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メイプルロード  作者: いてれーたん
夢のあと
109/110

噂の美容師さん

 

「茜ちゃん、免許持ってたんだね」


 隣でハンドルを握るお姉さんを見ながら、俺は感心して言った。今日は退院の日であり、母さんが小坂家を引き払う日でもある。母さんはそっちに行っているらしく、俺を迎えに来てくれたのは茜ちゃんだった。


「言ってなかったっけ? いつも通勤で運転するんだよ」

「そうだったんだ。なんか……」

「……どうかした?」


 言いよどんだのを察したのか、茜ちゃんが心配そうに言葉をかけた。でも、俺は首を振った。


「ううん。なんだか不思議な感じ」


 それだけ言って、俺は助手席から外を見る。時間の流れは感じたけれど、もう虚無感や孤独感のような感覚はなかった。


「でも、本当にいいのかなあ、手伝わなくて」

「葵さんなら大丈夫だよ。引っ越しは知り合いが手伝ってくれるから。それに冷蔵庫とか大きいものは、楓ちゃんもわたしも持てないでしょ?」

「まあそうなんだけど」


 引っ越しと言っても、茜ちゃんの家から極端に離れるわけじゃない。駅にも近いこの辺りの街並みは、六年ぶりとはいっても見覚えがあった。


 時間は正午をまわった頃。小坂家から運び出す大きめの家具がまだ残っていたんだけど、それは茜ちゃんの言う知り合いに任せて、俺は今から美容院に行くところだった。昨日言っていた、茜ちゃんのお勧めの美容師さんがいるところだ。


 さらに十数分車を走らせて、白い外壁がお洒落なお店の駐車場に入った。散髪屋に入ったことはあるけど、美容院というのは初めてだ。出入り口だけを見たら小さなカフェみたいで、一人で入るにはちょっと勇気がいりそう。


「いらっしゃいませー」


 茜ちゃんがドアを開けると、ちりんと小さい鈴の音とともに、よく通る女性の明るい声が上がった。すぐに奥から声の主らしいお姉さんが顔を出して、にっこりと微笑む。そのままこっちへ来て接客……と思いきや、お姉さんはいきなり俺を抱きしめた。


「えっ? ええっ?」


 混乱して茜ちゃんを見るが、にっこりと笑みを浮かべて俺とお姉さんを見守っている。どうやら悪いことではないみたいだけど、状況がてんでわからない。なんかこの姿になってから、ファーストコンタクトでやたら抱きつかれることが多い気がする。


「あの、えと? 茜ちゃん? この人は?」

「大丈夫。ほら、楓ちゃん困ってるでしょ。抱きつくんじゃなくて、ちゃんと言ってあげないと」

「ああ、ごめんね。六年ぶりなんだもの、わからなくて当然よね」


 そっと俺から離れたお姉さんは、最初に見せた営業スマイルのまま、目尻に涙を浮かべていた。改めて見るとすごい美人さんだ。けれど、その面影はどこかで見覚えがあって。


「美容院『ひまわり』へようこそ。本日は私、鈴原茉希が誠心誠意真心こめて、お客様のオシャレをお手伝いいたします」

「ま、茉希ちゃん?」


 ぺこりと頭を下げたお姉さん――――大人になった茉希ちゃんのポニーテールがふわりと揺れる。再び顔を上げたときは営業スマイルじゃなくて、俺の記憶の中にある親しみを持った笑みが浮かべられていた。


「久しぶりね、楓。アタシ、美容師になったのよ」

「びっくりしたよ。まさか茜ちゃんの紹介したい美容師さんが茉希ちゃんだったなんて」

「昨日は驚かせようと思って、敢えて言わなかったんだよ。すぐ予約が取れるとは思ってなかったし」

「お得意様確定のお客様だもの。予約いっぱいだとしても捻じ込むわよ。スタッフはアタシだけじゃないからね」


 茉希ちゃんの後ろでは他の美容師さんたちが、すでに来ていたお客さんの対応に当たっていた。残っている席は一つしかなくて、茜ちゃんが予約してなかったら埋まっていたかもしれない。


