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メイプルロード  作者: いてれーたん
夢のあと
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二度目の別れ

 

 退院までの一週間は、変化のない病院の中で過ごした。寝不足は相変わらずだったので、診察がなければ昼まで眠り、起きてからは勉強やリハビリに努めた。夕方にはソラが来て、おしゃべりしたり勉強したりした。夕飯のころに母さんが顔を出して、布団に入る頃に二人は帰っていく。そんな日々が続いた。


「触るぞ、楓」

「うん……いいよ」


 深呼吸して、正面のソラと見つめ合う。お互いにゆっくりと手を前に出して、指先から徐々に手のひらまでを触れさせた。


「大丈夫か?」

「っ、へいきっ……」


 触れたところからびりびりと緊張が伝わって、次第に心臓の脈が速くなっていく。呼吸も速く浅くなり、一瞬だけ平衡感覚がぐらついた。気を失う一歩手前の、極限の状態だ。


「そこまで」


 近くにいた古深山先生が俺とソラの手を掴んで離した。ただ手を触れ合わせただけなのに、俺の身体は強い拒絶反応を起こしている。古深山先生のカウンセリングを受けて一週間、何度かソラと手を触れ合わせる訓練をした結果が、今の状況だった。


「おっと。お姉ちゃん、大丈夫?」

「うん、なんとか……」


 腰掛けたベッドからずり落ちそうになったのを、茜ちゃんが肩を掴んで防いでくれた。何度か深呼吸をして、ようやく落ち着きを取り戻していく。


「樹、時間は?」

「約一分だ」


 傍で見ていた母さんが聞き、おじさんが短く答えた。多くは語らないけれど、どちらも落胆と諦観の色が滲んでいる。症状の改善の兆しがほとんど出ていないのだから、無理もない。


「今日はここまでにしようかね。明日は退院だろう?」


 古深山先生が話題を切り替えるように言った。入院中のカウンセリングは今回が最後で、みんなにその成果を見てもらうために、病室に集まってもらっていた。けれど、結果はこの通りだ。


「次は来週、それ以降は一週間おきに通院してもらうよ。都合がよければソラも一緒に来て、今日みたいに慣れの訓練をしておくれ」

「もちろん、オレは協力するぜ」


 力強く頷いたソラとは対照的に、俺はほとんど俯いたまま、小さく頷くことしかできなかった。それを見た古深山先生が優しく肩に手を置く。


「焦る必要はないさね。トラウマも恐怖症も大きな改善はできんかったが、お前さんはちゃんと前進しているよ。ゆっくり治していこう」

「……はい」


 古深山先生の励ましに今度こそ、声に出して答えた。当人の俺が自信を無くしてしまったら、碌にソラに触れられないままだ。学校に行きたいなら、何としても克服しなければ。


「さて、それじゃあ私は失礼するよ。北見と小坂、二人には話がある。ああ、お前さんたちは楓についてやっておくれ」


 最後の言葉はソラと茜ちゃんに向けた言葉だった。そのまま古深山先生はおじさんと母さんを連れて病室を出ていく。


「話って何だろう?」

「さあ。あのおばあさん、お父さんと葵さんの先生でもあるんでしょ? 最近はみんな忙しかったし、教師と教え子で積もる話もあるんじゃないかな?」

「ふうん」


 実際のところわからないので、茜ちゃんも想像で答えたって感じだ。それよりもさっきので体力を消耗したらしく、座っているのもだんだんと億劫になってきた。横になるためにベッドの端から中央に移動しようとして、びん!と頭が引っ張られる。


「いたっ!」

「あ、ごめん。お姉ちゃんの髪の毛、抑えちゃってたみたい」


 ベッドの淵で俺と同じように腰掛けていた茜ちゃんの手が、髪を踏んづけていたらしい。抜けることはなかったけれど、痛いものは痛い。


「うう……やっぱり長すぎるんだよね。退院したら切っちゃだめかな?」

「それだったら、お勧めの美容師さん知ってるよ」


 様子を窺って許可を得るつもりだったけど、茜ちゃんは髪を切ることに肯定的だった。想像していた展開とちょっと違うけれど、何にしてもこれで心置きなく髪を短くできる。


「お勧めの美容師さん? 茜ちゃんもその人にやってもらってるの?」

「そうだよ。お姉ちゃんも絶対に気に入ると思う」

「じゃあ、退院したら紹介してもらおうかな」


 そう言うと、茜ちゃんは久しぶりに明るい笑顔で頷いてくれた。その横で、ソラはなんだか浮かない顔をしてこちらを見ている。


「どした、ソラ?」

「いや……どれくらい切るのか気になって」

「なんだかソラくんは残念そうだね?」

「別にそういうわけじゃないけどさ」


 素っ気ないように答えて、ソラは椅子から立ち上がる。


「今日は帰るよ。またな」

「あ、うん。またね、ソラ」


 俺に軽く笑って見せて、ソラは病室を後にする。静かになった部屋でソラの足音が遠ざかると、茜ちゃんが急に身を乗り出して聞いてきた。


「ねえ、お姉ちゃん。ソラくんのことどう思ってるの?」

「ふえ? どうって?」

「お姉ちゃんとよく二人でいるじゃない。それって男性恐怖症を治すためだけじゃないでしょ?」

「それはそうだよ。学校の話をしてもらったり、一緒に勉強したり……あっそうだ、退院祝いの話もソラから聞いたよ」

「そっか。ソラくんといることが負担になってることはないんだね」

「……心配してくれてるの?」


 俺が問いかけると、茜ちゃんは頷く。本人は責任を感じてるから絶対に目の前では言わないけど、トラウマも男性恐怖症も、ソラが引き金になっている。そんな彼と俺がよく一緒にいれば、茜ちゃんが心配するのも当然だ。仕事でなかなか俺に会えないなら、なおさら。


