追越し禁止
盆の入り、できることなら変なものを迎え入れるのは御免蒙りたいものですねぇ…
それは茹だるような暑さが続くある夏の夕暮れのことです。
西の空には太陽が熾った火のようにゆらゆらと揺れ、人々は照りつける光に服従するように頭を垂れながら往来を歩いています。そんな中、あなたは同じく蒸し暑い空気に顔を顰めながら歩道橋を自転車で渡っています。
向かい側はもうそこまでに迫ってきていて、橋の右手には青々とした草に包まれた土手が続いています。あなたはふとペダルをこぐ足を止めます。ギアがカラカラと音を立てる間にあなたは暫し考えます。
普段は通ることのない堤防の道。
噂に上る堤防でもあります。…あまり聞こえの良くない噂が立つ場所です。
川原からは風が吹いているらしく、草花がそよいでいるさまが遠目にもうかがえます。のどかな風景を目の前にして変に身構える方が滑稽な気さえします。この堤防を通っていった方が狭い路地を掻い潜って行くよりも断然早いに決まっています。それであればこんな見渡しの利く堤防を横切っていくことに何を躊躇うことがあるのか?あなたはあまりにもバカバカしく思えて少し笑ってしまいます。
あなたは再びペダルを踏みます。
自転車は次第にスピードを上げて橋を渡り切ります。そうしてあなたは右の方にハンドルをきる。目の前には水色と白のストライプに塗装された看板が現れ、『あらせ川』と表記されています。看板の縁は赤錆が侵食しています。その片隅に小さな落書きを見つけ、あなたは思わずブレーキをかけます。
『振り返るな』
黒いマジックで書かれた文字はそう読み取れます。あなたはその落書きを凝視しますが、なんの特徴もない筆跡です。男が書いたのか、女が書いたのか、それすらも判断がつけられない筆跡です。あなたは首を傾げながらペダルをこぎ始めます。
その標識はそんなタイミングで都合よく現れました。
一見すると『止まれ』の標識のように逆三角形の赤く縁取られた警告標識ではありますが、白文字で印字された文言は『止まれ』ではありません。
『追越し禁止』
あなたはまた首を傾げます。
一般教育を受けてきたあなたは当然ながら訝しがります。「こんな標識あったっけ?」と。あなたは気味の悪さを覚えてハンドルを切ろうとします。ですが、先程の落書きがフラッシュバックとなって脳裏を横切っていきます。
振り返るな。
今なら引き返してもまだ取り返しがつくかもしれません。しかし、あなたは背中に妙な寒気を覚え、なかなか自転車を方向転換させることができずにいます。
眼前には何の変哲も無い長閑な川辺の風景が広がっているだけです。
けれどもここは噂になるほどの有名な堤防です。「あの堤防を渡ると良くないことが起こる」と。あなたは暫くその場に立ち止まります。自然、焼けたアスファルトから熱気が立ち上ってあなたの身体は火照り出します。その熱があなたの心から余裕というものを次第に奪っていきます。
早く家に帰ってシャワーを浴びたい。
クーラーの効いた部屋で涼みたい。
こんな長閑な風景の中でぞっとするようなことが起こり得る訳がない。
バカバカしい。
あなたはそう思います。当然のことです。起こりもしないことを恐れて立ち竦んだ挙句、熱中症にかかって倒れたとあってはいい物笑いの種にしかなりません。あなたは行動を取らなかった時のバカバカしさを自分に言い聞かせて再び自転車をこぎ始めます。
川原から吹き上げてくる風は想像以上に強く、そして涼やかです。
その風が衣服の繊維の合間を吹き抜けていき、背中から湿った服を剥がしていきます。その風の流れが本当に心地よく、思わず空を仰いでしまいます。
東の空はだんだん群青色に染まっていっています。水面はオレンジ色に輝き、対岸の洒落た造りになっている住宅はくっきりとした影を落としています。辺りを見回しながら自ペダルを踏む度に風があなたの身体を優しく撫でていきます。
その時です。
あなたは不意に何かが視界に飛び込んできて慌ててハンドルを切ります。
白いセーラー服。
それはおさげ髪の女子学生でした。中学生か高校生かは分かりません。あなたは興味につられて追い抜きざまに少女の顔を覗こうとします。
彼女の瞳は前髪に隠れていてよく見えません。しかし、あなたはその小さな口元に張り付いた笑みを見て背筋に冷たいものが走る感覚に襲われます。
あなたはペダルを踏みます。嫌な感触を払拭するように。
堤防の向かい側まで後半分といったところです。
自転車はあなたの思いを受けてぐんぐんとスピードを上げていきます。視界が速度を上げるにつれぐらついてきます。しかし、それでも尚あなたはペダルを踏み続けます。あの女の子は一体何なんだろう?その疑問があなたの頭に染みとなって侵食してこようとしています。ですが、あなたは頭を振ってその疑問を振り払おうとします。
早くこの堤防から立ち去りたい。
その気持ちがどこから来ているのかあなたは一番よく知っています。突然のこととはいえ、誰かを追い越したこと。そして、後ろを振り返ったこと。警告を無視したそのバツの悪さがあなたの心にまとわりついてきそうな気がする。それから逃げるようにしてあなたは自転車をこぐ。しかし、あなたの頭にはもう一つ思い出したくないことがフラッシュバックとなって蘇ってきています。
堤防にまつわるいわく話。
詳細の一つ一つが無数の触手となってあなたの身体を舐め回してきます。
夜に起こった轢き逃げ事件。
