2章3話
延暦十年、文月の空は澄み渡り、長岡京の都にも初夏の香りが漂い始めていた。
朝堂院の回廊には、色とりどりの狩衣を纏った官人たちが歩を進め、緊迫した声があちこちで交わされていた。陸奥国より届いた急報が、ふたたび政の場に波紋を広げていた。
「胆沢の柵、またしても襲撃を受けたとのこと……」
「兵糧が焼かれ、守将が討たれたと聞く」
「またか……」
諸官人たちは眉をひそめながら、しかしどこか慣れたような様子でもあった。蝦夷の反乱――その報せは、すでに耳慣れた響きとなって久しかった。和睦、帰順、反旗の繰り返し。朝廷が送った絹や銭、冠位は、いずれも時が経てば裏切りに変わる。
「調停の策も限界よな。名ばかりの恩賜では、もはや地に響かぬ」
その場にいた参議・藤原小黒麿が、静かに口を開いた。
「朝廷として、そろそろ態勢をあらためねばなりますまい。従来の鎮守府将軍や国司任せでは事が動かぬ。征東使の強化を急がねば」
周囲はざわめいた。
「征東使……つまり、軍事的任務の本格化か?」
「その副使には、中央の信任厚き者を」
「武に通じ、仏に通じ、しかも派閥に染まらぬ者であれば――」
その言葉に、誰からともなく一つの名が囁かれた。
坂上田村麻呂。
その午後、坂上家の屋敷。仏間の香が焚かれ、田村麻呂は端坐していた。
兵部少録、近衛将監を経て、近衛少将へ進んだ、若きながらも宮中において重んじられる存在となった田村麻呂であったが、その心は常に静謐を求めていた。
「征東副使……」
父・苅田麻呂が、低い声で告げた。
「ついに、その時が来たな。戦の扉は、今や開かれつつある」
「我が望んだことではありませぬ。ただ、避けては通れぬこととは思っております」
苅田麻呂は静かに頷いた。
「都での務めを果たしつつ、東国に備えよ。出征の命はまだ遠い。だが……国の風向きは変わりつつある」
その言葉は、まるで時代の音を聞き取る者のそれだった。
同じ夜、田村麻呂は宮中の南庭を歩いていた。月光が静かに敷石を照らし、夜露の匂いが漂っていた。
その一角、藤の下で待っていたのは宗像那津姫だった。
「……征東副使、おめでとうございます」
彼女は礼をせず、ただ言葉だけを贈った。ふたりの間には、あらゆる形式が不要だった。
「ありがとう。だが、これは始まりに過ぎぬ」
田村麻呂は庭を見渡すように目を細めた。
「我が身が戦に向かえば、都に残る者たちの眼は変わる。誰を討つか、なぜ討つかを問わぬまま、剣を振るうようになるかもしれぬ」
那津姫は、目を逸らさなかった。
「あなたは違うでしょう。かつて山で“なぜ剣を持つか”を問うた人が、その問いを忘れるとは思いません」
「……そうあれば良いのだが」
夜風が、二人の間を吹き抜けた。
那津姫はゆっくりと一歩近づき、田村麻呂に囁いた。
「陸奥は遠い。山と霧の向こう。けれど、かの地にも人は生きている。生きようとしている。……討つだけが正義ではありません」
「承知しております」
短く、けれど確かな答えが返ってきた。
翌朝。内裏にて任命の儀が執り行われた。
衣冠を正した田村麻呂は、壇上に進み、詔を受け取った。声高には叫ばぬが、その背筋はただの若武者にはない静けさを湛えていた。
「征東副使、坂上田村麻呂。……これより東の政を補け、蝦夷の地を鎮める備えとせよ」
詔の響きが堂内を満たす。
田村麻呂は三度、深く頭を垂れた。
それから数日後、藤原小黒麿が密かに田村麻呂を訪ねた。
「征東副使とは、ただの肩書きではない。いずれ、“征”の意味が変わる」
「調停ではなく、討伐ということですか」
「その時は必ず来る。だが、それまでに備えておけ。人を知り、言葉を知り、風を知れ」
田村麻呂は深く頷いた。
その夜、彼は一人、仏前に座した。
「毘沙門天よ……これが、我が立つべき場所なのか。ならば、我に勇気ではなく、正しき眼を与えたまえ」
蝋燭の炎がかすかに揺れた。
その揺れは、ただの風か。
それとも、未来が放った前触れか。
田村麻呂の足元で、時代の土が、ゆっくりと音を立て始めていた。
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