第一章 僕の世界にヒビが入った日
「よう、ミキ!」
毎日のように聞いている声に少し苛立ち、無視してそのまま昇降口へ向かって歩き続ける。
「……おい、無視すんなよ!」
足早に歩くが体格差の問題もあってすぐに追いつかれて肩を掴まれてしまった。
「ミキって呼ぶなっていつも言ってんだろッ!」
振り返り、軽くキレ気味に咆える。
声をかけてきたのは僕をタゲった不良とかではない。お互いにオムツ時代からの腐れ縁の悪友である無道遊路、通称ユウちゃんだ。
「だ~か~ら~いつも言ってっけど、ミキ以外になって呼ぶんだよ? 本名じゃねえか」
たしかに僕の本名は美樹だが、別にクラスメイトを名前で呼ばなければならないという決まりはない。ニックネームでもいいし、ニックネームをわざわざ考えるのがめんどくさいなら、
「苗字でいいだろ? 百鬼ってそんなに呼び難くないし」
この苗字のせいで僕は美樹なんていう女の子用の名前を付けられてしまったと思うと苗字も嫌いだが、それでも『百の鬼なんて厳つい苗字だから名前だけでも可愛く』という命名理由からして好きになれない美樹よりはずっといい。
「今さら苗字でなんてよそよそしいじゃねえかよ」
ユウちゃんはそういってくれるが、家が近所という理由さえなければ僕とユウちゃんは口をきくこともなかったに違いない。それくらいタイプが違う。事実学校でのユウちゃんの友だちと僕はユウちゃんを介して以外はただのクラスメイト以外の何者でもない。
「別に実害ないんだからいいだろ」
いや、実害ならある。入学早々ユウちゃんが「ミキ」と呼ぶせいで女子たちにクスクスと忍び笑いされた僕の苦痛を考えれば名前で呼ばれることは十分有害だ。
「まったく……そりゃ字面は女みてえだけどそこまで気にするような名前じゃねえだろ。気にしすぎなんだよ」
そりゃあ、美樹という名前でもユウちゃんみたいに男らしい体つきだったなら名前に関するコンプレックスなどなかったかもしれない。しかし、僕のコンプレックスが被害妄想でないことは女子たちの忍び笑いが証明している。僕はテレビとマンガとゲームをこよなく愛するザ・インドア派。必然的に身体つきも貧弱ないわゆるもやしっ子で、男らしさの欠片もない。
「おっと、くだらない話で本題忘れるとこだった」
「本題?」
僕にとってはくだらなくなどないけれど、それについて言及しても仕方ないので諦めて話を前進させる。
「おう、コレコレ」
ユウちゃんが突き出してきたのは俗にファブレットと言われるスマートフォンとタブレット端末の中間サイズの端末。学校指定のタブレットとは別に入学祝に買ってもらったヤツだ。しかし、それならもう何度も見ているし、画面もアイコンが並んだ普通の待ち受けで特に変わったところはない。
「何がコレなんだよ?」
「このアプリを教えたくってよ」
そういって指し示したのは二重の円の内側に逆五芒星、逆五芒星の内側にはさらに獣の顔のようなものがかかれたアイコン。別にトリビアマニアってわけでもないけどそれなりにファンタジー系ゲームなんかもプレイするのでそのマークの意味はわかった。
「悪魔のマークだっけ、コレ? 一体何のアプリ?」
「おおッ! さすがミキ!! オレこのマークの意味わかんなくてもらったときずいぶんバカにされたんだぜ」
もらった?
普通スマホのアプリというものは教えてもらうことはあっても直接授受はすることはない。学校の誰かが自作したオリジナルアプリということだろうか?
