フラッシュバック
人は疲れたとき、深い眠りにつく。深い眠りとは、夢を見ることのない眠りだと聞いた。
けれど、たぶんそれには語弊がある。人は眠っているときに必ず夢を見て、起きるとそれを忘れるらしい。だから今こうして起きた俺が、なんとなく夢を見ていたかもしれないって思うのは、必然なことなのかもしれない。
ぼんやりとしていた意識がはっきりしてくると、いつの間にか目を開けて天井を見つめていたことに気づく。ここが現実なのか夢の中なのか、すぐには判断できなかった。
病院の天井が目に映ると、ようやく昨日のことが現実だったんだとわかる。いっそさっきまで見ていた夢のように忘れられたら、楽だったかもしれない。
「んぅ……?」
気分が沈みかけたとき、ふと外から聞こえる物音に気付いた。すでに日は昇っているのか、閉めきられたカーテンが光を帯びている。その外には何やらたくさんの人がいるようで、その喧騒で起きてしまったようだった。
ここは五階だが、窓を隔てても聞こえてくるなんて、よほど人が集まっているんだろう。緊急の患者さんがあったとか、そういうのだろうか。だとすると、おじさんや茜ちゃんが駆り出される可能性もある。もしかしたら、健康診断も後日にずれ込むかもしれない。
どちらにしても、今の俺にできることはもう一度寝ることくらいだ。その前にトイレを済ませようと思い至って、あくびをしながらお手洗いへと向かった。
用を足して戻ってくると、こっちに向かって廊下を歩いてくる人影を見つけた。
「あっ、お姉ちゃん」
「ん……?」
トイレとは反対のほうから、一人の看護師さんがパタパタと俺のほうへ駆けてくる。眼鏡をかけて看護服を纏う姿は未だに別人かと思ってしまうけど、それは茜ちゃんだった。
「どうしたの、そんなに血相変えて」
「あ、あのね。今はあんまり病院内をうろついてほしくないの。病室で大人しくしててほしくて」
「何かあったの?」
「ごめん、今は忙しくて……後でお父さんが説明してくれるから。とにかく、わたしか葵さん、星くんが迎えに来るまで部屋にいてくれる?」
「う、うん……別にいいけど」
特に病室の外に用もないので、しばらく出られなくても問題はない。茜ちゃんの必死さには首を傾げたけれど、素直に言うことを聞いた。
「窮屈な思いさせてごめんね。また後で来るから」
茜ちゃんは俺を病室まで送り届けると、すぐにその場を去っていく。まだ外からも喧騒が聞こえるし、何があったかわからないけれど、これから病院の先生たちが忙しくなるんだろう。
その時は何も考えず、俺は最初に決めたように二度寝を実行した。
「おーい、かえでー?」
近くで少年の声が俺の名前を呼んだ。しかし、眠りの居心地の良さからは抜けられず、俺は「ううん」と唸って再び意識を眠りに落とそうとする。
「いつまで寝てんだよ。もう昼前になるぜ?」
「うーん……おひるぅ……?」
目元を手の甲で拭って目を開ける。ベッドの横に立っていたのはソラだった。
「あんだけ寝てたっていうのに、楓は今日も寝坊助さんだな」
「うるさいな……一応は入院してるんだから、好きにさせてよ」
あくびを噛み殺して上半身を起こす。そんな俺を見ながら、ソラが自分の頬を指差して言った。
「ここ、ヨダレついてんぞ」
「ふえ?」
ソラの言葉を二秒くらいかけて理解して、すぐにほっぺに着いたヨダレの痕を袖で拭う。慌てる様子が面白かったのか、目の前でソラはお腹を抱えていた。
「くっくっ、一応は気にするんだな」
「そりゃ気にするよ……」
俺は恥ずかしさで顔が熱くなり、誤魔化すように俯いた。二度寝だと気を緩め過ぎたのか、昼まで寝てしまうとは思ってなかった。誰かが来る頃には目を覚ますつもりでいたのに、まさか寝起きのヨダレまで見られるなんて、だらしないにも程がある。
そもそも今のソラと、俺が知っている子供のソラとは勝手が違う。すでに同年代にまで成長した彼をどう扱っていいのか、俺の中では決めかねていた。
「それで、何か用?」
「ん、ああ、健康診断だってさ。北見先生に頼まれて迎えに来たんだ」
そういえば外の喧騒も収まっているようだし、ようやく手が空いたんだろう。おじさんや茜ちゃんの貴重な時間を取るわけにもいかない。俺は身体に被さっていた布団を退ける。
