退院準備
退院の予定は想像よりも早まり、一週間後の週末に決まった。それまでリハビリと精神科の受診が並行して予定に組み込まれている。
北見おじさんの紹介で俺を診てくれるのは、おじさんや俺の両親とも面識のある医大の教授さんらしかった。おじさんを超える固そうな人なのかと身構えていたものの、予想に反して穏やかそうなおばあさん先生だった。
「ふむ、眠れない、と来たか」
しわくちゃの額にさらに皺を寄せながら、おばあさん――――古深山先生は心配そうに俺の眼窩の診察をする。隈はまだ消えておらず、それをなぞるように頬を優しく撫でた。これまで触れたことのある誰の手とも違う、しわしわの温かい手に触れられるとなぜか安心できる。
「理由に心当たりはあるかい?」
「寝付きの悪さはわかりませんが……寝付いてからは、夢見が悪くて起きることが多いです」
「ふむ、なるほど。聞いているトラウマとも関係があるかもしれないね」
古深山先生は静かに言って、難しそうに唸った。この人も俺のややこしい事情を把握している数少ない一人だ。その中でも精神面の解決策を出せる人は他にいない。この人がお手上げというなら解決はほぼ不可能とも言える。
「まずはサプリメントを使ってみようか。安易に睡眠薬を服用するよりはマシさね」
「サプリメントですか?」
「うむ。不眠に直接の作用があるわけではないが、健康的な眠りをサポートしてくれるものさ。栄養剤とでも言えばわかりやすいか。しばらくこれで様子見といこう」
睡眠薬を飲むのに抵抗があったので、この提案には少し安心した。
「根本にある男性恐怖症のほうだが、いつも男の子が見舞いに来ていたね。その子といるときは何ともないのかい?」
「一緒にいるだけなら問題ないです。少しなら触れるのも大丈夫ですし」
「ほう? 特定の人物なら症状が弱まるということかい?」
「ある程度は慣れることができるんだと思います。ただまったく問題がなくなるわけじゃないので、相手がソラでも不意に触られたりしたら、きっとまた……」
「わかった。今日はそれだけ聞ければ十分さね」
古深山先生は椅子を回して机の上にあったバインダーを取り、俺に手渡した。受け取ると、「問診票」と書かれた紙が一枚挟んである。
「明日の診察までに欄を埋めてきてくれるかい? それと、一日で効果が出るとは思わんが、サプリメントの使用感も知らせておくれ」
「はい」
「後は、何か聞いておきたいことはあるかい?」
少し迷った後、俺はおもむろに尋ねた。
「ソラに……いつもお見舞いに来てくれる子に、自主的に慣れようとするのは大丈夫なんでしょうか?」
「自分でできる範囲で克服したいってことかね?」
「はい」
「ふうむ、難しい質問さね」
古深山先生が再び俺に向き直る。
「本来、トラウマや恐怖症っていうのは、自信がつくほどに症状が軽くなっていくものだ。普通の患者さんだったら、積極的に触れ合うべきだと言ってただろうけどね。お前さんの場合は頻繁にその子といるはずなのに、どうもその兆候がないように見える。また、その子と触れ合うストレスが悪夢に変換されている可能性もある」
「ソラに触れることが眠れない原因……?」
「あくまで可能性の話さね。まあ、もしそうだったとしても今より状態は悪くならんだろう。お前さんの好きにするといいさ。もちろん、何かあったらいつでも相談に来なさい」
「わかりました。ありがとうございます」
お礼を言うと、古深山先生は満足そうに微笑んだ。俺はもう一度先生に頭を下げると、診察室を後にした。
「お、珍しく勉強か?」
夕方になって訪ねてきたソラが珍しそうに机の上を見て言った。放課後すぐに来たのか、彼は制服姿で学生鞄を肩にかけている。腕まくりしたりネクタイを緩めたりでちょっと着崩しているけど、不思議とだらしない印象はなかった。
「受験になるかもしれないし、準備しておくに越したことはないからね」
「そうだな。けど、ベッドから起きてるとこなんて久々に見たぜ」
「リハビリは順調だからね。ずっとベッドの上は身体が鈍るよ。教科書も広げにくいし」
