複製品
マスコミに病院を嗅ぎつけられたことで、俺は数日のうちに別の病院に移ることになった。それまで病院の外はおろか、病室からなるべく出ないほうがいいと言われ、リハビリも精神科の受診も延期となっていた。
病室でできることは限られている。一日中ベッドの上では身体が鈍るので、適度に部屋の中を歩いて運動した。それが終わったら、母さんに持ってきてもらった教科書を使って自習。夕方はソラがお見舞いに来て、学校のいろんな話を聞いた。
それでも、どうしたって一人でいる時間が多くなる。母さんも新しい職を見つけたようで、俺に会いに来るのはソラと一緒か、それより遅い夜になってからだった。
そうしたとある日の午前中、退屈な時間に割り込んできたのは、俺が渦中の人物となる要因を作った人だった。
「すまないな、いきなり押しかけてしまって」
俺が腰掛けるベッドの横で、丸椅子に座った北見おじさんが言った。訪問されたときは驚いたし、忙しいはずなのに一体何の用なのかと訝しんだ。今もそれは収まっていない。
「それは別に構いませんけど、何の用ですか?」
以前より他人行儀になっているのは気のせいではない。学校の一件を断られたときから、俺はおじさんとの距離に一線を引いている。おじさんもそれはわかっているようで、でも以前のような仲に戻ろうとしているわけではないのも、俺には見て取れた。
「まずはこれを見てほしい」
おじさんはA4サイズの紙が入る封筒を差し出した。指に触れないよう注意して受け取ると、なかなかの厚みがあって重い。差出人は見覚えがなく、長々と漢字だらけの名前に機関と記されていた。
「政府からの書類だ。今朝方、私の家に届いたものだが、内容は君宛てだ」
「俺に?」
このなんたら機関というのは、政府組織の名前らしい。おじさんが確認したのか、封はすでに開いている。なら、俺宛てのものというのは本当なのだろう。
「一体何ですか?」
言いながら、封筒から適当に書類を引っ張り出して目を通す。何やら小難しい季節の挨拶や、同封されている書類のリストも出てきた。その一方で、要件を話すおじさんの声に耳を傾ける。
「私から告げるのは何とも皮肉な話なのだが、政府は楓くんに通学してほしいようだ」
「……は? あわわっ」
疑問符を口にして顔を上げた拍子に、膝の上に乗せていた書類の束がばさばさと床に滑り落ちてしまう。おじさんは椅子から腰を浮かして、静かにそれを拾い始めた。
「すみません」
「いや、気にしないでくれ。驚かせてすまない」
おじさんが拾った書類を俺の手に渡してくる。その一番上になっていたのは、どこかの学校のパンフレットだった。その後ろにはホチキスで転入届もくっついている。おじさんが椅子に座り直したのを見て、さっきの話を続けた。
「学校に通えって、政府が俺に言ってるんですか?」
「そうだ。もちろん強制ではないが……君にとっては悪い話ではないんだろう。公立を選ぶなら、授業料も全額負担すると言っている」
俺にとってはまさに渡りに舟というわけだ。けれど、それを素直に喜ぶことが出来ない。
「おじさんは何か知りませんか?」
「どういうことだね?」
「政府がわざわざ俺に、こんなものを送ってくる理由です。ただ学校に行かせたいなんて、お金まで出してやることじゃない」
こんなおいしいだけの話が都合よく降ってくるのは、何か裏がある時だ。政府がお金を出してくれるということは、恐らく税金で捻出されるはずだ。慈善事業というわけじゃないだろう。何より、おじさんの表情が喜ぶどころか、何かを憂うようなものだ。
「もっともな疑問だ。当然、政府もただ君を遊ばせたいわけではない。いわば、これは可能性を試しているのだよ。人間のクローンである、君をね」
「……実験、いや、観察ですかね?」
「ああ。人間のクローンは他に類を見ない。そして他人の記憶を継承しているのも唯一君だけだ。ちゃんと人間として生きられるのか経過観察をしたいのだろう。実のところ私も、報告は定期的に送っている」
体のいいモルモットというわけだ。待遇は悪くないけど、下心が見えると気持ち悪いものだ。顔の見えない誰かがそれを向けているのかと思うと鳥肌も立つ。面と向かって言ってくれたおじさんのほうが、まだ良心的だと、そう思っていた。
