年月の壁
「なんでここに……?」
「オレ、何回か楓の見舞いに来てたんだ。まさか廊下でぶつかるなんて思わなかったけど。そういや、オレたちが初めて会った時もぶつかったんだったよな。色んな意味で運命みたいなの感じるぜ」
栞を本に挟み直しながら、言葉通り嬉しそうに星君は言う。成長してかなり印象が変わっていたせいで、栞を見せられなかったらわからなかった。気づけと言われても無理だ。
「というわけで、久しぶりだな。って言っても、楓の中じゃ一か月も経ってないんだっけか」
「う、うん……ちょっと見ない間にだいぶ大きくなったね、星くん」
「あの時と違って、今年の春から高校生だしな」
「一年生? そっか、追いつかれたんだ」
「おう、だから君付けで呼ぶのやめてくれよ。ソラって呼び捨てでいい」
世間は俺を取り残して、六年という時間が経っている。学校のことを連想して、俺の気はいっそう沈んだ。
例えば明日学校に行ったとしても、茜ちゃんも茉希ちゃんも、透も翔太もそこにはいないのだ。クラスメイト全員はおろか、榊先生もいないかもしれない。そんな場所に、俺だけが戻る意味があるんだろうか?
前の俺は生き返ってからおじさんの提案で学校に通っていたけれど、クローンだとバレた今の俺に、そんな資格があるだろうか? 俺が通いたいと言ったとして、おじさんや茜ちゃん、世間はそれを認めるだろうか?
「なんだか元気そうじゃないな?」
露骨に表情が暗くなっていたからか、星くん……もといソラがそう言った。俺は咄嗟に顔をあげて、「身体は平気だよ」と笑って見せた。
「いろいろ難しいことが多くて。ちょっと考えてただけ」
「そうか。困ったことがあったら言えよ? そうだ、腹減ってないか? 喉乾いてたりは?」
そういえば、目覚めてから何も口にしていない。今更のように気づいた瞬間、空腹感と喉の渇きを同時に自覚する。
「食いもんは持ってないけど、ジュースなら廊下の自販機にあるぜ。何がいい?」
「えっと、じゃあ……」
答えようとしたとき、病室の扉が勢いよく開く。思わずびくりと肩を震わせて、ソラの後ろを見た。
「楓っ!」
扉を開いた格好で仁王立ちし、俺の名前を叫ぶ女性。名前が出てくるよりも、勢いのあるその声に懐かしさを覚えた。
「か、母さ……むぎゅ!?」
ドアの近くでどさりと荷物を落としたかと思うと、いきなり強く抱きしめられる。まるで幼子のように母親の胸に顔を埋められ、息もしづらいし視界が真っ暗だ。
「むむむん、むぐーっ?」
バタバタと手を振り、どうにか脱出を図るが、相手にその意志は伝わっていないらしい。このままだとほぼ確実にバック・トゥー・ザ・ヘブン。息ができずにだんだんと頭の働きも鈍ってくる。いつもの悪戯にしては度が過ぎていた。
「葵、感動の中悪いが、楓君が酸欠になってしまうぞ」
いつの間にか入ってきたおじさんが母さんの肩を叩いたことで、ようやく俺の身体が解放された。
「ご、ごめんなさい。その、感極まってつい……」
「ああ、うん……」
言いごもる母さんの顔を見て、曖昧な返事しか返せなくなった。俺の知る限り、母さんは自由奔放で底抜けに明るく、俺をからかうのが得意な、年齢の割に若々しい女性だった。そんな母さんが悪戯ではなく、感極まって抱き着いてくるなんて、俺には想像できなかった。
「そもそも楓君が今日、目覚めることはわかっていたことだろう。今は時間もないから、二人の時にゆっくりやってくれ」
「ええ、そうするわ」
おじさんに諭されて、素直に俺から離れる母さん。触れていた腕が離れて、少し寂しさを覚える。ふと、おじさんと母さん、この二人の中でも、俺の中にはない六年間があるということを思い出した。
逆に言えば母さんは六年もの間、俺が目覚めるのを待っていたんだ。母さんだけでなく、おじさんも、茜ちゃんも、ソラも。俺と関わったことのある人たちは、みんなそうなのかもしれない。
「楓君、話は茜から聞いたと思う。星君からは……」
「オレはまだ少ししか話してない」
「そうか」
ソラが答えると、おじさんは頷いて俺に向き直った。
「説明を投げ出しておいてすまないが、君自身の気持ちの整理はついただろうか?」
「それは……はい」
「二度目とはいえ、戸惑うことも多いだろう。しかし今は時間が取れなくてね。取り急ぎ、葵と星君に君のケアを頼むことにした」
おじさんの言葉に、名前の挙がった二人は頷いてみせた。どうやら母さんとソラも、すでにお互いのことを知っているらしい。
「何かあれば茜も頼ってもらって構わない。それから明日なんだが、簡単に健康診断をさせてほしい。問題ないとは思うのだが、半ば急ごしらえの身体でもある。感覚に慣れるまで、少しのリハビリも必要だろう」
「はい」
「取り急ぎ、私からの話は異常だ。他に何か聞きたいことはあるかね?」
「いえ、今は特に……」
口ではそう答えたが、漠然とした不安は拭えない。わからないことが多すぎて、まだどう聞けばいいのか判断がつかないのだ。
「そうか。不安なことがあれば二人に聞いてくれ。私はこれから用事があるので、すまないが先に失礼するよ」
「はい」
おじさんは俺が返事をするとすぐに踵を返し、急ぎ足で病室を出て行った。
「相変わらず、仕事ばっかりね」
「人のこと言えないでしょ、母さん」
「……ほんとね」
母さんは肩を竦めて、大仰にため息をついて見せた。
「いつ帰って来たの?」
