2章4話
延暦十一年の盛夏。
長岡京の空は重たく、蝉の声が絶え間なく鳴いていた。
征東副使に任命された坂上田村麻呂は、朝廷内の政務をこなすかたわら、都の武官や民間武者の間に流れる情報に目を配っていた。
陸奥、出羽――東国の地に根ざす人々のことを知るには、帳面の上だけでは限界がある。なにより、自らの剣に、問いを与える時が来ていた。
そんな折、一人の名が耳に入った。
比古清彦。
山背国の山中に隠れ住む剣士。
流派に属さず、師も弟子も取らず。ただ一人、剣を振り、研ぎ、ひたすらに“何か”を斬り続けているという。
「もとより、あの者は戦の人間ではない。ただ、剣に取り憑かれた亡霊のようなものよ」
と、ある老武官は呟いた。
「だが、あの眼は、戦場を知る者のそれだった」とも。
数日後。
田村麻呂は都の北、鞍馬の手前に広がる山道を歩いていた。
蝉の声も次第に遠のき、苔むした岩と杉木立の間を、ただ風が抜けてゆく。
その山中、ぽつんと現れた一軒の草庵。
竹と木の枝で簡素に組まれた門があり、門前には誰かが磨き続けたような大小の石が並べられていた。
田村麻呂が足を止めると、中から声がした。
「……誰か来たか」
しばらくして、庵の戸が開き、一人の男が姿を現した。
長身、浅黒い肌、眼光鋭く、しかしどこか陰を帯びた雰囲気を纏う男。
年の頃は三十半ばと見えるが、年齢以上に重たい“何か”を背負っているようだった。
「お前が、坂上田村麻呂か。名を名乗らずとも、その気配でわかる」
男は、片手に木剣を下げていた。
身構える様子はない。ただ、全身から発せられる“剣”の空気が田村麻呂を包む。
「……比古清彦殿であろうか」
「名はただの仮のものよ。ここでは“剣”だけが通じる」
田村麻呂は深く礼をし、静かに言った。
「剣を交えたいわけではありません。問いたいのです、あなたの眼に映る“戦”を」
清彦の眉が、わずかに動いた。
「なるほど……言葉で語るには惜しい目をしている」
その夕刻。
二人は庵の前の小さな清流を挟み、焚き火を囲んで座っていた。
田村麻呂が水を汲みに立とうとすると、清彦がひとこと呟いた。
「東へ行くのだな。やがて、お前は“鬼”を見ることになる」
「蝦夷のことですか」
「いや、“鬼”という言葉に逃げる者たちの心のことだ。人の異を許さぬ心、それが鬼を作る」
田村麻呂は、焚き火の揺らぎを見つめながら答えた。
「蝦夷の地に住まう者も、人。争いの原因がどこにあるか、私は見極めたいのです」
清彦は静かに笑った。
「その覚悟を、いつまで保てるか……それを見てみたいものだ」
夜も更けたころ。
清彦は立ち上がり、壁際の棚から一振りの太刀を取り出した。
「これは、かつて私が戦場で振るったものだ。人を斬った剣だ。……だが今は、己を斬るための剣にしている」
田村麻呂は、その剣の気配に、ほんのわずかに身を強張らせた。
「いつか――そなたが真に“人を救うための剣”を振るうとき、この剣を共に振るおう」
清彦はそれだけを言い、再び座に戻った。
翌朝。
田村麻呂は庵を辞そうとし、深く一礼した。
「また、会う日があると信じております」
清彦は目を閉じたまま言った。
「風の赴くままに」
その声に、風が竹林を駆け抜けた。
田村麻呂の中に、確かに何かが芽生えていた。
──この男とならば、戦場で背を預けられるかもしれぬ。
やがて訪れる戦。
その最中で、二人が再び並び立つことを、この時の田村麻呂はまだ知らなかった。
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