生き返りのハンデ
ぱちりと目が覚めると、ベッドに寝かされていた。扉越しに聞こえる遠くで誰かが言い合う声と、目に映る無機質に白い天井から、ここは自分の病室なのだと判断できた。
「んん……」
身体を起こして目を擦る。眠っていたはずなのに、なんだか疲れが取れていない気がする。窓からは光が一切入って来ないから、おそらくもう夜だろう。健康診断が終わったところまでは覚えてるんだけど、寝てしまうまでの記憶が朧げだ。病室を見回すと、隣で机に突っ伏している母さんの背中が見えた。穏やかに上下しているのを見ると、眠っているようだ。
「どうにかならないんですか、先生っ」
外で言い合う声がはっきり聞こえるようになった。扉を介しているのでくぐもっているけれど、ソラの声に間違いない。先生、と呼んだってことは、北見おじさんと話しているようだ。しかもだんだん声が大きくなってくる。二人はこっちに向かってきているらしかった。
「んん……? いけない、あたし寝ちゃって……」
母さんも声に気づいて目を覚ます。俺は咄嗟に横になって寝たふりをした。次の瞬間には、がらりと引き戸が開いて二つの足音が病室に入ってきた。
「葵、楓君の様子は?」
入って来たのはやっぱり北見おじさんだった。たぶん、ソラも一緒だ。
「まだ目覚めてないわ。魘されてもいないから、樹の言うことが本当かどうかわからないけど」
「健康診断の結果から見るに、身体は何も問題ないはずだ。今なお詳しく調べているが、結果は変わらんだろう。そうなれば、自ずと原因は絞られてくる」
「先生」
「……どうしようもない、少なくとも今は」
「治るんですか?」
「原因に確信が持てない以上、手の施しようがない。が、おそらくは先ほど話した通りだ」
二人は母さんと何やら話しているけれど、治すとか原因とか、何のことを言っているんだろう? 健康診断は終わっていて、結果も問題なかった。その割には話の内容もみんなの声も、重くて違和感がある。まるでとても深刻な病気か何かが見つかったかのような、暗い声音。
「君も今後は無暗に触れないことだ。彼女自身もまだ自覚がない。だから学校に行きたいなどと、考えの浅いことも言えたのだろうな」
その一言に、思わず目を開けてしまいそうになる。学校に行きたい、俺は確かにそう言った。おじさんはそれが馬鹿げているとでも言うかのように、それを一蹴したのだ。
「どうにかならないんですか」
ソラは同じ言葉をおじさんに投げかける。そっとため息をつくのが聞こえた。
「もし心因的なものであれば、本人が克服するほかない。周りができることはサポートだけだ。まして世間の目など、いち医学者がどうこうできる問題ではない、論外だ。その件で私ができることはもう何もない」
はっきりとおじさんが言った後、一人分の足音が病室から出て行った。
「気を悪くしないでね、ソラくん。あなたのせいじゃないんだから」
「……それはわかってる。でも」
「樹も言っていたでしょう。こういうリスクを踏まえても、あなたの存在は楓にとってプラスになるはずだって。遅かれ早かれ、こうなることは決まっていたのかもしれないわ」
俺とソラに関わることらしい。抽象的な言葉だけなので、俺には何のことかわからないけど。
「少しお手洗いに行ってくるわ。まだ目覚めないと思うし、ここを任せてもいいかしら」
「……ああ」
母さんは部屋を出ていって、ソラだけがそこに残った。椅子を引く音がしたので、彼は机の傍の丸椅子に座ったようだ。
「……楓、オレは……」
呟いた声は、ソラのものだった。うっすらと目を開けると、彼が丸めた背中をこっちに向けている。その姿があまりにも小さく見えて、思わず声をかけていた。
「ソラ……?」
「っ! 起きたか?」
俺が呼びかけると、すぐに顔を上げて振り返った。
「お前、痛いところとか、は……」
俺の容体を確かめようと手を伸ばして、彼は途中で思いとどまった。
「どうかした?」
「……覚えてないのか? お前、診察室から出てきてすぐに倒れたんだぞ。オレが手を引こうとしたら急に目を回して」
