花壇の真実
俺にあてられた仕事は、じょうろに水を汲んでくることだった。裏庭から校舎を中心に時計回りして、昇降口を横切ると校庭が見えてくる。野球部とサッカー部が両立して練習できる広さのグラウンドの傍に、屋外用の水道が設置されていた。
花の世話をしようとは考えていたけど、自主的にやるのと他人に言われてやるのとでは、モチベーションが全然違う。本郷さんは取引とばかりに仕事を与えてきたので、なおさら気が進まない。とは言え、知りたい情報を得たいなら対価を支払うべきなのはわかっているので、大人しくそれに従っている。
溜息をつきながらじょうろを蛇口の下に置き、水を注ごうとコックを捻った。
「……うおっ、うわわわわわ」
水がじょうろの横に当たり、弾かれた飛沫が俺の脚にかかる。慌ててじょうろを足で蹴り、水が中に入るように位置を調整した。
「はあ……」
履いていた黒いニーソックスが水を吸ってぐっしょり濡れる。ローファーの中にも少し入っていた。水を出す前にじょうろの位置を確認しなかった完全な凡ミスだ。何をやってるんだろう、俺は。
十分に水が溜まったじょうろを持って、自分の不甲斐なさにイライラを募らせながら、元来た道を戻る。少し水の量を減らせばよかったなと、零しそうになりながら後悔した。
せっせと運んで裏庭に戻ると、本郷さんは微動だにせずに緑のボトルを凝視していた。ラベルに書かれた商品名からも、それが液体肥料だということがわかる。花の世話に慣れていない初心者らしく、説明書きを一生懸命に読んでいるようだ。
「本郷さん、汲んできましたよ」
「ああ、ありがとう」
一瞬こっちに顔を向けたけど、再びラベルに目を戻す。
「何してるんですか?」
「見ればわかるでしょう、説明書を読んでるのよ。肥料は与えすぎも良くないって聞くから」
そもそも液体肥料は即効性があり、そのままだと養分も濃い。今のゼラニウムの状態を見てみると、確かに肥料は必要だけど、弱っているところに即効性のある濃い液体肥料を投与すると、逆に枯れてしまう危険もあった。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
「え? いいけど、わかるの?」
「まあ、少しなら」
じょうろを置いて、本郷さんから液体肥料を受け取る。俺はくるくると回してラベルの注意書きを軽く読んだ。
「このまま与えると花に悪いですね。千倍から二千倍に薄めましょう」
「え、でも説明には五百倍って書いてあるけど……」
「花の状態が良ければそれでいいかもしれません。でも、今は少し弱っている状態なんです。そこに濃すぎる液体肥料を与えてしまうと、ショックが強くて枯れてしまいます」
「そ、そうなの……?」
本郷さんは俺の言葉にうろたえる。視線は俺が手にしている液体肥料に注がれていた。
「この肥料、店員が勧めてくれたものだったんだけど、どんなにあげても元気にならなかったから……もしかしたら、薄め方が足りなかったのかも」
なるほど、さっきこれを凝視していたのは説明を熟読していたのもあったけど、効果そのものを疑ってもいたんだ。
「肥料をあげる頻度はどれくらいでしたか?」
「三日に一度くらいかしら。あげ過ぎは良くないと思って」
肥料は濃い割りに、回数は足りない。ゼラニウムが萎れていくわけだ。咲いていた日数からして花はそろそろ終わりなのだが、葉まで元気がないのはまずい。
俺はボトルの蓋を開けて、じょうろに数滴垂らした。二千倍希釈ならこんなものだろう。じょうろごと水を揺らして、全体に馴染ませる。
「花の元気がないときは、通常よりも薄めの液体肥料を一日一回、水やりを兼ねてあげるほうが効果があります。葉にはなるべくかけずに、根元に撒くほうがいいです」
「へぇ……」
感心する本郷さんを後ろに、俺は水やりを実演する。根元が湿ってきたら、周りの土壌にもまんべんなく撒いた。
「北見さんは花のことに詳しいのね。緑化委員になりたいって言ってたのも伊達じゃないわ」
「まあ、好きですから」
じょうろから最後の一滴を垂らして、水やりは完了だ。本郷さんの持ち物から察するに、これ以上の世話はないみたいだけど。
