前編
その日、俺、桜井和司は急いでいた。
恋人である美麗に送ったはずの誕生日プレゼントが住所不定で戻ってきたのだ。
まさか、と思った。先週末には、普通に買い物デートを一日中楽しんで笑っていたのだから。
それが、受け取り拒否ならまだともかく(それはそれでショック過ぎるが)、住所不定?
いくらなんでもあり得ないだろう。
だが、降り注ぐ解かされそうな痛みを伴う夏の日差しの元、汗だくで最後の角を曲がり彼女のアパートを訪れた俺を待っていたのは、表札の剥げた何度も来慣れたはずの二階の角の部屋、誰も居ない荷物も消えたがらんどうの一室だった。
何時間経っただろう。
放心したまま誰もいない無人のアパートの目の前の小さな公園、その中にポツンと佇む一つだけのブランコを占領した俺は、気が付いたら地面をずっと眺めていた。
数時間、あちこち駆け回って探し続けた。全てが徒労に終わり、何も考え付かずフラフラと元の場所に戻ってきた。気がついたら日が暮れていた。
夕闇に包まれたまま、のろのろと頭の中が動き始める。
いつまでもこうしていても始まらない。
彼女を探さなければならない。何があったのか、知らなければならない。せめて、彼氏として。
あの後彼女の実家として教えられた、まだ一度も掛けた事の無かった番号に掛けてみた。
番号をお確かめになって、と声が聞こえた。
彼女を何度も迎えにいった駅前の、彼女の努める会社に電話を掛けてみた。
番号をお確かめになって、と声が聞こえた。
頭がおかしくなりそうだった。
あちこち走り回って気が付いたらここにいた。
いったい何が起こっている?
彼女はどこに行ってしまった?
のろのろと頭を上げる。
目の前の交差点の角に設置された鏡の中と目が合った。
カーブミラーが完全に、真っ正面になって俺の顔を写していた。
俺、桜井和司は理論派である。学生時代、バリバリの陸上部であったが理論派である。
理論派過ぎて理屈屋なせいで、考えすぎて感じる事ができなかったおかげで、県予選の壁を突破することが結局最後までできなかった。
部活に費やした12年間は、全てが無駄と成り果てた。徒労に終わり、人生にも進路にも何一つ役には立たなかった。
けれど、走ることは好きだった。日課の早朝ランニングは卒業してもずっと毎日続けていた。
それが、止まった。初めて途切れた。休日だったにもかかわらずだ。
前日俺は、会社に休暇願いを提出していた。一週間だ。
昔彼女に聞いていた、三つ隣の県の彼女の実家に行ってみるつもりだった。そこで会えるとは思えない。けれど、何もしないで終われなかった。
会社はもちろん良い顔をしなかった。が、ちょうど有休の消化率について監督署から査察が入りそうな気配があった頃だった為もあり。苦虫を噛み潰したような顔をして、しぶしぶ受理をしてくれた。
本日の仕事を終えたその足で、最終の夜行に乗った。途中、なぜか何度も臨時補修やら異常点検やらで電車が止まった。それでなくとも短い区間のローカル線の鈍行に何度も乗り換えしないといけない山間の場所だというのに、だ。焦って列車などに乗るのではなかったと何度も悔やむ。飛行場からも遠く離れているし、車で行くよりも疲れないし速いと思ったのだが。まさか必死に確保した有休の最初の一日半を移動だけで使うとは予想外もいいところだった。それでも、タクシーに乗り換えようとは思わなかった。なぜなら、どう考えても、県越えのタクシー料金など、とんでもない事になるのが目に見えていたからだ。こんな時でも響いてくる懐の寂しさに、情けなさに泣く。
それにしたって、と思い出して頭を抱える。なんだよあの、ガラスの塊が線路に落ちていたとか、進行燈が青にならなかったとか、ミラーがおかしな方向を向いていたとかいう、連続した嫌がらせの様な邪魔な悪戯の数々は。いい加減にしてくれよ、本気で急いでるんだってのこっちはさ。
ムカムカする程の焦りの中、二度乗り継いで、丸一日以上かけて山道のローカル線の始発に飛び乗ったのは、有休二日目の明け方だった。
茹だるような昼下がりの山奥の終着駅。崩れかけた駅舎の無人駅に俺は汗だくで降り立っていた。
「……暑っちぃ」
今年の夏は全国的に異常なくらいの酷暑となった。サウナのような暑さと湿度に包まれて、日本とは思えないほどの緑の匂いにむせ返りながら駅を出る。
まさか二日かかるとは思わなかった。いくらなんでも国内、しかも同じ本州内でかかりすぎだろ。
あの後も、単線の電車がなぜかいきなり止まったり、沿線で火事があったり、まるで誰かに邪魔されてでもいるかのように不可思議な事が続きに続き、遅れに遅れた。せっかく取った休みの四分の一も電車の上で過ごしてしまった。