「聞いてた通りだけど、ちっちゃくなっちゃったわねぇ、楓。以前にも増して可愛さアップしてない?」

「そんなこと言われてもなあ」

「なんでそんな微妙な顔するのよ。褒めてるんだからもっと喜びなさい」

「素直に喜べないから困ってるんだけど」

「まあまあ。とりあえず茉希ちゃん、楓ちゃんのことお願いね。わたしはそのうちに買い物を済ましてくるから」


 茜ちゃんは俺が髪を切っている間に、今日の俺の退院祝いの準備をするらしい。茉希ちゃんが「はいよ、任せて~」と答えると、茜ちゃんはすぐにお店から出て行った。


「それじゃ、早速はじめましょうか。楓はどんな感じにしたい?」

「とりあえず邪魔にならないくらいに髪を短くしてくれれば」

「そんな投げやりに答えないでよ。希望のアレンジとか、そういうのは?」


 散髪屋さんならたぶん今ので通用したんだろうけど、美容院は初めてというのと、なんだか意地でも俺にお洒落させたいらしい店員さんのせいで、どう頼めばいいのかよくわからない。


「なんかこう、茉希ちゃんのお勧めというか、お任せ? そういうのない?」

「別にいいけど、アタシが好きにしちゃっていいのかしら? それならうんと可愛くしちゃうわよ?」

「……見た目の年齢に合わせて、頼むよ」

「もちろん、似合わない髪型になんかしないわよ。それじゃお嬢ちゃん、こちらの席へどうぞ」

「そのお嬢ちゃんって言うのやめて。恥ずかしい」


 文句を一つ言ってから、俺は案内された席に座った。茉希ちゃんは手早く俺の首にタオルと髪除けを巻いて、ハサミや櫛を準備していく。随分と慣れた手つきだなと、おとなしく椅子に座ったまま思った。


「短くしたいのよね? どれくらい切る?」

「うーん……」


 ふと、昨日ソラが髪をどれくらい切るのか気にかけていたのを思い出した。あまり切って欲しくないってことなんだろうか。


 悩んでいると、茉希ちゃんは俺の後ろ髪を束ねて持ち上げ、ゴム紐でくくって見せた。


「これくらいなら、前くらいの長さだけど」

「うん。でもそれだと、すぐ伸びちゃわない?」

「それじゃあ、もう少し短めで……これくらい? 前髪も眉が隠れるようにこれくらいで……うん、ずいぶん明るくなるんじゃないかな」


 ゴム紐の位置を少し高くして、前髪をヘアピンで留めてもらうと、だいぶイメージが付きやすかった。前より少し短いくらいで、大きくイメージが変わるようなこともなさそうだ。


「うん、これでお願い」

「かしこまりました」

「それ、お客さんにも言うの?」

「言うよ? もうちょっとかしこまるけど」

「なんだそれ」


 二人して笑いながら、美容院での初めてのカットが始まった。


 美容師になっただけあって、茉希ちゃんの手際はプロのそれだった。茜ちゃんが運転できるのを知ったのと同じくらい、俺は驚きながら鏡越しに茉希ちゃんを見ていた。


「どう、見直した?」

「ひいき目に見てもすごいよ。茜ちゃんがお勧めするのも納得だね」

「でしょ?」

「けど、なんで美容師になろうと思ったの?」


 得意げに笑う茉希ちゃんに、俺は疑問に思ったことを聞いた。手の速さはそのままだったけど、茉希ちゃんは少し、言葉選びに迷ったみたいだった。


「高校の時かな、茜の髪を切ったことがあってね」

「茜ちゃんの髪を……?」


 それは俺がいなかったときの話。バッサリ切ったのか、はたまた整えただけなのかはわからない。けれど、親友とも呼べる茉希ちゃんがわざわざ茜ちゃんの髪を切った。


「ある意味、それがきっかけかな。誰かのために自分ができること、アタシなりに考えてみた結果なのよ。おかげでこうやって、楓の役に立ててるわけだし」


 茉希ちゃんが続けて言ったので、俺は納得を示すように「うん」とだけ答えた。いきさつはわからないけれど、今はそれを聞き出せるタイミングじゃないんだろう。俺はそう割り切って、会話の流れに逆らわない言葉を選び出す。