本格的なリハビリが始まって、かなり身体も思い通りに動かせるようになった。退院の日も決まったし、やっておくべきことは意外と多い。
「そういえば、母さんから聞いたよ。ソラ、引っ越しの準備手伝ってくれるんだってね」
「葵さんにめいれ……お願いされたからな。実際に男手は足りなかったし、断る理由もなかったから」
「助かるよ。荷物は多くないと思うけど、母さんや茜ちゃんだけだと不安だったんだ。ソラが手伝ってくれるなら安心できる」
引っ越し先はアパートだと聞いている。ベッドや冷蔵庫のような大きいものは引っ越し業者に任せるって言っていたけど、それ以外はできるだけ節約するために自力で運ぶらしい。ソラが手伝ってくれるなら母さんたちも助かるだろう。
「けど、ソラのほうは大丈夫なの?」
「何がだ?」
「あんまりこっちのことに構いすぎて、学校とか家のことが疎かになってたりしない? ほら、放課後に用事とかあったら忙しいんじゃないのかなって」
「いつもなら部活だけど、今はこっちを優先させてくれって言ってあるんだ。知り合いのお見舞いって言ったらすぐに了承してくれたぜ。それにまだ一年だし、レギュラーじゃないからな」
「レギュラー? そういえばサッカー部だったっけ。練習は大丈夫なの?」
「大会も二ヶ月先だし、出られるわけじゃないからな。それに今は中間テスト期間中で部活自体が休みなんだ。放課後はむしろ暇なくらいだぜ」
「いや、そこは暇してちゃダメでしょ。勉強しようよ」
「もちろんするつもりだぜ。ここでな」
言うが早いか、床に置いた鞄からノートや教科書を取り出して準備を始めるソラ。あまり机が大きくないので、すぐにいっぱいいっぱいになる。
「なんでわざわざここでするのさ。帰ってからすればいいのに」
「一人だと捗らないんだよ。楓の勉強も気になるし」
「他人の心配してる場合かなあ」
「これでも成績はいいほうなんだぜ。わかんないところあったら遠慮なく聞けよ?」
「はいはい」
笑って返事をしながら、ふと考える。ソラがここで勉強を始めてくれたのは、また俺のためなんじゃないかと。面と向かって「一人じゃ寂しいだろうと思って」とか言われたら頷かないけど、ソラの気づかいのうちなのかもしれない。こんなふうに傍にいてくれるソラを正直ありがたいと思う。その反面、言葉にした通りソラ自身のことが疎かになっていないか気になってた。同時に、どうして俺のためにそこまで気を使ってくれているのかということも。
「そういえばさ」
「うん?」
シャーペンを持ってから教科書も見ずに、ソラはさっそくお喋りを始める。
「退院、来週なんだろ? 茜さんたちが退院祝いしようっていろいろ計画してるぜ」
「そうなんだ? ってそれ、俺に言っていいの?」
茜ちゃんなら秘密で準備してサプライズするつもりだったんじゃないかと思ったけど、ソラは「いやいや」と手を振った。
「むしろ言っといてくれって頼まれたんだよ。いきなり押しかけても迷惑だと思ったんじゃないか? 新しい家に引っ越してからになるだろうし」
「なるほど。母さんなら良いって言ってくれるだろうし、俺も別に構わないよ」
茜ちゃんがソラに伝言を頼むなんて意外だった。考えてみれば、茜ちゃんがここに来ない限り俺と話すことはできない。今は俺が携帯電話も持っていないから、連絡手段は自然と限られたんだろう。逆に言えば、茜ちゃんはこっちに来る暇もないくらい仕事が忙しいのかもしれない。そんな中で時間を見つけてまで退院祝いを考えてくれている。
「茜さんたちもそうだけど、オレも個人的にお祝いを用意しておくからさ」
「ほんと? ソラも何かしてくれるの?」
「まあな。今教えたら面白くないから言わないけど」
「えー、教えてよ」
「退院までのお楽しみだ。期待してていいぞ」
「気になるなあ」
ソラが教えてくれないので、俺はわざとらしく頬を膨らませて見せる。ソラは呆れたように「ハムスターかよ」と笑ってから、今度こそ勉強に取り掛かり始めた。俺も無暗に深追いはせずに、勉強を再開する。
