2章2話
延暦四年、初春。
天候は穏やかに見えていたが、都の空気は張り詰めていた。長岡京遷都からわずか数か月。
桓武天皇の即位とともに、朝廷は新たな秩序の構築に追われていた。
その年、坂上田村麻呂は二十四歳になっていた。
かつて山中で祈りとともに修行に励んでいた青年は、今や宮中においてもその名を知られる存在となっていた。
兵部少録としての任期を終えた田村麻呂は、近衛府の将監に昇進した。
近衛府とは、天皇の親衛部隊を統率する要の部署。将監はその副官であり、文武両道が求められる。任じられるのは概ね中堅官人が多く、若年での任命は異例であった。
「坂上殿は、剣だけでなく言葉にも強い。なにより、その目が濁らぬ」
と、ある参議は言った。
田村麻呂が信任を得た理由の一つは、政に深入りせず、いずれの派閥にも属さず、淡々と務めを果たすその態度だった。
だが、それは冷淡さから来るものではない。
むしろ、彼は誰よりも人を見ていた。
近衛将監となってからの日々は忙殺に近かった。天皇親衛の兵を直接指導し、宮中での儀礼警護、さらに武官らの訓練視察と政務も担う。
そんな折、ある夜、宮中で小さな騒ぎが起きた。東国からの使者が、謁見の場で急に倒れ、言葉を失ったのだ。
主治医の見立てでは、心の疲弊と長旅の疲れが重なった結果だという。
しかし、使者の懐から見つかった書状が、田村麻呂の心を騒がせた。
──「陸奥国、胆沢にて蝦夷一族の動き活発。和平の旗印の裏に兵を隠す者あり。朝廷の目を欺いている可能性あり」
この報告に、再び政庁の空気が一変した。
蝦夷との間には、ここ数年和平路線が敷かれていた。無用な衝突は避け、贈与と協議による“懐柔策”が進められていた。
だが、その裏で──裏切りは着々と、積み上がっていたのかもしれなかった。
ある夜、田村麻呂は再び宗像那津姫と邂逅する。場所は内裏の回廊、月が青白く石畳を照らしていた。
「坂上殿。……あなたは、戦を恐れておられるのですね」
「戦そのものが恐ろしいのではない。……それが、“義”の仮面を被るときこそ、恐ろしい」
田村麻呂は答えた。
「異なるものを討つ。それが国の安寧だと、皆は言う。しかし、果たして本当にそうなのか」
那津姫は、立ち止まり、空を見上げた。
「我が一族は、海を祀る者です。海は、外と内を隔てます。でも同時に、つなぐものでもあります。……戦もまた、境をつくるもの。でも、それが永遠に続くと思っている者は、愚かです」
彼女の声は、波のようだった。優しく、深く、だが消えることなく胸に響いた。
「あなたは、いずれ大きな剣を握るでしょう。そして、選ばれるでしょう。戦うか、祈るか。討つか、救うか」
田村麻呂は静かに目を閉じた。
「……選べるのなら、私は“討たずに救う”道を選びたい。けれど……現実が、それを許さぬ時もあるのでしょう」
「ええ。だからこそ、信じられるものを心に持たねばなりません」
その夜、田村麻呂は香を焚き、毘沙門天に語りかけた。
「我が心は、まだ揺れています。されど、いずれこの剣が試される時が来る。……どうか、その時、誤たぬよう。見守り給え」
光は差さなかった。返答もない。
だが胸の奥、かすかに灯る焰が、彼を支えていた。
数日後、朝議にて征東副使の人選が議題に上がった。
陸奥鎮守将軍の働きでは追いつかぬとのことで、朝廷は蝦夷に対する“軍事的圧力”の強化を視野に入れ始めていた。
「坂上田村麻呂……近衛将監としての働きは申し分なし。東国の風に通じ、また無派閥。派遣するには最適かと」
藤原小黒麿がそう進言したと伝えられている。
そのとき、田村麻呂は何も知らず、兵舎にて若き近衛兵たちに弓の指南をしていた。
──だが、運命は静かに彼を“討つ者”の列に引き寄せつつあった。
田村麻呂は、この頃から武官としての階段を一歩ずつ昇っていく。
だがそれは、志を抱いたまま、現実と向き合う旅路でもあった。
都の空は、また一段と濃い霞に包まれ始めていた。
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