こうなったら、せめて何かの手掛かりだけでも掴みたい。心底そう思った。
焦りは当然ある。だがここまで来たら、どうやら地味に覚悟が決まったらしく、妙な落ち着きが出てきていた。それにともない、しばらく気にもしていなかった周囲の音が意識の中に戻ってくる。
カナカナと啼く虫の群れがあちこちから耳を圧する音を奏でる。
太陽すら隠れそうな頭上を覆う枝の大群。それでも欠片も涼しくならない熱気の前で、どこの公共事業の成れの果てか、秘境の中に目が覚めるような綺麗な道が走っている。融けて張り付きそうなアスファルトの上に荷物を降ろし、汗を拭いた。
左右を見渡せど、家一軒見えやしない。ケタケタと鳴きながら飛び去る鳥の大群に、小さく慄き唾を飲み込む。
「……こんな所に村とかほんとにあんのかよ……」
呟く声にも力が無い。どちらに向かえば良いのかも分からず途方にくれて空を仰いだ。
と、そこへ、小さな足音の集団が横道を登ってくる音が耳に届いた。どうやら、集団登下校の班行動の一団らしい。
(ついてるな、こりゃ……)
少しだけホッとし小さなラッキーに微笑んで、子供の群れに顔を向けた。そのまま笑顔が凍りつく。笑顔を浮かべた表情のままで顔面筋が固まった。
「君たち、ちょっと道を聞きたいんだけ、ど……」
かけた言葉が尻すぼみに小さくなって拡散した。
誰も彼もがおかっぱだった。10人はいると思われる女の子だけの集団下校。そのすべての髪が肩まで伸びたおかっぱだった。日本人形のようなその一団が、規則正しい足音を立てながら目の前で同時に止まりこちらを向いた。
さすがにぞくりとした。
向いた黒目が鏡みたいに黒く光った。
唾を飲み込む。が、今は昼間だ。いくらなんでも幽霊という事はあるまいさ。
そう自分を納得させ、気を取り直して先頭の少しだけ大きな少女に質問する。
「お嬢ちゃんたち、すまないが、道を教えてくれないか。この近くに【古鏡村】というところがあると思うんだけど、どっちに行けばいいか、知らないかな? 知ってたら教えてくれると嬉しいんだけど」
黒目の瞳が少しだけ大きさを増して白目を減らす。少女はじっとこちらを見上げ、小さな声で口を開いた。
「私たちの村が古鏡村です。何のご用でしょうか?」
と、まるで風鈴の鈴音のような声で答えた。
運がよかった、と
心底そう思った。
「君の村の出身の、賀我見美麗さんの知り合いの者なんだけど。ここ数日彼女と連絡が取れないんだ。もしかして実家に戻っているんじゃないかと思って、以前教えてもらった住所を尋ねてきたんだけど……美麗さんの姿、見かけてないかな?」
落ち着いて言ったつもりだった。切羽詰っているようには感じなかったはずだ。だが、なぜか少女は大きく瞳を見開いた。独特の巨大な黒目がさらに広がり、まるで瞳孔が開いているようにも見える。
(こ……怖くなんてないぞ)
意志の力で目を逸らさずに見つめ続ける。そう思って睨む様に見つめ続けた自分こそ、実は少女を怖がらせてしまったのじゃないだろうか? そう気付いたのはしばらくしてから。そうでないと良いんだが、とようやく気づき、目をそらしながら気まず気に思う。
「あの……」
黙ったままの少女に向けて、もう一度恐る恐る声をかけると、少女の瞳孔は小さくなって収まった。つばを飲み込む。猫みたいなスピードで動く瞳だ。子供の目って、こんなんだったっけ……?
「……ついてきて下さい」
美麗が居るとも居ないとも言わず、少女は一団を率いて歩き出す。先頭の少女以外は誰一人何もしゃべらない。
仕方が無いので俺も続いた。このままここにいても、休憩する場所すら無いと分かっていたから。
なんにせよ、手掛かりの一つくらい手に入れないと、帰るに帰れない。会社と上司に目をつけられながらも休んだ甲斐がないというものだった。
少女が歩き出した。その先は真新しい道路に似合わぬ程に鬱蒼とした森の中だ。左右から蔦の絡まる木々たちが、縦横に枝を伸ばし、コンクリどころか枠すら無いのに、自然のままで綺麗なアーチのトンネルを形作っている。まるで名所だ。幻想的な光景の中へ、俺は釣られて入っていった。
アーチを抜けると花の国だった。
色とりどりの初夏の花が、学校の校門前の坂道よろしく、綺麗な道の両側に延々伸びて続いていた。
なぜか先ほどから車一台通らない道を。後ろについて歩いてゆく。
そういえばこれだけ綺麗なのに全く車の通行が無いのだが、大丈夫なのだろうかこの道は。ど真ん中を歩きたくなるほど誰も何も通らない。
そんな幻想的な道行を30分程続け、左に見えた横道に入りそのまま登った先に、その村はあった。
【ようこそ、古鏡村へ】
と書かれた朽ちた看板が傾いでいる。
元は観光地だったのか?