「他にすることは?」
「今日は肥料と水やりだけのつもりよ。あなたが言うには、同じことを毎日すればいいみたいだけど」
「はい」
「ゴールデンウィーク、毎日来なきゃいけないのかしら」
「花を枯らしたくなければ」
「うぅ……」
がっくりと肩を落とす本郷さん。まあ、連休が潰れれば誰だってショックだよな。いや、俺が来てもいいんだけど、予定が入ってるし。
「しょうがないわね。元々ここまで弱らせちゃったのは私なんだから」
諦めたように呟いて、本郷さんは頭を上げた。ちょっと可哀想だけど、下手に手伝い宣言するとまた利用されそうで怖い。
「じゃあそろそろ俺は行きますけど」
「待って。この花を植えた理由、聞くんじゃなかったの?」
「……そうでした」
立ち去ろうと上げた足を戻して、本郷さんに向き直る。俺を引き止めた癖に、話そうかどうかを迷っている表情だった。
「……花の種類には、深い意味はないわ。ただ、この時期に花壇に植えられそうな花が、ゼラニウムしかなかったのよ。それも素人知識でね。クラスにガーデニングが好きな人なんて、一人しかいなかったんだから」
「どういうことですか? 詳しい人がいるなら、その人に教えてもらえばいいじゃないですか」
「聞けないわよ。その人のために植える花だもの」
話を聞いていて俺は奇妙な違和感に襲われる。サプライズとかプレゼントの感覚で植えたにしては、本郷さんの表情が解せないのだ。睫毛が伏せられ、楽しそうな雰囲気は微塵もなかった。
「四週間前、ちょうど新学期が始まる前ね。私たちと同じクラスになるはずだったその人が、事故で帰らぬ人になったのよ。その人は花や植物が好きだった。大人しくて目立たない人だったけど、一年生の時に同じクラスだった人は当然知っていたの。だからその人のために、みんなで花壇に花を植えた」
俺は背筋が凍り付くのを覚えた。四週間前の事故、花や植物が好きな人。それだけで、誰を指しているのか察してしまったのだ。
「つまり、この花は……」
「その人、たまにこの花壇に来ていたらしいの。花を植えたかったのかもしれない。だから、供養ってわけじゃないけど、彼が喜ぶように花を植えた」
さあっ、と風が髪をさらう。ゼラニウムの花が茎ごと揺れて、物寂しく笑うような錯覚がした。最初に見た時に感じた虚しさ、寂しさの理由がわかった気がした。
「彼、あなたの妹さんの幼馴染なの。学年も校舎も違ったけど、よく一緒に登下校していたわ。彼が亡くなって妹さんを心配していたのだけど、今はかなり元気になったみたい。きっと姉のあなたのおかげだって思ったわ。だから、あなたはその事情を少なからず聞いていると思ったのよ」
「そう、ですか……」
これで裏庭と茜ちゃんの糸が繋がった。茜ちゃんが直接知っているとは限らないけど、関係はあったんだ。それはなぜか。
本郷さんが言う「その人」「彼」が、俺自身だからだ。
この花は事故で死んだ俺、小坂楓のための追悼の花だ。
「お、お話してもらってありがとうございました。この後用事があるので、失礼します」
「あら、そうだったの。まだ話は先があるんだけど」
「失礼します」
俺は本郷さんの言葉を遮って、一目散に駆けだした。そのまま校門を抜け、通学路を走り抜ける。この身体に持久力はないし、全力疾走は長く持たない。すぐに息が上がって歩かざるを得なくなった。
膝が笑っている理由は、準備運動なしで走っただけじゃない。世間に死んだと認識されることが、こんなに怖いことだったのか。小坂楓はもう死んでいると見做されて、こうして生きている事実を知ってるのは俺を含む一握りだ。勝手に供養なんかするなと言いたいところだけど、死んだのは事実。同時に、今ここに生きているのも事実だ。
なんだ、この矛盾は。
俺が誰か、わからなくなりそうだ。
荒い呼吸で家に向かいながら、いつしか俺の頬には雫が伝っていた。
ゴールデンウィーク長くなりそう……。
章も名前を変えて管理し直すかもしれません。
PS:2015/05/07
章改め、タイトル等変更しました。