そんな推測を巡らせているとユウちゃんがガラにもなく顔を近づけ、声を潜めて囁く。
(このアプリあるサイトの専用閲覧ブラウザアプリなんだよ)
人に聞かれたくない話なのだろう。それだけ囁くとユウちゃんは僕を人気のないところへと引っ張っていく。
引っ張られながらなんとなくそのアプリについて考えてみる。
特定サイトの閲覧ブラウザというのは別にめずらしくはない。某有名掲示板のための専用ブラウザは有名だ。それに特定のIPアドレスを経由していないと閲覧できない某国の動画サイトみたいなサイトもある。また、サイトソーシャルゲームのサイトのように特定ユーザーエージェント(UA)でないとアクセスできないサイトもある。
だから、専用の閲覧ブラウザがあるサイトがあったとしても別に不思議ではない。
いや、きっと僕が知らないだけでそういうサイトはいくつもあるのだろう。
しかし、そうは言っても所詮はウェブサイトではないか。教えるだけでここまで人目を気にしてコソコソする必要があるのだろうか? 得体の知れないアプリの正体を聞くためだけにわざわざ教室がある二階を通り過ぎ、三階、四階も素通りして屋上へと通じる踊り場まで連れて来られればそう思うのは当然だろう。
「で? なんなのさ、そのアプリって」
「そう焦んなって! 今見せるからっよ」
ユウちゃんはファブレットの画面をタップして件のアプリを起動しながら答える。
生徒のあまり立ち寄らない屋上へ踊り場は電波の入りが悪いのだろう。SIMなしで使っているユウちゃんのファブレットはそのサイトへアクセスするだけで随分と時間を食った。
ようやくつながり向けられた画面を見て、
「なんだよ。普通の掲示板サイトじゃん」
と落胆と苛立ちで吐き捨てた。映しだされている画面は掲示板形式の簡素なもので、どうせ学校裏サイトか何かだろう、と思ったのだ。
「チッチッチッ。甘いな、ミキ。このサイトはな」
したり顔でユウちゃんが語った説明によると、サイト名は『ディストピア』。
前に何かのゲームかマンガで使われていたときに調べた記憶によれば理想郷を示すユートピアの対義語。無理に日本語訳すれば暗黒郷、地獄郷となるはずだが、そんなことはどうでもいい。
裏サイトという僕の予想もあながち間違いではなく、ディストピアも裏サイトらしい。しかし、学校裏サイトなどというレベルではなかった。その名前に恥じない反道徳的、反社会的なアングラサイトだったのだ。
ユウちゃんが画面を見せながら説明してくれたところによるとディストピアの内容は犯罪の計画や犯行予告、実際に行われている犯行を書き込むもの。中には共犯者を探す求人的な書き込みもあるらしい。
もっともそれだけならば数多ある掲示板に似たようなものがあるかもしれない。というかいじめの実況報告などが行われていることを考えれば学校裏サイトも同種のサイトといえなくもない。
だが、ディストピアには他の掲示板とは違う点が三つあった。
一つはアクセス方法。
普通の掲示板にもパスワードが必要な閉鎖的なものもあるかもしれないが、普通のブラウザからアクセスはできるだろう。しかし、ディストピアは違う。専用のツールをバインドした専用ブラウザでなければアクセスできないのだ。言うなれば変則的な会員制掲示板と言えるかもしれない。
二つ目は秘匿性。
こういうサイトは密告によって閉鎖されてしまうケースも少なくないらしい。それに密告されずとも話題になり、噂が広まればどうしてもサイバーパトロールの巡回リストに上がってしまう。
学校裏サイトの外的要因による閉鎖理由もアクセスする生徒が増えることでサイトの存在が露呈し、問題ある書き込みが行われていると判断した学校側からサーバー管理者に閉鎖依頼が出されることにある。
しかし、ディストピア専用ブラウザはネット上で配布できない。地デジなどに掛かっているCPRMのようなコピー制限がかかっており、直接コピーしかできないのだそうだ。誰も実際の犯罪をアップしているようなアングラサイトを不用意に教えたりしない。まして、秘密を共有する仲間を売るヤツにコピーしたりはしないだろう。
仲間意識というのは重要だ。何しろ犯罪を取り締まる側の警察官でさえ同僚や上司、部下の交通事故や犯罪を隠匿するし、何かの事件で同僚の警官が殺されたりすると一般人の被害者とは比べ物にならない真剣さで捜査に取り組む。その理由には組織的な面子もあるが、同じ釜の飯を食った仲間、という仲間意識も大きな影響している。
三つ目は質。
掲示板が避けて通れない問題の一つに荒らしがある。ある程度の論争は活性化に役立つが、言い争いはエスカレートするものだし、それを煽るお調子者は必ずいる。それ以外にもデタラメ、でっち上げ、意味のない書き込みが掲示板の情報密度を薄くし、質を低下させる。
しかし、ディストピアでは荒らしやデマなどを行うと、専用ブラウザの中の隠しパラメーターが減って最終的には専用ブラウザそのものを削除してしまうらしい。このシステムによって不要な書き込みは限りなく抑えられている。
と、ここまで説明を聞いて疑問が浮かぶ。
「ってかスマホアプリでコピーってどうやんの?」
このファブレット――OSはAndroid――の場合、アプリはグーグルプレイからダウンロードするのが一般的だ。そうでない場合、グーグルプレイのようにサイトにアクセスして自動的にインストールされるサイトもあるが、大抵はapkファイル形式で配布されたものをダウンロードしてからインストールする。
仮に後者だとしてapkファイル自体にコピー制限がかかっているとすると、それではコピーして受け渡しができない。ダビング10で録画した番組は、コピー先からダビングはできないがムーブは可能だったりするが、それも著作権保護規格で色々と取り決められている。SDカードや機器の側での規格制限もなしにアプリだけでアップロードできないようなコピー制限と移動制限をかけているというのだろうか?