そう聞くと、昔は手鏡の生産で、それなりに裕福な暮らしだったとのことだ。今は廃れたらしいが。手工業を維持出来ないほど過疎化したのが原因らしい。
残念なことだ。美麗の持っていたたくさんの鏡たちを思い出す。たしか美しい装飾が施されたものが多かったのを覚えている。
あれがその製品ということなら、今でも欲しがる奴はたくさん居そうだ。村自体が廃れさえしなければ、今でも観光地だったのではないだろうか。もったいない話だった。
「案内してくれて、ありがとう」
そう言うと、少女が初めて笑顔を見せた。可愛い、すごく可愛い。可愛いのは確かなのだが、なぜか一瞬怖く映った。……一瞬、黒目しかなかったように見えたのは、木陰の見せる錯覚だよな?
少女にもう一度お礼を言い、賀我見家の場所を教えてもらった俺は、少女と別れてその家に向かった。
間違えるはずも無い一本道。その道をゆっくり進む。
途中で三又に分かれたが、全体でも30軒あるかどうかといったところなので、道には迷わず済みそうだ。実にこじんまりとした村……集落という言い方の方が適切かもしれない。
一軒一軒はわりと近代的で新し目な所が、どこかの建て売り新興住宅街、〇〇タウンの一角を思わせて微妙にちょっと情けない。
それでも、右の道に曲がっていくと、古い家々が数軒残って佇んでいた。
表札を見る。美麗によれば古臭い家とのことだったが……まさに賀我見家はその言葉通りの様相でそこにあった。
というか、今にも崩れ落ちそうだ。本当に人が住んでいる建物なのかここは?
疑いながら呼び鈴を押す。まるで鳴らない。
数回かけてカチカチ押した後、そこだけ妙にぶ厚い扉をノックしてみる。返事が無い。
まさか、本当に誰もいないのか?
「……あンのぉ」
背後から小さな声をかけられて、大人気なくも飛び上がりそうになって、ギリギリで何とか耐えた。先ほどのおかっぱ少女だった。
「な……何?」
少々どもって尋ねる。
「賀我見さん宅の皆さんは、おられませんよ」
「は……え?」
理由を聞くと、どうやら数日前から全員不在だとのことだった。
だったらなんで駅で聞いた時、教えてくれなかったのか。さっきだって言えたはぅだ。完全な無駄足じゃないか。そう言うと、「あの後は、今日の電車はありませんでしたから……」と聞かされて目を丸くする。
だって今はまだ夕方の4時前で、さっき駅に居た時はまだ午後3時にもなっていなかったはずで。
(ウソだろ田舎。ありえねえだろ、すげーよ田舎)
あまりにも仰天したので、泊まる所も決めてない事に気づくのが遅れてしまう。
なので、「よろしければ、うちにお泊りになられますか」という言葉にも、何の疑問も浮かばずに、何も考えず頷いてしまっていた。後から考えると、恐ろしい程の無防備さに戦慄するが、さすがに何か悪さをされる事は無かった。
ちょっと疑ってすみませんでした。
ただ、夕食に出されたメニュー全てに、何かキラキラとした小さな粉が混ざっていた位のものだ。俺一人でなく全員の器の中に入っていたし、里で取れる珍味とのことで、食べてみる。
美味かった。コリコリして何かの木の実のように思えた。普通に噛み砕いて食べられたし、味も悪くなかったので気づくとお代わりまでしてしまっていた。
タダで泊めてもらった上に有難くて申し訳ない。
翌日俺は、お礼を言って家を辞した。もし次に来る事があれば、菓子折りくらい持ってこよう。
そう考えて、ふと思い出す。
「……あれ? そういえば、苗字も名前も聞いて、ない……!?」
泊めてもらっておいてなんて失礼な奴なんだ俺は?!
今頃になって気づくとは……もはや駅に程近い。さすがに今から戻るのは躊躇われた。暑い上に、また電車を逃してもたまらなかった。
やはり、必ずもう一度来なくてはならないな、と強く思った。
帰り道、駅のそばの、昨日通った緑のアーチに差し掛かった時、ふと見上げた視界に自分の顔があった。
綺麗な道に点々とある、幾つかのカーブミラーが全てこちらを向いていた。
「……え?」
昨日もこんなだっただろうか?
ちゃんとカーブの先が見えていた気がしたのだが。
誰か事故でも起こしたのか?
そう思ったが、ミラーの角度以外にそんな形跡はどこにもなかった。ミラーそのものにも傷は無い。
誰かの悪戯なのだろうか?
理由は分からないが、なんにせよ、自力で直せるものでもない。ただ、このままでは少女たちの登下校にも不便だろうし危ないので、電車に乗ってある程度進んだ先で、携帯のアンテナが立ったのを見計らって、行政に連絡を入れておいた。これで直してくれるだろう。
これら一連の不可思議な出来事を、俺は軽く考えていたのだった。そう、この時までは。次にあのことがあるまでは。とても軽く、考えていた。
そしてそれは間違いだった。とてつもなく大きな大きな間違いだった。
悔やんでも悔やみきれない。
すべては俺のミスだった。
その日、地方ニュースの一角に、ローカル線の沿線全てのミラーの向きが変えられるという悪戯があったとテレビで流れた。地方のローカル番組だった。俺の目には留まらなかった。
その一連の変えられたミラーの向き。それは、俺が電車で向かっていた、俺の街の方角だった。
続く。