今日から友達
ふわふわと身体が浮いているような感覚だった。身体の五感が現実から切り離され、自分だけがそこにいる。浮遊感に身を任せると、心地よかった。
そこへ不意に耳から聞こえた音が届く。誰かの声らしいけど、今の俺には言葉として届かない。白い靄のかかった世界で、俺はふと目を瞬かせた。
その瞬間、靄のかかった世界が消え、現実に引き戻される。自分の腕と机があって、右肩には重みを感じた。顔を上げて周りを見回すと、クラスメイトたちがこっちを見ている。振り返ると、あのオッサンが肩を掴んで俺を見下ろしていた。
まずった。授業中に居眠りしていたんだと理解する。
「起きたか。俺の授業よりよっぽどいい夢を見ていたようだな」
低い声に思わず身体を強張らせる。手を振り払いたい衝動に駆られるが、肝心の身体はがちがちに震えて動かない。胸の奥から何かがこみ上げて来て、喉を塞がれたような息苦しさが襲ってくる。
肩に置かれたオッサンの手が蠢き、全身が泡立つ感覚に襲われた。そのまま首の肌に触れられて、頭の中がぐちゃぐちゃになって。俺を見下すオッサンの目が細められ、口元に僅かに愉悦の色が浮かぶ。その笑みの理由がわからないまま、俺は本能的に恐怖を感じていた。こいつは絶対やばい、今すぐ離れろとばかりに脳が警鐘を鳴らして――。
「鹿角先生、授業を続けてくれませんか?」
声を上げたのは鈴原さんだった。先生の意識が逸れたのか、俺から目を離して手を下ろす。手が肩を離れる間際、自然を装って撫でられたのが酷く気持ち悪かった。
「ふむ。本当は転入生に解かせようとしたんだが、まあいい。代わりにお前がこの化学式を解いてみろ」
「……はい」
舌打ちせんばかりに顔を歪めつつも、鈴原さんは黒板に書かれた問題を解いた。もしかしなくても、俺を庇ってくれたんだ。鈴原さんが席に戻る頃には、煩かった鼓動もようやく落ち着いてきていた。
冷静に考えると、確かに居眠りした俺は悪い。先生として不真面目な生徒を叱るのは当然だ。けど、それだけならあんな恐怖を感じたりしないはずだ。鳥肌が立つことも、生理的嫌悪を覚えることもない。あの先生がやばいオッサンだと思った理由がどこかにあるはずだ。ただ肩に、首に触れられただけで気持ち悪くなるなんておかしい。
それ以降は通常通り、まともに授業を受けた。集中して違和感を忘れようとした。でも、真っ直ぐオッサンを見ることはできなかった。目が合いそうになる度に、俺の肩に触れて口元に笑みを浮かべる先生の顔が浮かび、嫌悪感が戻ってくる。
その日から鹿角先生が大嫌いになり、化学の授業は苦悶の時間となった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
授業が終わってオッサンが出て行った後、すぐに茜ちゃんが俺の前に来た。まだ呼び癖が抜けていない茜ちゃんだけど、幸い今は近くに誰もいなくて聞かれることはなかったようだ。何より俺は疲れ果てていて、突っ込む気力がなかった。
「大丈夫、って?」
「だって触られてたし……他にはどこか触られてない?」
茜ちゃんに言われて、オッサンのあの顔がフラッシュバックする。眼鏡の奥に陰気な瞳、舐めまわすように動く眼球、肩と首を撫でて髪に絡まる指先。俺は露骨に顔を顰めた。
「多分、肩だけだと思うけど」
「何にしても油断しすぎよ」
後ろから鈴原さんが寄って来て、何かを払い落とすように俺の肩を叩いた。丁度あのオッサンが手を置いた場所だ。
「居眠りしたのは俺が悪かったって思ってるよ」
「違うわよ。居眠りなんてしょうがないじゃない。あのオッサンの授業なんてつまんないし、実際に男子は何人か寝てたんだから。目をつけられたのは楓だけよ」
「えっ、そうだったのか?」
見回した時は周りを把握するので精一杯だったからか、そういうことには気づかなかった。他にも寝ていた人がいたとしたら、何であのオッサンは俺にだけ声をかけてきたんだ。転入生の勉強がどれだけ進んでいるのかを知りたかったのか? 問題を解かせるつもりだったらしいし。
「とにかく、これからは気をつけなさいよ、あの先生には特にね」
「う、うん。庇ってくれてありがとう、鈴原さん」
「礼なんていらないわよ。それより、アタシのことも名前で呼んでくれないかな? 茉希って」
「な、名前? えっと……」
そういえば女子って、親しい相手同士だと下の名前で呼び合うよね。あれ、男もそうだっけ? 俺にはそんな経験はないし、名前で呼ぶのは茜ちゃんだけだ。理由も幼馴染だったからという単純なもの。初めてクラスメイトを名前で呼ぶことに、俺はちょっと戸惑う。チキンとかいうな、慣れてないんだから。
「……じゃあ、茉希ちゃん?」
「よろしい。じゃあ、あっちも」