「ほら、手ぇ貸すよ」
「あ……」
顔を上げると、ソラがこっちに右手を差し出している。俺は左手でそれに触れようとしたが、直前でぴたりと止まった。
「どうした?」
「……いや。一人で大丈夫だよ」
ベッドから足を下ろし、病院のスリッパをつっかける。ソラが不思議そうな顔をして突っ立っているので、「ほら、案内してよ」と促して病院を出た。
「結構歩けるんだな。リハビリもいらないんじゃないか?」
病院の壁や手すりを頼りにそろそろと歩く俺を見て、ソラが言う。
「身体が動かしにくいのは事実だよ。リハビリもちゃんと受けないと」
掴まっている手すりに体重をかけるほどじゃないけど、ソラと比べれば明らかに歩みは遅い。長らく休んでいた関節や筋肉を、どう動かしていいか感覚がわからないのだ。少なくともそれが戻るまでは時間がいるし、リハビリも受けなきゃいけないと思う。
「じゃあやっぱり、何週間かは入院してなきゃいけないかもな」
「たぶん。長くはならないと思うけど、おじさんや母さんに聞いてみないと」
昨日はあまり深い話はしていないから、これからどうするのか、どうなるのかはわからない。母さんの言い方だと、退院後は小坂家で暮らすことになりそうだけど。
「目立った異常はないようだな。特に問題はないだろう」
健康診断ははっきり言って拍子抜けに終わった。それこそ前みたいに、色んな機械の台に乗せられたり、何度も注射されて血液や脊髄液を採ったり、大変な検査をするものだと身構えていたんだけど。時間的には半日しかかかっていなくて、普段受けていた健康診断より少しボリュームを多くした程度だった。
「身長と体重は前の身体より目減りしてますけど……」
「今の身体のほうが、成長度合いは低いからな。もう少し噛み砕いて言うなら、その身体の育成時間は前の身体より短い。年齢的に一年は若いはずだ」
「ふうん、生まれ変わって若返ったってところかしら」
母さんがさらにわかりやすい言葉で呟いた。具体的な数字で言うと、身長は4センチ減って145センチ、体重も4キロ軽くなって37キロと、かなり小柄でガリガリになっていた。スリーサイズも茜ちゃんに測定してもらったけど、胸の膨らみも前よりずいぶんと控えめになっていた。さすがに高校一年生と言っても、中学生の冗談にしか思われないかもしれない。
「三食きっちり食べていれば少しずつ体力も戻ってくるし、体重ももう少し増えるだろう。他に気になる点はあるか?」
「気になる点というよりは……一つだけ、聞いてもいいですか?」
身体に直接関係ないことではあるが、引っかかることがあった。
「俺、学校に通うことって、できますか?」
「学校……?」
おじさんがもう一度口に出すほど、それは予想外の質問だったのだろう。なぜそんな質問が出てくるのか、本当にわからないって顔だった。
「前より若くなったから、高校に入っても中学生って思われないかなって」
元々の俺は高校二年生になるはずだった。生まれ変わりだとバレないよう、茜ちゃんと双子だという設定にして学校に通っていたが、今となってはその設定もない。となると、身体の年齢に合わせて中学校まで戻るのか、頭に合わせて高校を続けるのか、わからなかった。
そんな考えを伝えたつもりだったが、返って来たのはかなり期待とは外れた言葉だった。
「勉強したいというなら学校に限らず、書籍での学習や家庭教師、通信制の教育機関もある。わざわざ学校という選択肢になるのはなぜか、理由を聞かせてくれないか?」
「えっと……学校っていうのは、例えば、の話です。記憶では俺は高校生だし、普通ならまだ学校に通わなきゃいけない年齢だと思ったので」
「高校は義務教育ではない。君が思ってるほど高校に行っていない子は少なくないぞ」
おじさんの返答に酷く違和感を感じた。まるで俺が学校に行くことに反対するような、そんな意志が感じとれた。
「じゃあ逆に、俺は高校に行っちゃいけない理由があるんですか? 家から出ずに家庭教師や、通信制の教育? とやらで勉強しなきゃいけないんですか?」