「お客さんやこのお店の人たち、みんなの役に立ってるだろ、茉希ちゃんなら」

「そういうとこ変わってないわね」

「急にどうしたのさ。俺、何か変なこと言った?」

「そんなことないわよ。元気もらえた」


 それからは俺の入院生活やソラのこと、茉希ちゃんの学生のころの話をした。茜ちゃんと同じく茉希ちゃんもその道の専門学校に進学して、今年からこの美容院に勤めているそうだ。新人とは思えない手際の良さや美容院での存在感は、さすが茉希ちゃんと言ったところ。


「茉希ちゃんが髪を切るときはどうするの? 自分で切っちゃうの?」

「そんなもったいないことしないわよ。だいたいの場合は同業者の練習台になるの。お店のレベルも上がるし、基本的にはタダでプロに切ってもらえるし、一石二鳥よ」

「ふうん、そうなんだ。今の茉希ちゃんの髪も、この中の誰かが?」

「そういうこと。さ、楓の髪もできるわよ」


 お喋りをしていたら、いつの間にか仕上げのドライヤーに入っていた。頭に残っている髪を払い落して、鏡を持った茉希ちゃんが俺の後ろから「どう?」と問いかける。


 一時間前と比べれば、ずいぶんと短くなった気がする。でも肩より下に垂れるほどの長さはあって、最初に打ち合わせた通りの仕上がりだ。アレンジは特になく整えてあるけど、それが綺麗に纏まった印象を持たせている。


「うん、いい感じだよ」

「オッケー。それじゃ、シャンプーに移るわね。こっち来て」


 茉希ちゃんに連れられて、シャンプー台の前の席に座らされる。散髪屋でもシャンプーを頼んだことがなかったから、少し緊張しながら仰向けになった。顔にかかったりはしないだろうとは思っていても、目を瞑ってしまうのは反射なのかもしれない。


「そんなに怖がらなくても大丈夫だって」

「う、うん、わかってるんだけどね。初めてだから」

「……なんだかアタシ、すごい悪いことしてる気になったわ」


 なにやら危ないことを口走りながら、それでも茉希ちゃんは慣れた手つきでシャンプーを泡立てていく。マッサージの効果もあるのか、想像よりも心地よいものだった。


 シャンプーを洗い流すと、タオルで水気をふき取って、再びドライヤーを当てられる。しっかり温風で乾かした後、茉希ちゃんは冷風に切り替えて櫛で髪を梳いた。


「よし、出来上がりよ。お疲れさま」


 目を開けると、鏡の前には見違えた自分が映っていた。髪を切っただけなのに、ずいぶんと印象が明るくなった気がする。頭も軽いし、前髪も目にかかったりしない。


「驚いた? けっこう変わるものよ」

「ほんとだね。茉希ちゃんの腕のおかげだよ」

「あら、うれしいこと言ってくれちゃって。満足いただけて光栄ですよ、お嬢様」


 茉希ちゃんがいたずら顔で俺の髪を軽く撫でると、髪の指通りがよくなっているのがわかった。短くなって絡まりにくくなったのと、傷んだ髪を切り落としたからだろう。


「さて、それじゃ待合席に座ってて。茜が来たらアタシも上がりだから」

「上がり? 今日はもうお仕事終わりなの?」

「そうよ。アタシも一緒に楓の家まで行くの」

「……ってことは、もしかして」


 茉希ちゃんはエプロンを外しながら、俺に向かってほほ笑んだ。


「退院祝いの話は聞いてるでしょ? アタシも行くんだから。楓の新しい家にね」


 俺はぽかんと立ち尽くしたまま、茉希ちゃんが「STAFF ROOM」のドアの奥に入っていくのを見送った。

 

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