表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

羊の短編集。

穢れなき白。

作者: シュレディンガーの羊





白い世界で歌うのには

あまりにもその唄は鮮やかだった。





教室から沈む夕日を見ている。

染まりゆく町並み。

黄昏に色づいて揺れるカーテン。

鮮やかに染め変えられていく世界を見つめている。

けれど、永遠に思えた夕暮れはいつも唐突に時を止める。

よどみなく流れていた時は不意に途切れていく。

景色が写真のように細切れて、はらはらと視界を花びらのように舞う。

そうして触れようと伸ばした指先をかすめていく。

たくさんの景色が風にさらわれていく。

やがて風に千切れて小さなかけらになった景色は雪に姿を変える。

それは広げた掌に触れた刹那溶けていく。

見つめる心に降り積もるのは色は白。

悲しみの、空白。

震える唇が何かを紡ごうとして。

――そうして今朝も目が醒めた。



覚醒した視界に初めて映った色は、凍えた吐息の白だった。

そのまま少しの間、天井を見上げる。

この夢を見た日はいつもこうだ。

理由のない虚無感が付き纏う。

それでもそれに逆らい緩慢に身を起こし、ひどく冷たい床に爪先を下ろす。

このまま無為に時間を使うわけにはいかない。

今日は君に会う日なのだから。

そう思えば心に冷たい痛みが走る。

心臓が凍てつく空気に触れ、微かに震えた気がした。



ドアを開ければ白い病室は今日も静謐な温度で、私を迎えた。


「今日は寒いな」


ベッドに体を起こして窓の外を見ていた君が、私を振り返る。


「会って早々にそれなの?」

「季節の挨拶だと思えばいいさ」

「毎回聞いてたら、さずかに飽きるよ」


苦笑を零してベッドの傍らに椅子を引き寄せて座る。


「それより調子はどうなの?」


自然体をよそおって、何気なく尋ねる。

途端に君はすっと冷めた顔になる。


「もう【雪】がひどい」


ついと手が私の頬に伸ばされる。

私は何も言わずに君を見つめていた。

けれど、その手は私に触れることなく再び下ろされる。


「実はもう顔がよく見えない」


その言葉を聞いて唇を噛んだ。

そうしなければ崩れ落ちそうだった。

君は静かに先を続ける。


「記憶も途切れ途切れで、時々何もわからなくなる。あの瞬間は悪夢だ。我に返るといつも一番によかったと思う」

「まだ」


震える声で縋るように確かめる。


「私のことわかる……?」


君は影のある瞳で柔らかに微笑んだ。


「わかるよ、懍花」




記憶欠如型幻覚症候群。

原因不明、治療法不明の病。

発病者は過去の記憶がだんだんと途切れ途切れになる。

間の記憶を失った違う記憶同士が結び付き混乱し混濁し、そうやってすべての記憶を失っていく。

今日起こったこと、大切な思い出、そしてかけがえのない人のことさえ、その病は容赦なく奪っていく。

曖昧になった記憶は、やがて精神をも蝕み発病者は夢と現実の区別が難しくなる。

そして、その病の最も特徴的なのは幻覚症状。

【雪】が、降るのだ。

もちろん正しくは雪ではない。

白く小さなかけらが視界に舞うのだ。

病気が進行するのに従い、その量は増え、やがては視界を真っ白に染める。

その病が命を奪うことはない。

ただ、記憶を失い、視界を失えば。

彼らはやがて自分を失う。




病室を後にして、雪の降る中あてどなく歩いていたつもりなのに、気づけば学校に来ていた。

閉め切られた校門を乗り越え、校庭の真ん中に向かって歩いていく。

昨夜から朝にかけて降り積もった雪にひとりきりの足跡が刻まれていく。

さくり、さくりと静寂のなかで雪が音をたてる。

吐いた息の白さに不意に泣きそうになった。

自然と歩みが止まる。

助けを乞うように喉をさらして仰向く。


「――――――」


今朝見た夢で紡ごうとした言の葉。

涙が溢れそうになって、目をつぶる。

見たくないものを見ないための術。

小さな子供でさえ知っているそれ。

けれど、君は私を見る。

柔らかな瞳で穏やかに私を映す。

いつでも。

例え、【雪】がその視界を奪っていても。

例え、【雪】がその記憶が曖昧にしても。

記憶を、自分を、失う恐怖を逸らさず見つめる。

本当は君の目を塞ぎたかった。

真綿で首を絞められるような、残酷で緩慢な崩壊から解放してあげたかった。

私がいつでも傍にいて、君が君でなくなるまでその目を塞ぎたかった。


「でも」


目を開く。


「それじゃだめなのね」


視界いっぱいに雪が降っている。

世界を悲しみに染める白。

凍える夢はすぐそこまできている。

今朝の夢のようにやがて夕日は沈み、糸は途切れ、【悲しみ】が積もる。

泣きそうに笑って祈るように、縋るように空に手を伸ばす。


「君はまだあの唄が聞こえる……?」


