に向ける。その時になってようやく俺は、自分の置かれていた状況を自覚した。
いったい男は今、どんな表情をしているのか。さっき感じた凄みを思い出して、突き飛ばしてしまったことが急に怖くなった。
「し、知らない人です。さっき急に声をかけられて、喫茶店行こうって言ってきて」
「……なるほど、そういうことか」
納得したような言葉を漏らして、菊池さんは不意に俺の身体を引き寄せた。さっきの男とは違い、引っ張る感じはない。あくまで優しく俺の身体を隣に移動させる。
くるりと方向転換した先に、さっきの男がいた。人のよさそうな笑みは見る影もなく、怒りの炎を瞳に映して菊池さんを睨みつけている。自分に向けられていないのに、思わず竦み上がった。
「大丈夫だよ」
菊池さんの手が優しく俺の肩を抱き寄せる。ぴったりと密着する形になって、自然と俺の手は菊池さんの身体にしがみつく格好になっていた。それに吸い寄せられるように男の眼球が動く。
「おいで。もう目を合わせちゃだめだ」
菊池さんが自分ごと俺の身体を方向転換させ、男に背を向けさせた。そのまま離れるように、人の往来に紛れ込む。遠くで男が舌打ちするのが聞こえた。
2015/11/25 微修正