九死に一生を得た結果
ぼんやりと意識を取り戻すと、目の前に茜ちゃんの顔があった。可愛い顔を涙でぐしょぐしょにしながら、必死に背中を揺すり続けている。彼女の自慢のツインテールも頬にぺちぺちと当たっていて、これじゃ寝ていられないな。わかったよ、今起きるから。
いつものように起きようとして、身体に力が入らないことに気づく。それだけじゃない。全身が鉛のように重く、鉄板の上で焼かれたように熱い。
思えば変だ。彼女は泣き叫んでいるのに、その声が聞き取れない。頬に当たる感触はごつごつとしたアスファルト。何で俺は道路の真ん中で横になってるんだろう?
――ああ、思い出した。トラックに轢かれたんだっけ。
夕刻、一緒に買い物に行った茜ちゃんが赤信号で道路に出てしまって、そこに横からトラックが突っ込んできた。咄嗟に俺が茜ちゃんを突き飛ばしたが、代わりに撥ねられてしまったんだった。
他人事みたいに思ってから、一気に血の気が引いて行く。今、俺の身体の状態からして、間違いなく瀕死だ。痛みがないのも意識が遠のいていくのも、危険な状態だからだ。
絶望とか後悔とかする前に、襲ってきた恐怖に支配された。まだ死にたくない。でも意識がなくなったら、間違いなくこの世に帰って来れない気がする。目の前が暗くなっていくのが怖い。こんなに身体は熱いのに、背筋に冷たいものが走った。
そんなとき、茜ちゃんが手を握った。涙が溢れる目で俺を見つめて、必死に何か呼びかけている。手の感覚はおぼろげだったが、彼女が握ってくれているのがわかって、パニックだった頭に落ち着きが戻った。
視界はどんどん闇に覆われていく。でも、幾分か穏やかに死を受け入れていた。
起きられなくてごめん、声が出ず心の中で茜ちゃんに謝りながら、意識は途絶えた。
ぼんやりと瞼の裏に光を感じて、徐々に意識が浮かび上がる。もしかして生きているんだろうか。それとも死んで、天国に来てしまったんだろうか。
思い出したように目を開ける。すぐにはピントが合わず、視界はぼやけた白色だった。しばらくして映ったのは、真っ白な天井と蛍光灯だった。
のぼせたように熱を帯びていた身体も、今は何ともない。試しに指を曲げてみると問題なく動いた。自分の状況を確認すると、どうやら病室のベッドに寝かされているようだった。
「あ、起きた……」
その声で茜ちゃんが傍にいることに気づく。泣き腫らして真っ赤になった目元から、また涙が溢れそうになっていた。
「おはよう、茜ちゃん」
場を明るくしようとしてわざと陽気に挨拶して見せる。気まずさで緊張したのか、声が裏返ったように高くなった。
「し、心配したんだから! わたしのせいであのまま死んじゃうんじゃないかって……」
「ごめんね。でも死んでないよ。だから泣かないで」
やっぱり茜ちゃんは泣いてしまう。目の前で女の子の涙に戸惑う俺は、さらに声が高くなる。そんな慰めじゃ泣き止まないだろうと思っていたのだが、予想に反して茜ちゃんは自分で涙を拭いた。
「起きたんだね、楓くん」
茜ちゃんの横から聞き慣れた男の人の声がした。目を向けると、眼鏡をかけた白衣姿の男が俺を見下ろして立っていた。
「おじさん」
「やあ、久しぶり。君が事故に遭ったと聞いて、私自ら治療を担当させてもらったよ」
この白衣を着た男の人は茜ちゃんのお父さん、北見樹だ。俺と茜ちゃんは家が近いこともあって、家族ぐるみの付き合いがあった。小さい頃から俺の面倒をよく見てくれたこともあって、俺は親しげに「おじさん」と呼んでいる。おじさんは優秀な医学者として有名で、病院で白衣を着ていると本当の医者みたいだけど……。
「おじさんって、外科医だったんですか?」
医科大の首席だの、医学界の重鎮だの、おじさんの優秀さを表す通り名は(本人の口からだが)粗方聞いたことはある。でも医者と医学者には違いがあって、特に患者の対応をする人を医者、病気や症状など医学的な研究をする人を医学者というはずだ。もちろん両方の立場を持つ人もいるけれど、おじさんが医師としてどこを専門にしているのかは聞いたことがない。
「問題ない。医師免許は持っているし、病院と君の両親の許可も得ている」
天才は言うことが違うね……。そんなことを思いながら呆れ笑いを浮かべていると、おじさんがバインダーを取り出した。
「だが、一応簡単な検査をしておこう。目覚めたばかりで悪いが、いくつか質問をするから答えてほしい」
「はぁ……いいですけど」
気の抜けた返事にも頷いて、おじさんが質問を始める。
「まず、君は自分が誰だかわかるか?」
「小坂楓です」
「誕生日と血液型は?」
「12月2日で、О型」
「今私の指は何本立っている?」
「三本です」
それからも俺の身の回りのことや常識についての質問が続く。自分の通っていた高校の名前、自分の家の住所、高校二年生であることなど、答えられない問題は特になかった。頭を強く打ったかもしれないから、脳の障害がないのを確認するためのテストなんだろうな。
「最後の質問だ。今、君の身体に痛みや痺れはないかい?」
「ありません……でも、ちょっと違和感が」
「ほう。なんだね」
「俺、なんか声が高くないですか?」
話していて思ったのだ。どうも自分の声が高すぎておかしい。頭より首とかに衝撃を受けて、声帯が変にダメージを受けたんじゃないだろうか。いや、他にも違和感はある。身体全体は軽いのに、胸の部分だけ何か乗っているように重いのだ。
「すまない、説明が遅れたな。まずは君の身体をその目で見てほしい」
そう言っておじさんはポケットから手鏡を取り出して俺に寄越した。白衣から出てきたことに疑問を感じたが、触れずに自分の顔を見る。
「……え、誰?」
自分だとわかっていても、聞かずにはいられなかった。俺が想像していた顔とあまりにも違いすぎる。冴えない男子高校生の顔じゃない。どこからどう見ても美少女だ。茜ちゃんも美少女だが、こちらも負けず劣らず可愛らしい。
「それが今の小坂楓だ」
その言葉を解釈するのに、丸々一分を消費する。そして何かに弾かれたようベッドから起き上がった。勢いのまま「はあぁ!?」と叫ぼうとするも、胸の重みに意識を取られて不発に終わる。
胸だ。パジャマのボタンを押し上げて脂肪の塊が存在を主張している。襟首を引っ張って覗いてみると、双丘の豊かな膨らみがお出迎えしてくれた。
――冗談じゃないぞ。
死とはまた違う種類の恐怖が、俺の背中に冷たい刃を走らせた。