鼓動、赤面
食品売り場から出て真っ直ぐ行った反対側の店舗、そこが例の花屋だ。渡されたフリーペーパーを見て知ったのだが、「Radiant Flower」という名前らしい。その看板すら店先に出された植物に隠れて見えないほど、今日も鉢がたくさん並んでいる。
もう時期が過ぎたのか、先週のカタクリの鉢は店先には見当たらなかった。他の花も季節の移りによって変わっている。もう一月したら梅雨になるから、また変わっていくんだろうな。
「こんにちは」
中に入って声をかけると、レジにいたお兄さんが俺に気づいた。
「こんにちは。先週は花を配ってくれてありがとうね。店長も感謝していたよ」
「いえ、こちらこそ。……って、お兄さんが店長じゃなかったんですか?」
「ははは、僕みたいな大学生が店を持てるわけないよ。先週はたまたま店長が遠出していたんだ」
「そうだったんですか。じゃああの後、とっても大変だったんじゃ……?」
「あれくらいは大したことないさ。それよりも君たち二人が花を配ってくれたおかげで、あの日は今月最高の売上を記録したんだ。帰ってきた店長と小躍りしたくらいだよ」
満面の笑みを湛えるお兄さんにそう言われて、俺は照れくさくなる。自己満足のつもりでやったことなのだけれど、思いのほか感謝されているのはやっぱり嬉しい。
「今日は店長もいるんだ。奥で作業してるけど、すぐ呼んでくるから待ってて」
声をかける暇もなく、お兄さんは店の奥へ行ってしまう。俺は茜ちゃんと顔を見合わせた。
「なんか、えらい感謝されてるみたいだな」
「よかったね、お兄ちゃん」
「まあ、ね」
先週じっくり見れなかった花を見に来ただけだったのだが、思いがけず感謝されていることを知れて悪い気はしない。でも、わざわざ店長が出てくるってことは、何だか大それたことになってきた。そわそわしていると、すぐにお兄さんが帰ってくる。後ろには若い女の人が付いて来た。
「店長、こっちです」
「はいはい。まあ、あなたたちがそうなの? 聞いていたよりもずっと可愛いらしい姉妹ね」
長い髪をシュシュでポニーテールに纏めた、おっとりした印象の女性だった。穏やかに笑みを浮かべたままレジの前へ出てくると、俺たちにお辞儀をした。
「初めまして、『Radiant Flower』の店長、柊です。先日はお店のお手伝いをしてくれたと聞いています。その際はロクなお礼もできずに、失礼いたしました」
「い、いえっ、こちらこそ、出過ぎた真似をしてしまって。お礼なんてとんでもないです」
慌てて俺も頭を下げると、柊さんはくすくすと女性らしい笑みを浮かべて顔を上げた。
「ふふ、そんなに固くならないで。あなたたちがお花を配りたいと思ったように、こちらも気持ちだけでもお礼をしたいのよ。大したものではないけど、受け取ってもらえないかしら」
差し出されたのはカラーコピーされた冊子だった。表紙にカタクリの葉の写真が印刷されていて、「春の妖精」と銘打ってあった。
「これは?」
「先日の野花観察会の時に撮った写真なの。お店のサイトに案内があるんだけど、見たことないかしら?」
そういえば、別れ際に貰ったフリーペーパーにサイトのURLが書いてあった。携帯でアクセスしたが、あまり隅々まで見ていなかったから気づかなかったのかもしれない。
知らないとは言いづらくて困った顔をしていると、察した柊さんが丁寧に教えてくれた。
「そんなに頻繁じゃないんだけど、うちのお店のサイトを通じて、自然の草花を観察するイベントを開いているの。植物好きの人たちとの交流会も兼ねているんだけど、近くの山にハイキングに行って、野花の写真を撮ったり観察したりするのよ。これはその時の写真をまとめてみたものなの」
冊子を開いてみると、カタクリ以外にも春の野花の写真が写されていた。日付はちょうど先週で、柊さんがお店にいなかったのはこれに参加していたからだと推理できた。冊子の最後のページを捲ると、挟んであった栞がぽろりと落ちそうになる。
「それは見つけたシロツメクサを押し花にしたものよ。よかったら冊子と一緒に貰ってくれないかしら」
「いいんですか?」
「もちろんよ。こんなものしか渡せなくて悪いのだけれど」
「そんなことありませんよ。こんなに感謝されるって思ってなかったので、びっくりしましたけど、嬉しいです」
自然と顔が綻ぶのを隠せないまま、俺は冊子の写真に釘付けになる。自然観察は自主的にやっていたけど基本的に一人で、そういうイベントがあるなんて存在も知らなかった。野生の草花の生写真は図鑑より色鮮やかに写っていて、何よりイベントでの写真というのが新鮮だった。夢中になっていると、茜ちゃんが肩をつついて来る。