「そう、だったっけ……」
健康診断が終わったことは覚えてる。診察室を出てソラと病室に戻る途中のことも、なんとなく思い出せる。俺が笑った拍子に転んで、ソラが手を貸してくれて。
その手を掴むことも、立ち上がることもできずに気を失ったのだ。
その瞬間のことをはっきりと思い出す。目の前が真っ暗になって、心臓を直に撫でられるような気持ち悪さを覚えた。幻覚で見えた何人かの黒い人影は、恐らく俺が生前に見たものだ。その時の恐怖が瞬間的に蘇った、ということだろうか。
窓も開けていないのに悪寒がする。手元の布団を握りしめて、嫌な記憶を飲み込むように消した。
「辛い、怖い体験をすることで心に障害が残るんだってさ。いわゆるトラウマってやつらしい」
「トラウマ……おじさんがそう言ったの?」
「記憶を継承するときに、ある程度はトラウマを取り除いたはずなんだ。それでもたぶん、完全に切り離すことはできずに、深層心理に残ったトラウマが記憶と一緒に継承された。オレが楓に触れたことで、その傷が大きく開いたのかもしれない、って」
昨日、記憶を少し思い出すだけならなんともなかった。怖い、辛いと思うけれど、気を失ったり酷くパニックになるようなものじゃない。あくまでそれは「そういったことがあったという事実」を知っているだけで、まるで経験したのが俺と関係ない別人のような、奇妙な感覚だったからだ。
何かの条件が満たされて、深層心理に眠っていたトラウマが記憶と結びついた。俺の心はそれに耐えきれずに、気を失う形で自衛をしたらしい。
「たぶん、男に近づきすぎることがダメなんだろうって」
気を失う前に出てきた人影は、記憶と照らし合わせればわかる。暴力を振るわれ、蔑みの言葉をかけられ、辱めを受け、殺されたのだ。それらの体験から男という存在が恐怖そのものになっている。それこそ、触れそうになっただけで気絶してしまうくらいに。
何度か、ソラに触れようとして躊躇った覚えがある。ソラとの距離感がわからないせいだと思っていたけれど、もしかしたらそれも無意識に避けようとしていたからなのかもしれない。ソラのほうも、さっき触れようとした手を下ろしてからは、俺となるべく距離を取ろうとしているのがわかる。
母さんがソラにかけた言葉の意味が、今なら理解できた。ソラは今、自分のせいで俺のトラウマが蘇ったって、そう思っているはずだ。
「ソラ、手ぇ出して」
「なんだよ?」
「いいから」
俺の言ったとおりに、ソラは手のひらを突き出した。間を置かず、俺はそれに自分の手を重ねる。
「おまっ、何やってんだ!」
ソラはすぐに手を引っ込めてしまった。でも、確かに俺の手はソラのそれに重ねることが出来た。
「……ほら、大丈夫、だ」
「何が大丈夫だよ、一瞬触っただけだろ」
「でも、触ったくらいじゃ倒れたりしなかった」
「そうだけど、辛そうにしてるのはオレの見間違いか?」
ソラの指摘に俺は閉口する。一瞬だったはずだが、その衝撃の余韻が今も残っていた。腕から痺れが伝って背中に嫌な汗をかき、心音も呼吸も乱れている。平衡感覚も怪しく、無意識に布団の端を握っていた。
「楓がトラウマを抱えてんのは事実だ」
健康診断の前はソラと普通に接することができたはずだし、健康診断の時はおじさんに触れられる場面だってあった。でも、それは記憶とトラウマが結びつく前だったからだ。一度それらが結びつくとソラの言った通り、男の人に触れて平然としてはいられない。けど。
「少し違うよ。男がみんな怖いわけじゃない。少なくとも北見おじさんは平気だし、ソラも今ので大丈夫だった」
手をソラに伸ばして、言う。トラウマが蘇ったのはソラがきっかけかもしれない。けれど、ソラにその責任はないのだ。
「俺にとって、怖い人じゃないんだよ。ソラは」
膝の上に固く握られているソラの拳に、肌に触れる。言葉にならない不快感が、触れた指を伝って全身を侵す。思わず目を閉じてそれに耐えた。