涙が一筋、頬を伝った。




私は病気で自分をなくしていく人を見たことがある。

君を見舞ったあと、病院の廊下で彼女に出会った。

怯えるような瞳が見えない何かから、目を逸らそうと忙しなく動いていた。

すぐに発病者だと気づいた。

それから君の病室をあとにするとき、何度か彼女を見かけた。

話したことはなく、名前しか知らなかったけれど、君と同じ病を患った彼女に好意を持っていた。

怯えている彼女が、いつか笑ってくれたらいいという小さな祈りさえ抱いていた。

けれどあの日、最後に彼女を見た日、彼女は空を舞う何かと戯れるようにくるくると踊り楽しそうに笑っていた。

その時、私が抱いたものはうまく言葉にできない。

夢を見ているような恍惚とした表情。

穢れを知らない真っさらで純粋な笑顔。

生まれたての子供のような無垢な瞳。

それゆえに何も見えていない空虚な双眸。

祈りは確かに叶えられたはずなのに、上手く息が吸えなかった。

世界が真っ白に、悲しみに染まって、忘却の痛みに塗り潰されても、人はいつか笑えるのだ。

違うと思った。

こんなのは違う。

けれど、何が違うのかがわからない。

視界を奪われ、記憶を失い、自分が壊れてしまっても、いつか、人は。

それを理解した時、何かが崩れ落ちた。

大切にしていた何かが音もなく壊れ、後には空虚な絶望だけが残った。

そう、いつか君も――――――




校庭の真ん中で忘れられた唄を歌う。

瞼の裏で君と教室から見た夕日が、色褪せて沈んでいく。

あの時、君と私で歌ったこの唄を君はもう覚えてない。

思い出してほしかったのに、私は君の前で歌えなかった。

それは、きっとわかっていたから。

私が歌っても君は二度と歌ってくれないことを。

それがわかっていたから、もうこれ以上思い知りたくなかった。

君の思考を、君の感情を、白は次第に塗り潰していくだろう。

いや、もう忘却は始まっている。

以前の君なら私の声が悲しみに揺れたのが聞こえたら、手を伸ばしてくれた。

大丈夫だと私の不安を振り払ってくれた。

私のことを、好きだと言ってくれた。

溢れる涙を拭かずに、歌いつづける。

歌うたびに掌から何かが零れていく気がした。はらはらと雪が視界を舞う。

――――本当はわかっていた。

最後の音が空気に余韻を残して消えた。

天を見上げ、悲しみのままで笑う。


「私も。なんだよ……」


夢で囁こうとした言葉がそうして世界を震わせた。




初めは夢だった。

けれど、それはいつの間にか現実と同化した。

視界に舞う羽毛のような白。

手を伸ばしても触れられないそれに、頭の冷静な部分がうなづいた。

あぁ、そうか。

これが、【雪】か。

これが君の見る美しく非現実的な景色。

これが君を蝕む忌わしき幻想的な風景。

泣きたいような笑いたいような、不安定な衝動は雪のように静かに降り積もった。

そして、私は決めた。

白く降り積もったそれに、黒い足跡を刻むように。

私は君が壊れるまで傍にいる。

そうして、降りしきる白から目を背けた。




白い吐息が空にたゆたう。


「もう唄、わからなくなっちゃった……」


歌うほどに零れていった音。


「もう君に歌って、あげられないよ……」


きっとこれが最後になるのだと思った。

だから、歌い上げた。

なにもかもわかっていた。

私は進行を食い止める薬さえ拒んだ。

病のことをひた隠してきたから。

そうしなければ君に会えなくなるから。

でも、


「私は」


思考を白が塗り潰していく。


「私は君が」


感情を白が塗り潰していく。


「君のことが……っ」


この想いだけは忘れたくないのに。

次々と溢れる涙だけが温かかった。

悲しかった。

苦しかった。

心が痛かった。

でも、手放したくないと思った。

いくら泣いてもいいから、笑えなくてもいいから、なくしたくないと思った。




でも、君もいつか笑えるだろう。

君の視界と記憶が白に塗り潰されても。

そして、

私の世界が悲しみと痛みに染まっても。



だから、せめて


「それまでは一緒に生きて」


寒さに凍てつく指を天に伸ばす。

一片の光さえ指さない雪雲に、それでも希望を信じるように手を広げる。


「だから明日も偽りで良いから呼んで」


私はあの彼女――――懍花には決してなれないけれど、どうか君の傍にいさせて。


「お願いだから」


最期まで、お兄ちゃんの傍にいさせて。



雪が世界を塗り潰していく。

この想いを塗り潰していく。


――――穢れなき白に。








友人からのリクエスト。

モチーフはポップンミュージックの楽曲。

ハイスピード幻想チューン 『SHION』  DJ YOSHITAKA より

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