楔
今回の病室は、一言で言ってしまえばホテルだ。壁紙や照明もおしゃれだし、夕食も好きなものを食べることが出来た。何より部屋ごとにトイレとユニットバスがついていて、自分が病院の中にいるということを忘れてしまいそうだ。
「ふう……」
湯船に肩まで浸かりながら、深々と息を吐く。身体の芯から温まるのは久しぶりで、思わず顔も緩くふやけてしまっている。
お風呂はいい、とても癒される。今日は病室の引っ越しもしたし、疲れているから身に沁みるみたいだ。そうやってお風呂を満喫していれば、余計なことも考えずに済む。
「かえでー、起きてる? そろそろ四十分経つわよ?」
「うん、もう上がるよー」
浴室の外から聞こえた母さんの声に答える。直前まで寝ていたので、お風呂でも寝てしまうんじゃないかと心配したのだ。身体もずいぶん慣れて一人で歩けるようにもなったけど、まだまだ不自由なところもある。大げさかもしれないと思うけど、溺れたり万が一の危険も母さんは無視しなかった。こうやって何度も声かけして、無事なことを確認しているのだ。
浴槽の底から立ち上がり、タオルで身体を拭いていく。この小さな身体にはバスタオルは大きすぎて、頭からつま先までくまなく拭いても余るくらいだった。けれどそれを除いても、以前より長い髪は一人じゃ乾かせない。パジャマが濡れないように注意しながら袖を通して、ようやく浴室から出た。
髪を濡らしたまま出てきたのを見た母さんは、すぐにベッドに腰掛けるように促した。俺が座った後ろに自分も座って、タオルを手に髪を拭き始める。
「やっぱり長すぎると大変ね」
「うん、洗うのも一苦労だよ。手入れなんて考えただけでも気が遠くなりそう」
一回で使うリンスやトリートメントの量も半端じゃない。そしてどう注意しても毛先は荒れてしまう。
「せっかく綺麗だけど、ある程度は切らないと仕方ないわね」
「うーん」
「あら、何だか釈然としない反応ね? 楓ももったいないって思うの?」
「そういうわけじゃないんだけど」
前に髪を切りたいって言ったとき、茜ちゃんが反対していたのを思い出したのだ。今となっては本人も忘れているかもしれないけど、俺にとってはつい数か月前の出来事で、印象にも残っていることだから。
ただ、このままだとさすがに長すぎて不便なのは確かだ。平安時代の女性みたいになるつもりはないし、前と同じ程度に残すなら茜ちゃんも反対しないと思う。もちろん切る前にも伝えるつもりだ。
「……どうかした?」
部屋に訪れた沈黙に、思わず母さんに声をかけた。いつもの母さんなら黙り込むことなく、ひっきりなしに話題を振ってきていたから、少し不思議に思ったのだ。
俺の後ろで僅かに身体を硬直させる気配がした。それが弛緩したと思ったとき、おもむろに母さんが口を開く。
「ちょっと真面目な話をしてもいい?」
母さんは俺が心身ともに疲れているのを見抜いている。だから気遣って、話をするかどうか迷っていたんだろう。それに気づいてしまった俺は、今更断れずに母さんの問いかけに「うん」と頷く。
「退院はリハビリが終わったら、ってことになっていたけれど、今の感じだとかなり早まると思うのよ」
「そうなんだ。歩く練習してた甲斐があったよ」
「ええ、それ自体はいいことなんだけどね。楓の退院後はどうしようかって、少し樹と揉めたのよ」
「おじさんと?」
その話は初めて聞いた。けれど、考えてみたら当たり前かもしれない。これは自分がクローンであることを周りに悟られないようにするためにも、重要な話になる。
「どっちの家で預かるか、ってこと?」
「それは当然、あたしと一緒に住んでもらうわよ。そのために帰って来たんだから」
「じゃあ何を話し合ったの?」
「どこに住むか、よ」
髪を拭いていたタオルが離れる。話をしているうちも母さんが手を止めなかったおかげで、すっかり髪から水気がとれていた。
「報道こそされてないけど、樹はクローンの研究者としてある程度知られちゃったわ。北見家に戻ったら、すぐにあんたのことがわかっちゃう」
「そっか。じゃあ小坂家のほう?」
「うちもダメよ。お隣さんなんて近すぎて、やっぱりすぐにわかると思うの。しばらく誰も住んでなかったから、そっちでも怪しまれちゃうわね」
「ええ……」
