再び遠くへ
翌日の日曜日の朝、俺は久しぶりに気分よく起きることができた。結果としてぬいぐるみの安眠効果はあったのである。ただし完全に熟睡するには至らず、寝つけたのは深夜のようだ。平日だったらもう二時間目が終わるくらいの時間に目が覚めたのだから、まだまだ改善が必要だ。
眠気眼でリビングに降りると、茜ちゃんと母さんが待っていた。顔を洗って身支度を済ませると、冷めた朝食が温められてテーブルに置かれていた。
「で、熊の抱き心地はどうだった?」
「昨日はウーパールーパーだったんだよ。抱き心地は悪くなかった。でも、やっぱり寝付くのには時間がかかったよ」
「だから熊にしなさいって言ったのよ」
「そんなの、どれも一緒だろ。それに抱き心地で言うならウーパールーパーのほうがいいと思う」
母さんとの抱き枕戦争は続いている。ともあれ、眠るためにぬいぐるみ兼抱き枕がそこそこ効果的なのは実証された。屈辱だとばかり思っていたが、実際に眠れるとなればしょうがない。
「まぁ、いいわ。これからも何かあったら連絡しなさいよ。電話は咄嗟に出られないから、メールでお願いね。できる限り返事するから」
「メール? 電話のほうが早くない?」
「現場にいるとそうもいかないのよ」
母さんはソファから立ち上がってバックパックを背負う。周りにはキャリーケースと旅行鞄。
「その恰好……」
「あ、言ってなかったけ。日本にいられるのは今日までなのよ。支部長とはずっと交渉してたんだけど、やっぱり滞在期間を延ばしてくれなかったわ」
そうか、だから連絡の話が出てきたのか。母さんはまた海外の医療現場に戻る。そうとわかっていたら、こんな時間まで寝てなかったのに。
「急にごめんね。心配しないで、また帰ってくるわよ。今度はお父さんも一緒にね」
母さんが髪をポニーテールにまとめる。柊さんもポニーテールだったけど、俺は見慣れた母さんの髪型のほうが好きかもしれない。髪にも性格が出るんだなあとどうでもいいことを思った。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。久しぶりに帰ってきて、たった一か月しか一緒にいられなくて、それはあっという間に過ぎて。からかわれたり弄られたり色々大変だったけど、いざまた遠くに行ってしまうと思うと、何も言葉が浮かばなかった。
俺が何も言わないでいると、母さんはそっと俺の目の前に来た。膝を折って床につけ、幼い子にするように下から俺の顔を見上げる。
「そんな顔しないで、楓。あんたには茜ちゃんがいてくれるでしょう? 名実ともに姉妹になれたじゃない。もう一人じゃないのよ」
「……うん」
今までだって一人じゃなかった。茜ちゃんにはこれまでも、色んなところで助けてもらったし、孤独を埋めてくれた部分もあった。それを頭で理解していても、目の前の人と遠く離れてしまうのは――。
「本当に、ごめんね」
優しく、身体が引き寄せられる。目に入ったのは母さんのポニーテールとうなじだった。久々に感じる母の匂い。こんなふうに抱きしめられるのは、いつ以来だろう。
「あんたは男の子だから、寂しいなんて思うはずないって、そう自分に言い聞かせてきたの。そう思っていればあたしも罪悪感を抱かないし、寂しくならないから。あんたが声や顔に出さなかっただけなのにね。気づかないふりして、ごめんね」
「そんなこと……!」
初めて耳にする母の胸の内と、謝罪の言葉。わかっていたんだ、俺が寂しいのを隠していること。わかっていても母さんたちは答えられないから、見て見ぬふりをしたんだ。そうやって母さん自身も寂しいのを出さないようにしていた。
「ああああ……」
我慢できなかった。両の目から泉のように溢れた涙を、止めることができなかった。細くなった手で母さんにしがみついて、みっともなく赤子のように泣いた。
母さんはそれ以上何も言わずに、あやすように俺の背中を撫でた。甘えていい、そう悟ってしまうと嗚咽が漏れた。こんな風に泣くのは初めてだった。
物心ついてからは、他人に涙を見せたことはない。一人で泣くことだってなかったはずだ。こんなにも簡単に溢れ出て、抑えるのが難しいものだとは知らなかった。
そのまましばらく時間が過ぎた。母さんの肩が乾かなくなるうちに、俺は意地で嗚咽を止めた。自分の袖で涙を拭って母さんから離れる。
「あんたに何かあったら、今度は飛んで帰ってくる。そうじゃなくても一年に最低一回は帰してもらえるよう、支部長を脅迫しておくわ」
「母さんは上司を何だと思ってるのさ……ふふっ」
物言いがおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。
この一か月近くで、母さんの愛情を確かめられたと言ってもいい。俺が女の子になったからって、接し方が変わることはなかった。自分の子だと認めてくれたし、俺が北見に苗字を変えるのを嫌がった。それだけで俺は母さんの子として愛されていたことを知ったんだ。姿も性別も変わっても、中身を俺として見てくれた、それが嬉しかった。
離れていてもきっと親子の絆は切れない。そう確信できたから、自然に微笑むことができた。その表情を見て、母さんが満足そうに俺の頭を撫でる。
「戻ってくるまで、しっかりね。あんたは茜ちゃんのお姉さんなんだから」
「わかってるよ。そっちも気をつけて。今度はちゃんと、父さんも連れて帰って来てよ」
「任せときなさい」
母さんが立ち上がって胸を張った。俺の背は縮んだので、見上げる形になる。けど、小さい子供になった感覚はもうなかった。
荷物を纏めて玄関へ向かう。バックパックも旅行鞄もパンパンで、俺の筋力では持つことができなかった。
「こんなに、何が入ってるの?」
「ほとんど食料品よ。向こうに着くまで何もないからね」
そういえば昨日、普通より大量に買い物袋があったな。ペイスで揃えていたのか。
「駅まで行くよ」
「ううん、ここまででいいわ」
母さんは首を振る。残念だけど、きっと長引かせて別れづらくなるのが嫌なんだろう。母さんが戸を開けて出ようとしたところに、茜ちゃんが駆けつけた。
「これ、持って行ってください」
差し出されたのは水玉模様の巾着袋だった。受け取った母さんは、感触で中身がわかったらしい。
「ありがとう、大事に食べるわ」
「お気をつけて」
おじさんに持たせたのと同じ、おにぎりだと形でわかった。そういえば俺が泣いている時から気配がなかったように思う。気を遣ってその場を外した時に、このおにぎりを作ったんだろう。母さんはそれを旅行鞄に入れて、再び俺たちに向き直る。
「じゃあ行ってくるわ。またね、楓、茜ちゃん」
「「行ってらっしゃい」」
俺と茜ちゃんの声が重なる。母さんはまた満足そうに笑って、今度こそ玄関の戸を開けて出て行った。
「ごめんね、みっともないところ見せちゃって」
「そんなことないよ。わたしもお兄ちゃんの気持ち、わかるから」
茜ちゃんが俺の手を握る。いつにも増してその手は温かかった。
俺たちが幼馴染ってだけで、今まで一緒にいたわけじゃない。姿がそっくりになる前でも共通点が多かった。互いに親とは滅多に会えないけど、今までも、これからも一人じゃない。
「茜ちゃん、これからもよろしくな」
「こちらこそ、お姉ちゃん」
えへへ、と笑う茜ちゃんの手を、俺はしっかりと握り直した。