裏切り ~茜 Side~
お姉ちゃんの最期の言葉を聞いたわたしは、心穏やかに目の前の少女の髪を撫でていた。気づくと外は薄暗くなっていて、腕の中の彼女は小さな寝息を立てている。あどけない寝顔を見ていると少し嬉しかった。
起こさないようにそっとベッドに横たえて布団をかける。わたしの視界が僅かに歪んだ。袖口で強めに目元を擦って、なかったことにする。
「……眠ってくれてて、よかった」
ここにいるのは楓ちゃん。小さくて可愛くて、わたしが守らなければいけない存在。頼れるお姉ちゃんはもうどこにもいない。だからわたしは、滲む視界をまた強引に拭う。
今度はわたしがこの子を守って見せるから。
すん、と鼻を鳴らすと同時に、病室のドアをノックする音がした。振り返って返事をすると、葵さんが入ってくる。後ろからお父さんと、古深山先生も続いてきた。
「あら、楓は寝ちゃったのね。せっかく茜ちゃんがいるのに」
「いいんです。疲れてたみたいだし。お父さんたちは、お話は終わったの?」
「ああ。待たせてすまない」
答えるときに、お父さんは初めて顔を上げた。気のせいかもしれないけど、お父さんの左頬が少し赤くなっている。葵さんは不自然に自分の右手首を反対の手で掴んでいた。そして二人は、お互いに顔を合わせようとしない。
「帰ろっか。夕飯の支度をしなくちゃ」
努めて明るい声で言うと、お父さんも素直に頷いてくれる。葵さんと古深山先生にそれぞれ挨拶を交わしてから、嫌に大人しいお父さんを伴って病室を後にした。
「葵さんと何かあったの?」
駐車場に停めていた車の助手席に乗ってから、運転席に座るお父さんに尋ねた。
「議論していたら向こうを熱くさせてしまってな」
自分の左頬を撫でながら淡々と言った。その様子だと、葵さんに打たれたのかもしれない。すぐに暴力を振るうような人ではないから、よっぽど怒らせるようなことを言ったのかな。
「何の話をしたの? 言えないことなら、無理には聞かないけど」
「……楓くんのことだが、聞きたいか? あまりいい話ではないが」
「だったら、聞かせて。おね……楓ちゃんのことは、できるだけ知っておきたいから」
呼び名の癖はすぐには抜けない。言い直すと、お父さんもそれに気づいたみたいだったけど、特に何も言ってこなかった。
「楓くんが学校に通うことに、葵が反対した」
「葵さんが?」
わたしは驚いて、お父さんのほうを向いた。学校に通うことは、今の楓ちゃんの一番の望みだ。それを葵さんが反対するなんて。
「理由は二つ。一つは楓くんの症状に完治の見込みが薄いこと」
「カウンセリングを始めてまだ一週間でしょう? 言い切るのは早すぎないかな?」
「記憶を継承した楓くんの場合は特殊だ。もし年内に改善の兆しが見られない場合、治らない可能性も考えられる」
「恐怖症が治らない……?」
普通、人の記憶は薄れていくものだ。楽しかったことは美化され、辛かったことはショックが和らぐ。でも、楓ちゃんにそれがないのだとしたら、あの辛い経験をいつまでも鮮明に思い出せることになる。本人が望む望まないにかかわらず、ふとした拍子にトラウマをもたらした憧憬が目に浮かぶかもしれないんだ。
「カウンセリングじゃどうにもならないの?」
「今のところはまだ可能性の話だ。が、このまま治らないことも覚悟しておかなければならない」
「もし治らなかったら、楓ちゃんは学校に行けないことになるのかな……」
やるせない気持ちで呟いた。今の話を聞いたら、楓ちゃんはどれくらい落ち込むだろう。それでも楓ちゃんにとって外の世界が危険なら、わたしの意見も葵さんと同じになる。
「もう一つの理由は、世間の目だ」
お父さんは思い出したように車のキーを回した。エンジン音とともに空調の送風音が車内を満たす。頬に当たる風はあまり暖かくなかった。