それは、おじさんが俺を救った存在だと思い込んでいたからだ。
「ねえ、おじさん」
今の言葉ではっきりとわかった。おじさんも――――この人も、俺のことを実験対象くらいにしか思っていなかったのだと。『小坂楓』も『北見楓』も、今の俺も救われてはいなかったんだということ。
「俺は一体、誰なんですか?」
その質問におじさんは目を剥いた。そんな顔をするなんて、俺のほうが驚いたくらいだ。
「……どういう意味だね?」
「誤魔化さないでください」
俺の中にある『北見楓』は憶えている。あの時、『小坂楓』は死んだ。彼の人生は、時は、命は、そこでぷっつりと途切れた。それを繋いだのが『北見楓』だと、最初はそう思っていた。
「考える時間がありすぎたんです。自分のことを見つめていたら、自然とその疑問に辿り着いた。ねえ、おじさんはさっき他人の記憶を継承しているって言いましたよね?」
「っ、それは……」
「俺は俺の記憶を継承してるものだと思ってました。でも、それは矛盾してる。記憶を継承した時点で、今の『俺』という人格も作られてる。その時点で自分が『楓』という人物であることに疑いようがなくなる。よくできた技術だと思いますよ。当人は何の疑いもなく、自分を『生まれ変わり』だと信じ切って生きられるんですから」
簡単な話だ。ひっくり返しようもない、ただの事実として、『小坂楓』も『北見楓』もすでに死んでいる。そして死人の記憶を受け継いだ今の『楓』がここにいる。
でも、例えば『小坂楓』『北見楓』も生きていたとすれば、俺は同じ記憶と思考を持つまったく別の命ということになる。三つの命をイコールでは繋げないのだ。クローンとは本来そういうもので、自分には記憶があるからと妄信していたに過ぎない。
「本を、読みました」
俺の視線を追ったおじさんが、テレビ台の下の引き出しを開ける。本の題を見て、さらに苦い顔を作った。
「クローンについての本です。自分のことを考えるために必要だと思って、図書館でソラに借りてきてもらったんです」
「……なるほど」
おじさんは弁明する気もないようで、静かに本を元の場所に戻した。
「いつから疑問を持っていたんだね」
「実を言うと、『北見楓』の時に薄々わかっていました。あまり考えないようにしていましたが、二度目ともなると無視できなかったんです。そして、さっきのおじさんの言葉で確信に変わりました。俺は生まれ変わりなんかじゃなくて、ただのコピーなんだって」
学校で『小坂楓』のための花壇を見たときや、茜ちゃんの葛藤を知ったとき。あの時、二人は別人だという疑いと恐怖を覚えた。今の自分が抱いているアイデンティティが失われることが怖くて、ただ新しい生活環境に縋りついた。新しい生き方をすることで、忘れようとした。
その試みは上手くいっていた。自分が一度死んだこと、女になったこと、それなりに受け入れられるようになっていたはずだ。でも、それが本当だったらの話だ。
「それを知ってどうする? 君はその事実をどう思っているんだね?」
「……今は、仕方のないことだと思ってます。そんなふうに考えられるのも、おじさんが今の俺を作ってくれたからできることです。ただ、喜ぶことはできません」
正直、裏切られた気持ちも少なくない。おじさんに感謝することも、今はできそうになかった。
「すごく変な感じがします。俺が今考えていることでさえ、『北見楓』から継承したもの、だなんて」
「そのための継承なのだよ。確かに君は私が作り上げた『北見楓』の精巧なコピーだ。容姿も中身もね。そして君は、それを否定することができない」
今の俺が持つ記憶や人格はすでに引き離せないものだ。そして俺がいくら悩んだところで、周囲の人の認識が変わることはない。おじさんが言ったように、俺には『楓』として生きる道しかない。
「君が君であることは変わらない。あまり深く考えないほうがいいぞ。暗い顔をしていると、茜や葵が気に掛ける」
「……そうですね」
おじさんは話をはぐらかした。もやもやは晴れないが、茜ちゃんや母さんに心配されるのは本意じゃない。今はおじさんの言葉に頷いて、当分の間は保留にすることにした。