住んだことのある家がどちらも割れているらしく、俺が住み始めればどちらでも疑われる可能性があるということだ。
「じゃあ、どうするの?」
「……あの家を手放すことにしたわ。父さんとも話はついてる。少し離れた場所の部屋を借りて暮らすのよ」
なるほど、と納得すると同時に、あの家で過ごした日の記憶が蘇る。実際に住んだことはないのに、とても大切な場所として思い出になっているから、離れるのはやっぱり寂しいと思ってしまうのだ。
けれど、母さんと父さんにとってはもっと大切な場所のはずだ。その家を失う決断までして、今の俺を守ろうとしてくれている。
「本当にいいの?」
「我が娘より大事なものなどない、ってパパが言ってたわよ」
おどけたような口ぶりだったけれど、俺はくすりとも笑えない。実の子供ではないコピーの俺に、そこまで愛される資格があるとは思えない。けれど、おじさんに口止めをされているし、それを知った母さんがどう思うのか俺には想像もつかない。どうしようもなくて、だんまりしかできない。
「そんなに重く捉えないで。今はあんたが生きて、幸せになってくれたらいい。子供の幸せは親の幸せにもなるのよ。親孝行するんだったら、まずはうんと幸せになってもらわなくちゃ」
「……うん、期待してるよ」
なんとか笑って、母さんに体重ごと背を預ける。驚くそぶりも見せずに、母さんは後ろから俺を抱きとめた。
「疲れた?」
「うん。少し早いけど、もう眠たい」
ソラが来る前に十分くらいの仮眠を取ったし、風呂上がりでさっぱりしているはずだけど、眠気はむくむくと鎌首をもたげ始める。お風呂の前に夕飯も取ったから、満腹感も睡魔を誘発しているんだろう。
「あたしももう帰るけど、寝るまで一緒にいてあげようか?」
「えー、なんか改めて言われると恥ずかしいよ」
「あらあら、夕方は手まで握って可愛かったのに。ソラくんもまじまじ見てたわよ」
「やっぱり見られてたんだ……。そこは本気で起こして欲しかった」
責める気は全くないけど、少し頬を膨らませて怒った顔をしてみる。母さんは「ごめんごめん」と謝りながらも、微笑んで俺の髪を撫でた。
「寝るなら洗面台のドライヤーで髪を乾かしてきなさい。明日の朝すごいことになるわよ」
「わかったよ。やっぱり早いとこ、ちょうどいい長さに切らないとね」
半ば口のようになりながら、俺は身を起こして洗面台に向かったのだった。
薄くぼやけた視界に白い天井が見える。ホテルみたいな一室でも、ここだけは普通の病院と似てるなと思った。いつの間にか眠りに落ちて朝を迎えたらしい。
意識がはっきりしなくて、身体もなんだかふわふわする。久々に眠れたみたいだから疲れが取れたんだろうか? そんなことを考えながら、顔を洗おうと洗面所へ向かう。
一歩一歩踏みしめるたびに、妙な違和感が込み上げる。歩みで揺れる視界と、身体の感覚が一致しない。それなのに一切ふらつくことなく、洗面台の前に到着する。疑問に思いながら目線を上げて、鏡に映った顔に驚いた。
数日前に見た幼い顔。今は醜くできた大きな隈とぼさぼさの髪が、ここしばらくの不摂生を物語っている。途端にモノクロ写真のように景色が色褪せて、鏡の向こう側の自分が揺らぐ。水面に滴が落ちたような円形の波が収まると、現れたのは見覚えのある――――今の自分ともよく似た顔。
その顔は俺よりも酷い表情をしていた。目元には隈どころか窪みが出来ていて、唇もカサカサに荒れ、不自然に伸びた前髪が顔に影を落としていた。視界の端に映った服もぼろぼろで、覗いた肌も日差しをずいぶん浴びていないかのように青白い。
まるで死人――――いや、紛れもなくその通りだ。
悲鳴を上げようとしたが、喉が動かない。後ずさろうとした足も、逸らそうとした目線も、何一つ言うことをきかない。鏡の向こうの自分は、ゆっくりと洗面台に身体を乗り出して近づき、手を伸ばしてきた。それは鏡を突き抜けてくるかに思えたけれど、予想を裏切って鏡そのものに阻まれる。
鏡の向こうの自分は物悲し気な顔をして、通り抜けられない手を見つめる。それから再び俺に視線を向けて、僅かに口を動かした。恐らく彼女が発しただろう声は目の前からではなく、頭の中に直接響いた。
どうして俺は死んでしまったの?