それにしても、退院祝いの話が持ち上がっているなんて考えてもいなかった。ソラや茜ちゃん、母さんも忙しいはずなのに、俺のことを気にかけてくれているんだと思う。
みんなの思いやりを実感するたびに、これで本当にいいんだろうか? と自分の心が問いかけてくる。後ろめたい気持ちはあるのに、現状をそのまま受け入れてしまっているのだ。膨らむ罪悪感に耐えきれず、俺は口を開いた。
「ソラ」
「ん、わかんないとこでもあったか?」
「違うよ。勉強のことじゃないんだけどさ」
「なんだ?」
ソラもペンを握った手を止めて見つめてくる。嘘とかやましいこととか、一切考えてないって顔だ。たぶんそれは真実だし、俺がソラのことを理解できない理由でもある。
「ソラはさ、なんで俺に構ってくれるのかなって」
「なんで、って?」
「いくら母さんと付き合いがあったって、今の俺に関わることに何の得もないでしょ?」
なんだかうまく言葉に纏まらない。ソラも伝わっていないのか、不思議そうな顔をこっちに向けていたけれど、ふと気まずそうに頭を掻いて机を見下ろした。
「楓にとって、その……オレがいるのは迷惑だったか?」
「そうじゃないよ。誤解しないでほしいんだけど、迷惑とか思ったことは一度もない。いつもソラが来てくれて、本当は嬉しいんだ。だけど、だからこそ、ソラにとって負担になってないか不安で……」
「どういうことだよ? なんでオレが楓のことを負担に思わなきゃいけないんだ?」
「えと、その……」
きょとんとして首を傾げるソラに、次に言うべき言葉が抜け落ちた。ただソラの本心を知りたかっただけなんだけど、もうどんな質問をしたらいいのか、わからなくなってしまった。
「ごめん、変なこと聞いた。忘れて」
俺はそれ以上の言葉を持たずに、再びノートに向かい始める。うまくソラに気持ちが伝わらないのがもどかしいが、焦ってすれ違いを起こしたくない。
「何を言おうとしたのか知らないけど、オレと楓はもう無関係じゃないだろ?」
「え?」
ノートから顔を上げると、まっすぐに俺を見ながらソラが続けた。
「今更、小学校の時とかどうでもいいじゃんか。少なくとも今、オレは楓と友達だと思ってる。だからこうして見舞いにも来るし、退屈そうならいつだって話し相手になるんだ。オレもそれが楽しいし、やりたくてやってる。これでも楓との時間を楽しんでるつもりだぜ?」
「……俺といるのが楽しい?」
「ああ。楓も楽しいだろ?」
俺はやっぱり、ソラや母さん、茜ちゃん、迷惑をかける周りの人すべてに、後ろめたい気持ちがあった。それを中心に考えていたから、ソラの気持ちさえ直接聞くまでわからなかったんだ。
母さんや茜ちゃんは、間違いなく俺に『北見楓』の面影を見ている。死んだ記憶ごと継承したクローンなら、他人から見れば本人と大差ないだろう。でもソラはそれに拘らずに、今の俺に価値があると言ってくれたのだ。
「やっぱりソラって、妙なところに自信があるよね」
反射的に口にしたのは照れ隠しの皮肉だった。取り繕ってもしょうがないのに、俺は素直な気持ちすら言えないらしい。自己嫌悪する俺の正面で、ソラは「はははっ」と明るい声を上げて笑っていた。
「まあ、そんなに難しく考えるなって。変に遠慮とかされるとやりづらいしな」
「わかった。じゃあ今まで通り、ソラがやりたいようにしていいよ」
「おう」
眩しいくらいの笑顔で答えたソラに、いつかちゃんと感謝を伝えることを決意する。当然、母さんや茜ちゃん、俺のことを想ってくれる人たちみんなに。俺は『北見楓』の代替品でしかないけれど、それくらいは俺の意志で果たすべきだ。
いや、本当はコピーだとか記憶だとか、結局は俺自身の問題であるだけで、他の人には関係ないんだ。親切にしてもらったらお礼を言わなきゃいけないのは、人として当然のこと。みんなのためにも、自分自身のためにも、感謝を伝えないといけない。
退院祝い、その日に俺にも何か、みんなにできることがあるんじゃないだろうか。すぐには思いつかないし、時間もあまりないけど、考えておこう。そうやって楽しみを思い浮かべると、自然と気持ちが前を向いた。