「無理はしてないよ。触れることだけは、さっき見てもらった通り難しいけど。それ以外は大丈夫」


 触れないようにお互い注意してるし、何より俺がソラと一緒にいたいとすら思っている。古深山先生にも指摘されたような、ストレスのや悩みの種にはなり得ない。


「ソラがいてくれるの、すごく嬉しいんだ。いつも笑って面白い話をしてくれるから、俺もうじうじ悩んだりしなくて済むし、やっぱり学校行きたいって思っていろいろ頑張れるし」

「よかった。ずっとお姉ちゃん、無理してるんじゃないかって心配してたの。わたしもあまり会えなかったから気になってて」


 そう言う茜ちゃんは、俺の言葉を聞いたはずなのに、表情に影を落としていた。他に心配事があったのか、あまり会いに来れなかったことを悪いと思っているのか。どちらも、という可能性もあるけれど。


「お姉ちゃんは悩んでても昔から一人で抱え込むことが多いから。何かあったらちゃんと相談してね? 今はわたしのほうが年上なんだし」

「あはは……だったら、茜ちゃんからは名前で呼んでくれないと。俺がお姉ちゃんじゃおかしいでしょ?」

「そうだね、お姉ちゃ……」


 言いかけて、半開きの口が止まる。躊躇いを隠すように目線を彷徨わせてから、茜ちゃんは俺を呼び改めた。


「……楓ちゃん」

「身内からちゃんづけはちょっと恥ずかしいな。まあでも、いいよ」

「楓ちゃん」

「うん」

「楓ちゃん」

「……どうかしたの?」


 問いかけには答えずに、茜ちゃんは俺の身体を抱きしめてきた。唐突な行動もそうだけど、すり合わせた頬が濡れていることに気づいて、さらにびっくりする。


「茜ちゃん? もしかして俺、何か茜ちゃんを傷つけるようなこと……?」

「大丈夫。でも、こうさせて。お願い」


 ここで俺が拒否したら、茜ちゃんはとても傷つくんだろう。そんな予感さえできそうな、縋るような口調だった。すでに抱きしめられていた俺は、小さく頷いて応えた。


 二人の間に無音の時が流れていく。茜ちゃんが何を想いながらこうしているのかはわからないけど、きっと必要なことなんだろう。抱きしめ返すか少し迷ってから、そろそろと茜ちゃんの背中に腕を回し、手を添えるように抱擁した。そのままさらに静かな時間が過ぎた。


「……うん、もう大丈夫」


 とん、と軽く俺の背中を叩いて、あっさりと身体を離される。


「大丈夫って、何が?」


 俺が尋ねても、茜ちゃんは「だめ、内緒」と微笑みながら自分の目元を拭った。


「それよりも、もうそろそろお父さんたちが帰ってくるかもしれないでしょ? 女同士でも抱き合ってたら、変な誤解されるんじゃないかな?」


 悪戯っぽく微笑みながら言われて、恥ずかしさに思わず俯いた。そんな俺の頬を人差し指でつんつんしながら、茜ちゃんは「かわいい♪」となぜか上機嫌になっている。


「もう、からかわないでよ」

「ごめんごめん。ちょっとしんみりさせちゃったから、和ませようと思って。あ、でも楓ちゃんがかわいいのは本当だよ?」

「外見はほとんど変わらないでしょ? 小さいころの自分を抱きしめるようなもんじゃない?」

「わかってないなぁ」


 笑いながら、茜ちゃんは再び俺を抱きしめた。さっきみたいに壊れ物でも扱う感じじゃなくて、俺をからかってじゃれるような感じだ。


「楓ちゃんは楓ちゃんで、わたしとは違うの。だから、こうできるのは自然なことだよ」


 ふうん、と相槌を打った後、同じようなことをソラに言われたのを思い出した。ソラはきっと何も考えずに本音を言ったんだろうけど、茜ちゃんはどうなんだろう。結局のところはぐらかされてしまって、涙の理由も聞けずじまいだ。


「それで、お父さんたちが帰ってくるまで抵抗しないつもり? まあ、抵抗されてもぎゅっとしちゃうけど」

「なんか茜ちゃん、母さんと同じこと言うようになってない?」

「楓ちゃんを愛でてると幸せになれるからね。で、楓ちゃんにも幸せをお返ししてるつもり。こうやってね」


 抱きしめるだけでは飽き足らず、俺の頭を撫で始める。まるで子ども扱いだけど、不思議と悪い気はしない。間違っても口には出さないけど。


「母さんに見られる前に離してよ?」

「ふふっ、やっぱり恥ずかしいんだ? 大丈夫だよ、足音がするからわかるし」

「ん……それ、信じるからね?」


 一方的に愛でられるのはなんだか負けた気がして、俺は茜ちゃんに向き直ると、力いっぱい抱き着いた。


「わあっ、楓ちゃん積極的」

「今日だけ……今だけだからっ」

「うんうん、わかってる」


 なおも余裕の態度は崩さずに、茜ちゃんは俺の頭を優しく撫でている。それが少し悔しくて、胸に顔を埋めてふくれっ面を隠していると、不意にぽつりと「ありがとう」の言葉が耳に落ちてきた。


 お礼を言われる覚えはない。茜ちゃんもただの独り言、行き場のない呟きだったのかもしれない。


「こちらこそ、ありがとう」


 茜ちゃんに聞こえるかどうかの声量で、反射的にそう口にしていた。ややあって、俺を抱きしめる力が少し強くなったのは、その言葉が届いたからなのかもしれない。それがよかったのか悪かったのかは、今はまだわからないけれど。

 

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