「おっ、さすがミキ! ソッコーでそこに気づいたか」
「スマホ使ってりゃ誰でも気づくよ、こんくらい」
「ヘイヘイ、オレはどうせ並み以下の頭ですよ」
「頭じゃなくて神経の問題だろ。ユウちゃんは大雑把過ぎるんだよ」
ユウちゃんは、使えればいい、という感覚で警戒心なく使うタイプの人間だ。何しろグレーなアダルト系の動画配信サイトやアプリ配布サイトにアクセスしまくっていたクセにウィルス対策ソフトの一本も入れていなかったほどだ。挙句、ウィルスに感染して、アダルトサイトにアクセスしてウィルスに感染したなんて親に言えず、僕のところに相談に来たこともある。僕もそれほど詳しいわけじゃないのに……。
「大体みんなオレみたいなもんだっての」
「で、それはいいからどうやってアプリの受け渡しすんの?」
「赤外線つかって直接コピーすんだよ。どういう仕組か知んねーけど受け取り側が『提供元不明アプリ』のところ許可にして通信すっとそれでインストされるんだよ」
なるほど。僕もアプリを自作できるようなスキルも知識もないので仕組みはわからないが、apkファイルなし――少なくともフォアグラウンドでは渡されないならロースキルユーザーにはどうしようもない。Android端末なら赤外線ポート付きのものも多いのである程度使える受け渡し方法だ。
「でも、それじゃ荒らし防止の役は立たないんじゃない? 複数端末持ってるヤツなんてザラなんだから自分で自分の端末にコピーすりゃいいじゃん」
仮に某人気ライトノベルのゲームアプリのようにコピー回数が一回きりだとしても複数端末が不可能ではない現実では自分のスマホAからスマホBへとコピーしてからAで荒らし。その後、Aが自動削除で消えてしまったらスマホBからスマホAへ孫コピー。その次は孫コピーからひ孫コピーへと繰り返していけば無限に荒らしを続けられる。
「それもムリ。どうしてかってーとコピー可能回数はゼロだから」
「は?」
「隠しパラみたいなのがあって自動削除するっていったろ?」
「うん」
「それと同じでコピー回数もパラで変化するんだよ。サイトへの投稿回数とか質、あとは他のユーザーの反響とかでディストピアの優良ユーザーって判断されるとコピー回数が増えるって仕組みなんだよ」
なるほど。実際にどのくらいの書き込みでコピー可能になるのかは知らないが、荒らしのためだけにプラスポイントされるような書き込みをしてコピー権利をゲットするのは手間だ。
「他に質問は? つってもオレじゃこれ以上説明できないけど」
「……ない…………かな……」
「んじゃスマホかタブレットだせよ」
ファブレットをタップして何やら操作しながら言う。
「? 出してどうすんの?」
「オイオイ、ここまで話したんだぜ? ミキにコピーすんに決まってんじゃん」
まあ、たしかに話の流れはそういう感じだった。しかし、
「でも、投稿しないとコピー権利ゲットできないんだろ?」
無道遊路という名前と刈込+あご髭+ピアスという外見の印象で不良っぽく見られがちだが、ユウちゃんはこれで結構真面目だ。タバコを吸うくらいはしている(これも一応法令違反ではあるけど)が、人さまに被害が出るようなことはしていない……はずだ。
「どうやってコピー権ゲットしたんだよ?」
「あー……」
追及するなり口調が澱み、目が泳ぐ。あからさまに怪しい。というか、サイトの趣旨から考えて罪状は不明だが間違いなくクロだ。
「ワリぃけどそっから先は教えらんないんだわ。知りたきゃディストピアにアクセスしてくれ」
「共犯になれってこと?」
「べっ別にミキがなんかしたってことにはなんねえだろ!」