「楓くんの正体が知られれば平凡な生活など望むべくもない。人間のクローンが実在すると世間に公表された今、無暗に人前に出るのはやはり危険だと、葵はそう考えている」
「当然だと思うよ。だからこそ、楓ちゃんには病院を移ってもらったり、苗字も戻してもらったりしたんじゃない」
「それは我々が世間の目から隠すためにやったことだ。もちろん、それが楓くんのためになるはずだと。だが、政府はその件に関しては一切の援助をしていない」
「……楓ちゃんのことが公になっても、政府は構わないって思ってるってこと?」
学校へ通うリスクに関しては、政府は全く責任を負わないし、世間から隠すことの手助けもしないスタンスなのかもしれない。政府が楓ちゃんのために動いているわけじゃないのはわかっていたけれど。
「むしろ公表するべきだと主張する者もいるそうだ」
「なっ……そんなことしたら!」
「政府も組織だ、一枚岩ではないのさ。世間と同じで、ただ動向を確かめたいだけの者や、放っておけばいいという考えの者もいる。公表に関してもそうだ」
「だからって、そんなのあんまりだよ! 向こうは楓ちゃんのこと、どうなってもいいって思ってるんでしょ? 利用するだけ利用して、何があっても責任は取らないなんて」
「私たちが強く言えることじゃないだろう」
ぐっと言葉を飲み込む。政府と違ってわたしたちは楓ちゃんのために動いてる――――なんて言うのは嘘だ。それは他ならないわたしたちが一番理解しているつもりだ。
わたしたちはあの日、また大切な人を失った。今度はそうなってはならないと、どんな些細な危険にも目を光らせて、楓ちゃんを守ろうとしている。その上で、楓ちゃんが何不自由なく幸せになれることを望んでいる。
その本質は楓ちゃんのためであると同時に、わたしたち自身のためでもあった。
わたしたちは、わたしたちのために、今の楓ちゃんを作ったんだ。楓ちゃんを利用している点では政府と変わらない。それどころか、楓ちゃんを守るなんて大義名分を立てて、自分たちが望む形に収めようとしている。
自己満足なんだから。エゴなんだから。一番汚い、過去の清算の仕方なんだから。わたしたちは世間や政府ばかりを非難できる立場じゃない。
「わかってるよ。でも、今度は守り通さなきゃいけない」
「そうだな」
お父さんはやっとハンドルを握り、駐車場から車を動かした。家へと向かう道を走りながら、ふと気になったことを聞いた。
「お父さんはどっちの味方なの?」
「どっち、とは?」
赤信号に停車しながら、お父さんは聞き返してくる。
「楓ちゃんの通学に賛成なのか、反対なのか」
「今のところは中立だろうな」
一番都合のいい回答をされて、わたしは少しむっとする。
「リスクを考えれば、このまま通学させるのは危険すぎる。だが、楓くんの希望はできるだけ叶えてやりたいのだ。この回答でも不満か?」
「それがはっきり言えるなら、葵さんに引っぱたかれることもなかったでしょう」
大人げなく嫌味を言うと、今度はお父さんのほうが少しむっとした。「信号、青だよ」と促すと、その顔を引っ込めて再びハンドルを握る。
楓ちゃんを守っていくにはお父さんのサポートが欠かせない。けれどわたしは、お父さんに対して疑念を持っていた。お父さんは楓ちゃんをどうしたいのか、目的がほとんど見えないから。
でも、葵さんとぶつかったということは、お父さんなりの主張も少なからず持っているということなんだろうか。
「茜も葵も頑固者だな」
ぼそりと言ったものの、静寂の支配する車内に響くには十分な声量だった。わたしは敢えて何も言い返さずに、窓から流れる景色を見ていた。
夕暮れを見るとわたしの意思とは関係なく、観覧車に乗ったあの日を思い出す。何かを失う瞬間はいつだってこの時間だった。空の赤色を見るたびに、ぽっかりと空いた穴がいつまでも埋まらない気がして。