どうして俺の代わりが君なの?
どうして幸せになれるのは君だけなの?
俺はその間も一歩も動けず、目の前の自分が静かに問いかけてくるのをただ聞いていた。答えることも、聞き返すこともできなかった。例え俺に関係のない、彼女の一方的な怨念なのだとしても、自責の念を覚えるほどに痛々しい。
記憶の中にあるかつての自分の姿と比べて、あまりにも悲壮な彼女に胸が痛む。やがて彼女は声も上げずに涙を流し始めて、行き場のない悲しみが俺の身体を駆け巡る。次の瞬間、今まで立っていた床が音もなく崩れ、俺は突如開いた奈落の底へと飲み込まれていった。
「―――――――っ!」
絶えず回り続ける視界と落下の浮遊感に襲われて、がばっと上半身を起こした。
「夢か……」
激しい動機と呼吸を落ち着かせながら、明かりの消えた部屋を見渡す。見慣れない部屋なのも当然、引っ越してきたばかりの病室だからだ。時間を見るとまだ午前三時を差している。
改めてベッドに横になっても眠れない。こんなふうに目覚めたり、朝まで寝付けないのは初めてじゃないけど、どんどん身体の調子が悪くなってきているのはわかる。寝不足で怠いし休みたいのに、身体はどうしてか夜の睡眠だけは拒む。やっと寝付けたと思っても、夢見の悪さに目を覚ましてしまうのだ。そんな夜を続けて、もう四日目になっていた。
母さんがくれた熊のぬいぐるみを汗ばんだ手で握りしめる。ぎゅっと身を寄せて抱き着いてみても、身体の震えと心臓の音は収まらない。夢で見た彼女の顔が思い浮かんで、すぐに目を開けてしまう。彼女が俺に問いかけた「どうして」の声が、ずっと耳に残って消えない。
もし俺にこれまでの記憶がなかったら、こんなに悩むこともなかったかもしれない。ただのクローンとして生まれるだけでも、十分に意味のある命だと思う。それに加えて今の俺にのしかかっているのは、この命とは切り離された故人の記憶だ。そのために俺は記憶に従って自我を持ち、周りに期待されるようにその故人の影を模倣せざるを得ない。
無論、問題はそこじゃない。生きる目的が与えられるのは悪いことじゃないし、この胸が痛む本質はそこにない。ただ、本来なら俺じゃなくてこの記憶を持っていた誰かが受けるはずだった、周りから与えられる期待や優しさ、愛情が重い。それらが記憶の持ち主に向けられていることがわかって、今の俺というものが見えてこない。記憶の持ち主に対して後ろめたくもなる。
だから夢に彼女――――『北見楓』が出てきて、俺に訴えるのだ。
本当は彼女がこの愛情を受けられたのに。俺は素直に受け取って喜べないどころか、プレッシャーに感じてすらいる。これほど煮え切らないのだから、『北見楓』、下手をすれば『小坂楓』も俺に言いたいことは山ほどあるだろう。
今は周りを頼らないと生きていけないけれど、いつかそれを乗り越えて、この記憶と関係なく一人で生きていけるようになれば。そうすれば、俺を羨ましがって夢の中に出てくることもないだろう。俺自身も過度な期待から抜けられるし、自分を確立する唯一の方法にもなる。
そう、俺には逃げるしかないんだ。所詮コピーで別の命である俺には、彼女の代わりが務まるわけがない。それまで周りから向けられる期待や愛情は避けられようもないけれど。
どうか今は待ってほしい。まだ生まれたてで軟弱な自分が、一人でも生きていけるようになるまでは、君たちが作り上げた信頼と環境を間借りさせてほしい。その上で君たちと親しかった人たちの期待を裏切ってしまうことを、どうか許してほしい……。
胸の痛みを誤魔化すようにぬいぐるみを抱きながら、暗闇の中で懇願と謝罪を繰り返した。