「……ね?」
目を開けて、笑う。戸惑ったソラの顔が面白い、なんて思う暇もない。想像していたよりもずっと辛いな、これは。
けれど、ソラの丸まっていた背中と、苦しそうに呟いた声を思い出す。背が高いくせに、あんなに小さくなっていたら放っておけなかった。目覚めてからずっと俺のことを気にかけてくれる、明るい男の子。それが怖いなんて思う俺のほうに原因があるんだから。
彼が自分を攻め続けるくらいなら、一時だけ我慢して、その傷を自分が受けてしまえばいい。
「ありがと、心配してくれて」
「……当り前だろ」
俺が軽く体重をかけているのもあって、ソラはそれを振り解かなかった。
母さんが戻って来て、すぐにおじさんが病室に呼ばれた。簡単な問診をして、おじさんはやはり死ぬ前の記憶に基づく心因的な障害だと判断した。
「私のほうから精神科の医師に話を通しておこう。予定がついたら診察を受けてもらう」
おじさんが無機質な声で告げた。思いやりのあった優しい声の主と同一人物だとは、今の俺には信じられそうもない。
「これって治るものなんですよね?」
「普通なら数ヶ月で回復するケースが多いが……君の場合は少し複雑だ。一度記憶と心的外傷を切り離そうとしたことで、治療がより困難になるかもしれない。ショックも比較的深刻な部類のものであるから、時間もかかるだろう」
おそらくリハビリと同時進行になるはずだけど、数ヶ月かかるなら長い目で頑張らなくちゃいけない。精神科の治療ってどういうのになるんだろう。母さんの影響もあってか、ショック療法みたいな荒療治もが思い浮かぶ。その時はソラに手伝ってもらえればいいのかな。
「オレもできることがあったら協力する」
同じことを考えたのかわからないが、ソラも力強く言ってくれる。倒れたりはしないものの、ソラやおじさんを含めて男の人に触れるのは、想像以上に心理的な負担がかかる。身体的にも影響が出て、たとえば息や鼓動が乱れたり、軽い眩暈を起こしてしまう。もし心構えなしに接触してしまったら、電気のブレーカーが落ちるみたいに意識が切れるんじゃないかと、不安にもなる。
「楓くんはまだ、学校に行きたいと思っているか?」
おじさんがそう聞いてくるのは、自然なことだろう。今の俺に学校生活は荷が重い。人がいるところ、とりわけ男の人がいるのであれば、夕方のようになりかねない。このままでは外出も難しそうだった。
ううん、それだけじゃなかった。たとえそれを克服しても、問題は残っている。
「心的外傷が克服できたとしても、君はすでに一般人とはわけが違う。学校に通い、人の目に触れる機会が増えれば、君の正体がクローンだと気づく人も出てくるだろう。そうなれば平穏など望むべくもない」
渡された新聞に目を落とす。それは今日の朝刊で、一面の半分を埋めているのは【クローン 目覚める】という見出しが目を引いた。言わずもがな、俺について書かれた記事だ。世界で一人のクローン人間の存在は、すでに報道されてしまっていた。
「ここにいることはすでに知られた。最悪、顔も割れているかもしれん。早いうちに退院か、病院を移すほうがいいだろう」
朝早くの病院の下が騒がしかったのは、マスコミが押し寄せたからだと想像できた。おじさんが言うには、もう世界中に知られていてもおかしくないらしい。
「状況を知り、君自身の立場を自覚するんだ。それでも気持ちが変わらなければ、私は止めない。好きにするといい」
話は終わりだと言わんばかりに踵を返し、そのままおじさんは部屋を出て行く。俺はそれを黙って見送った。母さんもソラも、何も言わなかった。
しばらくして、母さんたちも引き上げていく。一人で物思いにふけるには時間が十分にあった。消灯時間になって部屋が暗くなると、目を瞑って深く考える。眠くならないのは夕方寝ていたからか、それとも不眠症が戻ってきているのか。新しい身体になったというのに、不具合は軒並み引き継いでいるのかもしれない。抱き枕があっても、しばらくは眠れない夜が続きそうだった。