「お兄ちゃん、わたしにもよく見せてよぉ」
「ああ、ごめんごめん。一緒に見よう」
「うん♪」
自分ばかり見ていたことを反省して、茜ちゃんにも写真が見えるように冊子を広げる。
「二人とも姉妹なのよね? 高校生?」
「はい。あっ、自己紹介が遅れました。俺、小坂……じゃなかった、北見楓って言います。双子の姉です」
「同じく、茜です。妹です」
すっかり遅くなったが、自己紹介をしてお辞儀をした。するとお兄さんは「あっ」という顔をして、バツが悪そうに後頭部を掻いた。
「ごめん、僕も自己紹介がまだだったね。僕は菊池誠悟。大学生で、農学部で勉強してるんだ。植物の話がしたいなら、またいつでも来てよ」
そう言って手を差し出す。握手を求められているのだと理解して、慌てて手を握った。茜ちゃんや茉希ちゃんはもちろん、透や翔太と握った時よりもその手は大きく感じられた。
奇妙な感覚が襲った。さっき茜ちゃんの顔にドキドキした時のような不整脈が身体に違和感を生む。もしかして、このお兄さんも意識しているのか、俺は。身体が女の子だから? 頭は男なのに? じゃなければ、一体どうして鼓動が速くなるんだ。
「さて、今日はちょっとやることがあるんだ。お店は自由に見て行ってもいいよ。何かあったら、また声をかけて」
「は、はい」
ぱ、と繋いでいた手が離れる。言った通りに、二人はお店の仕事に戻ってしまった。指と指の間に空気が通り抜けて、物寂しいなとか考えてしまった自分に、また戸惑う。自分の手を見つめながら、ぐーぱーぐーぱー、繰り返す。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
「えっ、いや、何も」
呆けていたところを尋ねられて、我に返る。何を考えているんだろう、俺は。
この鼓動の変化、正体が掴めない感じでちょっと怖い。けど、不思議と嫌な感じはしなかった。茜ちゃんに対しては元よりそうだし、あまり知らない菊池さんに対しても、そんな感情は抱かなかった。
でも男か女かは置いておいて、手を握られるだけで意識をしてしまうのはなんでだろう。不思議には思ったけど、植物に囲まれていたらどうでもよくなった。
色んな草花や鉢を見ていると、いつの間にか母さんが買い物から帰ってきたらしい。それに気づいたのは柊さんや菊池さんと簡単に挨拶をしているところだった。
「先週は子供たちがお世話になりました」
「いえ、とんでもありません。わたくしどもとしてはお手伝いいただいたのに、大したお構いもできずに」
俺が挨拶した時と同じ言葉を交わしあって、そのまま女性同士の世間話に移行した。タイミングを見計らって、菊池さんは仕事に戻る。その時に俺と目があって、困ったように笑った。そしてまた、俺の鼓動が速くなる。
「ごめんね、お迎えの人に店長の話の相手させちゃって」
「気にしないでください。それよりもお仕事のお邪魔になってないか……」
「それは大丈夫だよ。今の時間帯からお客さんは減ってくる頃合いだから」
受け答えをしている間も、心音のリズムは元に戻らない。本当にどうしたんだろう、おじさんにもわからなかった身体の不調があったんだろうか。
落ち着かなくて髪留めを弄っていると、ふと菊池さんがこっちを見ていることに気づく。
「そのヘアピン、いいね。楓ちゃんにぴったりだ」
心臓が一際大きく跳ねて、かあっ、と全身が茹で上がるように熱を帯びた。なななななな、なん、何だ今のは? 今世紀最大の衝撃だ。
褒められた、それはわかる。髪留めは俺と同じ名前の植物の葉のデザインだし、それがぴったりだって意味もわかってる。なのに俺は過剰反応しているらしい。顔から火が出るほど恥ずかしいのに、同時に思わずガッツポーズをしたくなるくらい嬉しい。
「っあ、あ、茜ちゃんが見つけてくれたんです……」
相反する衝動を抑えてなんとかそれだけを答える。いつの間にか菊池さんに背を向けていて、顔を見ることができなくなっていた。
首を支えるように、自分の頬に手を添える。本当に火が出そうなほど熱い。不整脈もそのままで、なかなか戻らない。
本当にこれ、何なんだよ……。
「そっか。本当に仲がいいんだね」
菊池さんはそれだけ言って、俺から離れていく。その気配を感じたら、いつの間にか鼓動が落ち着いてきた。
不整脈かつ情緒不安定かよ。今日は本当に具合でも悪いんだろうか。胸を押さえて心配になっていると、茜ちゃんが近づいてきた。
「そろそろ帰るって。行こう?」
見ると店の前で母さんが待っている。柊さんとの話も終わったんだろう。簡単な別れの挨拶を交わして、俺たちは「Radiant Flower」を離れた。
2015/05/14 一人称、敬称、言い回しなどの訂正