「学校に行くつもりならサポートはしよう。入学・転入などの試験は君の努力次第だが、高校は君のほうで自由に選んでくれて構わない」
俺は「考えておきます」とだけ答えた。ならば話は終わりと、おじさんは椅子から立って部屋を出て行った。
「学校に通えるって、樹がそう言ったの?」
「本当だって。ほら」
夕方になっていつものお見舞いに来た母さんとソラに、おじさんから渡してもらった書類を見せる。
「やったな、楓! 一緒に学校に行けるぞ!」
「まだ一緒に行くとは言ってないんだけど」
「なにっ! じゃあ楓はどの学校に行くつもりなんだよ?」
興奮したソラに聞かれれば、俺は答えを渋った。適当な学校を指差して「ここ」とか言ったら、「じゃあオレも転校する!」とか言うかもしれない。
「まだ決めてないんだよ。リハビリもあるし、世間のほとぼりが冷めてからのほうがいい。まだ先の話になると思うよ」
「悩む余地なんてあるのか? 学校でオレといたほうが、万が一のとき安心だろ?」
「それはそうなんだけどね……」
「学年はどうするの? 楓が来年から入学するとしたら、ソラくんは二年生でしょ? それとも転校って扱いになるのかしら?」
「それもわからないよ」
もともとは二年生になるはずだったのが、茜ちゃんの双子として一年生をやっていたのだ。一年生からやり直すのは構わないけど、ただでさえ開いてしまった茜ちゃんたちとの差を広げることや、唯一見知った顔であるソラと離れた学年になるのは避けたい。
「どっちにしてもちょっと心配だわ。茜ちゃんも学校はとっくに卒業してるし、あんたに女の子の友達なんて作れるの?」
余計なお世話だと言いたいところだったけど、母さんなりに心配しているのはわかる。男の時はそれこそ同性でも友達らしい友達はいなかったし、茉希ちゃんや翔太、透と仲良くなれたのは茜ちゃん繋がりだったからというのもある。
「楓がオレと一緒だったら何も問題ないんだけどなぁ」
「ソラのその自信ってどこから来るのさ」
それでもまあ、まったく知り合いがいないよりは、ソラがいたほうが俺も気持ちが楽ではある。ただ、ソラが通っているのは、俺が通っていたのと同じ私立の高校だ。融通が利くのかどうかは、またおじさんにでも聞いてみよう。
「もっと喜ぶかと思ってたぜ」
「喜んでるよ。ただ、ちょっと複雑な事情が絡んでて、喜びづらいだけ」
「事情ってなんだ? あんまりよくないことなのか?」
「……なんでもないよ。ソラは気にしなくていいから」
新しい環境に移る不安や、政府の期待の圧っていう不可視の気味悪さもある。そうなる以前にリハビリや、恐怖症の克服という課題も積み上がっていた。今朝おじさんと話したことも、胸の奥に引っかかっている。
ソラも母さんもいつも通り、俺をこれまでと同じ楓として応じてくれている。それだけで俺は後ろめたくて、顔も合わせにくいと思ってしまう。今の俺が前とは違う別人だと知ったとき、この人たちはどんな顔をするんだろう。
母さんは母さんで、ソラはソラだ。今の俺にとっても無関係な人たちじゃない。赤の他人と割り切って接することはできないのだ。その一方で、この女性を『母親』に、ソラを『友人』に据えていいのか、迷ってしまう。継承した記憶と人格が、この人たちを悲しませてはいけないと思わせる。
おじさんが言わんとしていたことはわかる。俺は『北見楓』として、今まで通り生きればいい。コピーでも偽物でも、そうやって生きていれば日常を描くことが出来る。それが壊れるよりも、少しもやもやを我慢するほうが遥かに楽だ。
「どうした、楓? ちょっと疲れたか?」
「ううん、大丈夫。退屈でずっと寝てたから、頭が重いだけ」
「あんまり寝てばかりいると身体に悪いわよ。学校に行くんだし、勉強もやり始めたら?」
母さんに言われて、転入試験もあったことを思い出す。「そうだね」と言って、次からは教科書を持ってきてほしいと母さんに頼んだ。
「そうだ、ソラも明日からここで勉強しなよ。サボらないか監視しててあげる」
「楓こそずっと寝てたんだから忘れてるんじゃないか? 課題がてらオレが勉強教えてやるぜ」
皮肉を言えば、ソラもからかうように返してくれる。今はその関係が楽しいことが、何よりの救いかもしれなかった。