「つい先日よ。あんたが目覚めるこの日に合わせて帰国したの」
「そうなんだ? いつまでいられるの?」
「もう向こうには行かないわよ。あたし、仕事辞めてきちゃったから」
「えっ!?」
俺は驚いて母さんの顔を見上げる。母さんはさも当然と言わんばかりに胸を張った。
「これからはあんたと一緒に暮らすの。お父さんはまだ単身赴任続けるけど、あんたのほうはもう一人にはできないわ。愛する娘を二度も失ってたまるもんですか」
元々は息子だ、と反論しようとしたが、俺が二度も死んだことについては事実だ。たくさんの人に心配をかけ、巻き込んで、今の俺が存在している。なんて言って返せばいいかわからなかった。
「そんな顔しないの。今日はあんたにとって三つ目の誕生日も同然、おめでたい日なのよ? だからソラくんだって呼んだのに」
「……そういえば、母さんはソラといつから知り合いなの?」
俺だって会ったことがあるのは二度だけだ。どっちも鮮明に思い出せるほど印象深い記憶だが、回数だけで言えば知り合いくらいのはずだ。
「ソラくんとはけっこう長い付き合いよ。特に彼のお母さんのほうとね」
「そうなの? ぜんぜん知らなかったよ」
「この病院で偶然会ってから、お互いに相談したり協力したりしてるのよ。あたしがいない間も、あんたのことはソラくんに頼んでたくらいだし。茜ちゃんも樹も忙しかったからね」
「そう言われても、実際はあまりやることなかったけどな。北見先生の代わりに、葵さんに楓の様子を連絡してたくらいだよ」
そう話す二人を交互に見て相槌を打つ。家族同士での付き合いがあるのはこれまで北見家だけだったけれど、深い繋がりが増えるのは悪くない。ソラの家とも親しくなれるのは、いいことだと思った。
「……あ」
きゅるる~、と小さい穴から空気が押し出されるような音がして、咄嗟に自分のお腹を押さえる。しかし時すでに遅く、その情けない音は目の前の二人に筒抜けだったらしい。
「病院の夕飯にはもう少し時間があるわね。売店で軽い食べ物でも買ってくるわ」
「ああ、それならオレが行くよ。葵さんは楓の話し相手してあげて」
椅子から立ち上がろうとした母さんを手で止めて、ソラはそのまま病室を出て行った。少しの間、俺と母さんの間に沈黙が流れる。
「ねえ、楓」
先に口を開いたのは母さんだった。
「なに?」
「あんた、何かやりたいことはある?」
「やりたいこと?」
漠然とした問いに、俺はオウム返しに尋ねた。
「たくさんあるはずよ。今はわからないなら、いくらでも探せばいい。時間もたっぷりある。そうね、手始めにガーデニングを再開するのはどうかしら。玄関先もベランダも空いてるし、プランターを増やすのもいいわね」
「いや、それは……」
玄関先はいっぱいのはずだからできない、そう言いかけて、思い直した。
空いているって、そういうことだ。あの時つけていた蕾が開くところを、俺はついぞ見ることができなかったのだ。
すでにわかっていたはずだ。なのに今、目覚めたときから苦しかった胸が、はっきりと音を立てて軋む。嗚咽が喉までせり上がってきて、押し殺すように飲み下した。
「……うん、いいね。退院したらまた頑張らなきゃ」
心の準備ができていたわけじゃない。けれど痛んだのはそれっきりで、俺はまた同じように笑って言えた。母さんがほっとした顔をするのと同時に、俺も心底安堵した。
「そうだ、これ持ってきたの。好きだったでしょ、あんた」
足元にあった大きな旅行カバンの中から、でろんと長い枕を取り出した。全体が白っぽい肌色で、よく見ると水かきのあるの足がついている。カエルか宇宙人に似たのほほんとした顔と、首にはひらひらしたエラがあった。
「あたしが買った熊さんと迷ったんだけど。普段使いしてたほうはこっちだったみたいだから」
「両方使ってたよ。日替わりみたいに」
母さんから抱き枕を受け取り、なんとなしにぎゅっとしてみる。
「明日、熊のほうも持ってきたほうがいいかしら?」
「……うん。そのほうがよく眠れる」
「わかったわ」
母さんは笑いながら承諾した。その笑い方を見て、ようやく自分の子供っぽい仕草を自覚する。しかし、今更抱き枕を手離すわけにもいかず、せめてとばかりに赤くなった顔を隠すのにも使った。意図せずに嗅いだ懐かしい匂いが心を揺さぶって、また溢れそうになったそれを飲み込んだ。
しばらく俺と母さんは談笑しては、時折しんみりした。ソラが帰ってきて三人になってからは、一段と明るい話題が多くなって、幾分か気が紛れた。
病院の夕飯の時間にはソラだけが帰り、残った母さんは夜、俺が眠くなるまで付き合ってくれた。
「そろそろ帰るわね。電気はもう消す?」
「うん、もう寝るよ」
俺が答えると、母さんは荷物を持って入り口のスイッチをオフにした。病室の電灯が消えて、廊下からの弱い光だけが部屋に入ってくる。
「それじゃあまた明日来るわ。健康診断はあたしも付き添うから」
「うん、気をつけて帰ってね。おやすみ」
「ええ、おやすみ」
母さんが静かに戸を閉めて、病室で一人きりになる。天井を見ながら、ふうと一息ついた。
目が覚めてから半日の間に、色んなことがあった。俺がいなかった六年を一気に説明されたから、そう感じるのも無理はないかもしれない。
誰もいなくなって一人になると、どうしても物思いにふけってしまう。それでも今日は精神的に疲れていたのか、俺は余計なことを考えずに眠りにつくことができた。