「学校へ通う目的が勉強であるなら、他の選択肢もあると言っているだけだ。もちろん強制はしないが……どうしても学校に行きたいと言うのなら、君は今一度、自分という存在が世間にどう見られているかを認識する必要がある」
「……どういうことですか」
おじさんのわかりづらい言い方に、俺は初めて苛立ちを滲ませた。しかし、おじさんはくるりと椅子を回して机に向かってしまう。
「検査は終わりだ、部屋に戻りなさい。私は葵と話がある」
「……おじさん」
「楓、お願い。部屋で待っててくれないかしら。ちゃんと説明はするから……」
俺の言葉を遮って、母さんが懇願するように言う。そんな顔を前にして、俺は納得がいかなかったけれど、言葉を続けられずに診察室を出た。
「お、終わったのか、楓。どうだった?」
「……ああ」
外で待っていたソラが声をかけてきたが、答える気になれずに素っ気ない返事をして横を通り抜ける。
「どした? どっか悪かったのか?」
「別に何でもない」
思い出しても、イライラが募るだけだ。いつもならその感情を体現するように、ソラを振り切るように速足で病室に戻っていたかもしれない。でも、まだ慣れない身体ではそれもできず、思い通りにいかないもどかしさが無性に頭にくる。
「もしかして怒ってる、のか?」
しょげたソラの声にはっとして、思わず歩みを止める。八つ当たりしたつもりはなかったが、ソラがそう受け取らないとは限らない。会話どころか返事も素っ気なかったし、まるで玩具を取り上げられた子供だ。気に入らないことがあるとすぐに拗ねるなんて、身体だけじゃなくて心も幼くなったんじゃないだろうか。
「……ごめん、ソラ。冷たくするつもりはなかったんだ」
顔だけ向けて、素直に謝る。
「身体に悪いところがあったわけじゃないよ。でも、思い通りにいかないことがあって」
「北見先生に反対されたのか?」
「うん……たぶん、学校に行くなって言いたかったんだと思う」
「学校に行くな?」
ソラは驚いたように声を上げる。
「はっきり言われたわけじゃない。けど、明らかに反対って感じだった。最後は俺が決めていいってことになってるけど……」
冷静に考えてみると、あの北見おじさんが意味もなく反対するはずがない。絶対に理由はあるはずだ。そういえば、世間に自分がどう見られているかを自覚しろ、みたいなことを言っていたかな。どういうことなのか、さっぱりわからないけど。
どうせなら理由をはっきり言ってくれたほうが、諦めだってつくのに。
「でも、楓は学校に行きたいんだろ? オレと一緒に」
「うーん、ソラと一緒ってことはどっちでもよかったんだけど」
「なにっ!?」
意地悪を言ってみるとすぐさま素っ頓狂な声を上げるので、思わず笑ってしまう。
「ははっ……ぅおわっ?」
笑っていたせいか、足を絡ませて転んでしまった。壁伝いに手をついて歩いていたのに、ちょっとした醜態だ。
「じゃあ、何で学校に行きたいんだよ?」
転んだ俺と視線を合わせるようにしゃがみ込んで、ソラが言った。
そうだなあ。学校に通うってことに、特別思い入れがあるわけじゃないけれど。
「普通に生きてみたい、かな」
「ん?」
「普通に生きて、学校に通って、進学なり就職なりするんだ。みんなと同じ道を進んでみたい」
深い考えがあるわけじゃない。でも、みんなが経験したことを、今の俺が経験できないなんてことはないはずだ。例えみんなに追いつけないとしても。
「ふーん。よくわかんないけど、いいぜ」
ソラが立ち上がる。俺の目の前に、右手が差し出された。
「オレは応援する。楓が普通に生きられるように。やりたいことができるように」
頭の上から降り注ぐ、優しくて元気の出る言葉。そういえば、俺はまだ彼に聞きたいことがある。顔を上げて、
「ねぇ、ソラ、……」
彼を見て、その大きな影を目の当たりにして。
「あ、れ……?」
ソラの手を掴もうと小さく挙げていた手が、届かずに落ちる。力が抜ける。
耳障りな声が聞こえた。下劣な笑い声と、蔑むような視線。いつの間にか影は増えて、俺を取り囲んで、光から隠すように覆いかぶさってくる。
「楓? かえ――!?」
もう誰ともわからない呼びかけを遠くに聞きながら、俺の意識は途切れた。