気まずさを含みながらもユウちゃんはニヤリと悪い笑みを浮かべる。
まあ、たしかにそうだ。違法アップロードされた動画コンテンツだってダウンロードは違法だが、サイトにアクセスしてみるだけなら合法だし、ディスクキャッシュからの再生だって違法ではない(ディスクキャッシュを移動したりすると違法だが)。アプリをもらってアングラサイトを見ただけなら違法ではないし、サイトで犯罪行為の報告や予告を見たところでいちいち通報する義務はない。
だが、サイトとアプリの説明を受けた上でコピーを受けるということはユウちゃんが『何か』犯ったことを知った上で受け取るということだ。その上、口ぶりから察するにコピー権獲得のために『やらかした何か』はサイトを見れば明らかになる。
そうなると選択肢は二つ。
その一・犯罪の証拠を持ってユウちゃんを突きだす。
その二・ユウちゃんを庇って黙っている。
道徳とか正義という言葉は好きではないが、社会的には一が正しい。しかし、親しい人間を突きだすということに躊躇いがある。十年以上の付き合いで、しかもユウちゃんは僕を信用してこのアプリの話を持ちかけてくれたのだ。おそらく同僚の犯罪を隠匿する警官もこんな心境なんだろう。
そんなことを思いながら、少し逃避気味に思考を逸らす。
今、ユウちゃんが何をしたのかは知らない。親しいがインドア派の僕と他の友人たちとつるんでツーリングに出かけたりすることも多いユウちゃんはいつも一緒というわけではないから普段何をやっているのかなど知らない。
しかし、何か(それもおそらく複数回)やらかしたことは確実だが、現実問題ユウちゃんは捕まってなどいない。
そう。犯罪というならガムを吐き捨てるだけでも、立ちションするだけでも犯罪なのだ。
もちろん、そんなことでコピー権を獲得できるとは思えないし、そんなことをチマチマネットに上げている友人もそれはそれでイヤなものがある。友人に犯罪者になってほしいわけではないがどうせやるならデカいことやれよ、と言いたい。
どんどん思考を逸らし、最終的にアプリをコピーしてもらっても使わなければ証拠を目撃することもないと完全な逃避結論に達した。
もらうだけもらって黙っているのが一番、という小市民的な発想に落ち着いた僕は黙ってタブレットを取り出し、赤外線ポートをユウちゃんの側に向けた。タブレットを出したのは個人情報の詰まったスマホにインストールする気にはなれなかったからだ。
「さすがだぜ、心の友よ」
気まずさの欠片が消えて純粋な悪さだけとなったニヤリ笑いを浮かべながら、『心の友』などという某国民的アニメのガキ大将キャラ以外は口にしないようなセリフをとともにファブレットをタップ。わずかに遅れて僕のタブレットのステータスバーにアプリ更新の時のような通知が現れ、インストールが始まった。
「アクセスしてみろよ」
少ししてインストールが終わるとユウちゃんが魔の道へと誘ってくる。
正直、いきなりアクセスするのは怖い。このタブレットはグーグルのアカウントもスマホとは別のアカウントなので大して重要ではないがそれでも学校の無線ラン経由でアクセスするのは躊躇われた。臆病者だと笑わば笑え! 僕は石橋を叩いて渡るタイプなんだ。
しかし、僕が言い訳を思案する必要はなくなった。
もともとホームルームの何十分も前に登校するようなタイプではない僕らがアプリについての説明、質疑応答、インストール作業、やっていればタイムリミットが来るのは当然。チャイムの音に慌てて二人揃って階段を駆け下りたおかげで、校内にいるのに遅刻、という間抜けな遅刻はせずに済んだ。