大学生の三人組は道端で倒れて動かなくなった女子学生をトランクに詰めてこの堤防までやってきました。そうして酷く傷んだ死体を土手の上から転がし落とす。「こうすればここで轢き逃げされたことにできるだろう」という浅はかな考えが大学生たちにはあったようです。女子生徒の遺体が発見されたのは翌日の出来事でした。司法解剖の結果、少女はこの川原に捨てられた時点でまだ生きていたという結論に至りました。死因は出血多量に因るものと断定されました。発見当時、四肢は通常ではありえない方向にへし曲がり、そして纏っていた白いセーラー服は真っ赤に染まっていたそうです。
あなたは記憶の糸を断ち切るように頭を振ります。
今はそんな話を思い出している場合じゃない。後ろには何か得体のしれない恐怖が蠢いています。自転車は更にスピードを上げます。あなたの思いと連動するように。
その時です。
あなたの耳は確かにその音を捉えました。
何かが擦れる音。
いや違う。
それはちょうど人が跛を引いた際に靴の先が地面を摺っていく時の音のように聞こえます。そうしてそのぎこちなく歩行する音の数々がだんだんと鮮明になり、大きくなっていきます。自転車はスピードを上げ、風を切る音が響いているのにその音だけ異様なほど鮮明に聞こえます。あなたの耳が捉えた背後に広がる世界は確実に誰かが足を引き摺りながらあなたに接近している様を伝えています。
訳が分かりません。
どうやったら人が足を引き摺りながらトップスピードに近い自転車に追いつけるのか?どう考えても有り得ない話です。しかし、その有り得ないことが今起こっている。そのことがあなたの頭をどんどん混乱させていきます。
あなたが操る自転車は蒸せるように湿度の高い空気を割ってアスファルトの上を突き進んでいきます。しかし、あなたを追う足音は一向に離れていこうとしません。むしろペースはそのままにあなたとの距離を着実に詰めてきているように聞こえます。更にあなたの耳はもう一つ輪郭を露にしようとしている音を捉えます。
それは鼻息のようでした。
口を封じられたまま激しく運動しているのか、その息は次第に荒くなっていきます。その鼻息があなたのうなじに触れ出す。気味の悪さにあなたは腰を上げ、立ちこぎで自転車を駆ります。
自転車は今やこれ以上だせないほどスピードを上げています。
あなたは背中に無視できない何かが忍び寄っていることを否定できません。そしてその何かを振り払うことすら適いません。そんな状態であなたは自分の視界に信じられないものが飛び込んでくるのを直視してしまいます。
黒い髪。
風に乱れ泳ぐ髪、それも三編みに結った長髪があなたの頬に、そして瞼の上でしなります。横顔に何かが迫ってきている。その感触はもう錯覚などという次元の話ではありません。その瞬間です。あなたは耳元で爆ぜる音を聞いてしまいます。
女の子の笑い声。
押し黙っていた何かは甲高い笑い声をあなたの耳元に吹きかけてきます。
そして何かがあなたの背筋を撫でていきます。背筋の次は肩。その感触は誰かがあなたの身体を手で触れている時のものに違いありません。自転車は推力を受けて加速し続けています。なのにどうして?どうしてその見知らぬ何かは絡みつくようにしてあなたに触れることができるのか?
なぜそうするのかはあなた自身にももうわかりませんが、あなたはペダルを踏む毎に「ごめんなさい」と声を漏らしています。早くこの忌まわしい感触が消え去ってくれると願って。
そうして気が遠くなるように思えた堤防の終着が近づいてきます。
五十メートルが二十メートルになり、更に十メートルをきってくるとまた少女の笑い声があなたの身体にまとわりついてきます。あなたは思わず目を閉じてしまいます。
その刹那、あなたの耳は全く違ったものを拾います。
けたたましいクラクションの音。
あなたは思わずブレーキをかけていました。両目を開くとそこには大型のフルトラクタートラックが停車していました。
「どこ見てんだ、バカヤロウ!」
開け放した窓からTシャツ姿の運転手が強ばった表情で罵声を浴びせてきます。そしてトラックは轟音を立てて大通りを走り去っていきます。
あなたはようやく後ろを振り返ります。
そこには夕暮れ時の堤防があるだけです。あれだけあなたを追い回していた気配も物体もそこにはありません。あなたは家路を急いで帰ろうと思い、乳酸が溜まった両足を再び動かし始めます。
空は淡い黄色から紅色へと模様替えし、あなたは夕闇が差し始めた市井の中を通り過ぎていきます。いつもは誰かしら知り合いと出会う勝手知った道。けれども今日は人っ子一人いません。あなたはいつもとは違う感じに少し戸惑います。自然にペダルを踏む足に力が篭ります。
「あら、おかえり」
そう声をかけてくるのは近所のおばさんです。打ち水を撒く手を休め、腰をさすりながら手を振る。そんないつもの光景にあなたはやっと息をついて自転車を停めます。
あなたは笑顔で挨拶を返す。しかし、そのおばさんの顔から笑みが薄れていきます。そして首を傾げる。後ろに見える門は開け放しになっていて、中からは子供達のはしゃぎ声が聞こえてきます。おばさんはあなたに向かって声をかけます。
「可愛らしいね。妹さん?」
ペダルに置いた足が硬直します。
あなたはそっと後ろを振り向いてみます。耳には微かにですが、声が余韻を残しています。少女のか細い笑い声が。紺色のスカートから覗く白い両足はスタンドの上に揃っておかれています。白いセーラーに赤いリボンが風を受けてそよいでいます。あなたは表情が引き攣っていくのをどうすることもできません。
風に揺れるおさげ髪と前髪。
あなたは口を半開きにし、唇はもう震え始めています。対面に待ち構えている赤く小さな口が微笑みながら開きます。
やっと気づいてくれた?
もっと喜んでよ。せっかくあなたが撒き散らした作り話が現実になったんだから。