茉希ちゃんが指差した先には、竹浦くんが男子と談笑しているのが見えた。背中を向けているので、こっちには気づいていない。
「竹浦くんの下の名前、知らないんだけど……」
「え、そうなの? ペイスの時も自己紹介してなかった?」
「うん、してなかったはずだよ? 茉希ちゃんもまだ竹浦くんって呼んでたし」
答えたのは茜ちゃんだ。どうやら茉希ちゃんも竹浦くんを名前で呼ぶようになったのはここ数日のことらしい。竹浦くんは別の中学からやってきたらしく、高校入学してから仲良くなった友達ということだった。逆に茉希ちゃんと桐山くんは中学から茜ちゃんの友達らしい。
「しょうがないわね。ねえ、ちょっとー」
茉希ちゃんが男子グループに声をかけて、手招きをする。アイコンタクトでも取ったんだろう、竹浦くんだけがこっちに来た。残されたグループの面々は面白そうに竹浦くんを送り出した。
「何か用?」
「ええ、大事な用よ。あんた、楓にちゃんと自己紹介してなかったでしょ。下の名前で呼ばせたかったのに、知らないって言われてびっくりしたわ」
「ああ、そういえば……」
思い出した途端、竹浦くんは気後れしたように目を逸らした。その背中を茉希ちゃんが励ますように叩く。
「何照れてんのよ。女々しいったら、ほら」
あっ、竹浦くんも恥ずかしいんだな。仲間発見。やっぱり女子の名前を呼ぶのは恥ずかしいよな。異性との距離が急に近くなると意識してしまうのが男子だし、慣れないうちは友達でだって気を遣ってしまう。だから俺も恥ずかしいと思ったのは当たり前のことだ、うんうん。
背中を叩かれて腹を括ったのか、竹浦くんは息を吸い込んだ。
「……じゃあ改めて、俺は竹浦翔太。中学は隣町の西第三中学で、こっちには電車で通ってるんだ。いわゆる高校デビューをしたばっかりで、友達も少ないけど、よろしく」
「わかった。こちらこそよろしくな、翔太」
男子の下の名前はなんとなく呼び捨てになってしまう。女子は軽々しく呼べないのに、何で男子だけそうなるんだろうな。逆に下の名前に「くん」付けはあまりしない気がするし、この境界は曖昧だ。それでも呼び捨てはいきなり過ぎただろうか。
そんなことを思っていると、茉希ちゃんが小気味良く翔太の背中を叩いた。
「いいじゃない、早速名前呼んでもらえて。恥ずかしがってないで、あんたも」
「う、うん。えっと……楓、さん」
咄嗟に「さん」付けをして呼ぶ翔太。照れているのがあまりにわかりやすくて、俺は思わずぷっと吹き出してしまった。つられて茜ちゃんも茉希ちゃんも笑い始めて、置いてけぼりを食らった翔太だけが顔を真っ赤にしている。
その様子にまた笑った後、自然に言葉が出てきた。
「呼び捨てでいいよ。友達なんだし」
言った手前、自分でも驚いた。休み時間は一人で過ごしていたし、それで寂しいと思うこともなかった。むしろ俺はクラスメイトと話をすることを避けていたくらいだ。これまで意識的に誰かに「友達」と言うのは初めてだったのだ。
休み時間に集まって、取り留めもない話をして笑い合う。悪くないな、と思った。少なくともこうやって笑い合っているうちは、さっきの授業でのことを忘れていられたのだから。
俺たち三人が会話で盛り上がっていると、二時間目が始まる直前になっていた。まだ騒がしい教室に、坊主頭の男子が何食わぬ顔で入ってくる。桐山くんがやっとサボりから帰ってきたのだ。それに気づいた茉希ちゃんは桐山くんに駆け寄った。その場で何かを言い合っていたが、こっちまでは聞こえなかった。やがて桐山くんが面倒臭そうに茉希ちゃんを振り切って自分の席に座る。茉希ちゃんも諦めたように首を振りながらこっちに帰ってきた。
「はー、まったくあのわからず屋め。人がせっかく心配してやってるのに」
「透くんに何か用だった?」
俺と翔太の代わりに茜ちゃんが尋ねると、茉希ちゃんは拳を握りながら悔しそうに呟く。
「何でさっきの授業サボったのか、よ。まあ理由は大体わかるんだけど、問い質して真面目に受けさせないと、今からあんなんじゃ留年しそうだし」
「ああ、確かにそうだね」
高校の教科は一科目でも赤点だと留年する可能性が高い。出席が足りなければ成績をつける以前の問題だ。
「鹿角のオッサンが嫌いなのはわかるけどさ、アタシらだって同じだっての。でも向こうは先生だし、授業があるなら出るしかないじゃない。担任じゃなかっただけありがたいって思わなくちゃ」
「あの人が担任は……ちょっとやだね」
茜ちゃんが想像して、顔を曇らせる。俺もそれはごめんだ。あの授業一度だけでも強烈だったのに、担任になられた暁には鬱になりそうだ。
「ま、どうせ昼休みには逃げられっこないんだから、徹底的に問い詰めてやるわ」
茉希ちゃんが拳を握りしめた時、チャイムが鳴って二時間目が始まった。
2015/11/25 会話文等、微修正