夜が来るたびに寒いと思った。朝が来るたびに夢であってほしいって思った。家で一人で過ごしながら、静寂に気が狂いそうになった。それでも正気でいられたのは、今の楓ちゃんがいたから。いつか目覚める彼女のために、わたしは北見茜でいなければならなかった。
もちろん、実際に救われているのは、わたしのほうだろうけど。
「お父さんは、どうして研究をしていたの?」
「なぜって? それが仕事だったからだ」
「それも元は大学の研究からでしょう? その分野に絞ったのはどうして?」
元々は純粋な研究のはずで、お兄ちゃんを生き返らせることがなければ、本当に人のクローンを生み出すことをしなくてもよかったのかもしれない。仕事だったならばなおさら、社会的に騒ぎになるような禁忌を犯すこともしないはずだ。
「これは持論だが、人が生きることとはそれ自身のエゴを貫くことだと思っている」
「エゴを貫く?」
「そうだ。それが今の私の研究の礎だ。人間の誰もがエゴを通すのなら、私にもその権利がある。だから、私は私の望みを叶える為に、元々は興味のみで始めた研究を昇華させることにした」
「お父さんの望みって?」
「私にもいたんだよ。どうしても生き返らせたかった人が」
あまりに自然な口調でそれを言われて、驚くのが一拍遅れた。いつの間にか車は家に着いていて、車庫に入れながら話を続ける。車のエンジンを止めても、お父さんは車から降りようとはしなかった。
「お父さんが生き返らせたかった人……?」
「今回、元々は楓くんではなく、その人を生き返らせるつもりだったんだよ。それを聞いたから、葵は怒ったんだがね」
「どういうこと? 最後はおに……楓ちゃんを選んでくれたじゃない。どうして葵さんが怒るの? 楓ちゃんを見捨てようとしたから?」
「私は見捨てることよりも酷い、最低なことをしたと思っているよ」
「わかるように話をしてよ。最低なことって何? 楓ちゃんに何をしたの?」
「……」
「お父さん!」
一体何なんだろう。何を言おうとしているんだろう。数分前のわたし自身の言葉を取り消したい。お父さんから話を聞くのが怖い。疑ったのは事実だけど、本当に裏切られるかもしれない恐怖に、今更向かい合っていることに気付いてしまった。
それでも聞かなきゃいけなかった。お父さんが楓ちゃんにしたこと。わたしたちへの裏切りの行為。
「私は楓くんを人柱にしたんだよ」
その意味を汲み取ったわたしは、背筋が凍っていくような感覚に歯を鳴らした。
「お姉ちゃんを……楓ちゃんを、実験台にしたってこと?」
「六年前の楓くんは、その定義で間違いない。今の楓くんは、それをもとに私が判断した結果、代替物として作り出すに至った命だ。メリットの大きいほうを選んだに過ぎない」
命を「物」だと言い切ったお父さんの言葉に、頭をトンカチで殴られたような衝撃を覚えた。死んだ人が生き返ることを願う人が、こんなにも粗末に命を呼び捨てるなんて。それもお父さんが既知の命を。
「代わりって、どういうこと? 本当に生き返らせたかったのは誰? 代わりに……」
ショックに目が回る。歯の根が合わずに、危うく舌を噛みそうになる。それでもはっきりと、お父さんから聞き出さなくてはいけなかった。
「代わりに楓ちゃんを作ったのは、どうして」
「――――――――」
無表情で説明しきったその人の頬を、わたしは最後に思いっきり引っぱたいて車を降りた。玄関を閉め、自分の部屋に戻ると部屋を閉め切り、ドアに背を預けてずるずると座り込んだ。
暗くて冷えた部屋に肩を震わせる。お父さんは誰も救ってくれなかった。当人ですらも。その理不尽さのあまりに、思わずお父さんに当たってしまった。きっと葵さんもそうだったのかもしれない。
本当はお父さんを責める資格なんて、わたしにあるはずがないのに。
その日以降、お父さんは家に帰ってこなくなった。