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2章1話

 宝亀九年の春。長い冬を越え、都にはようやく暖かな陽射しが戻っていた。木々の芽がほころび、鳥のさえずりが宮中の廊下に反響する。


 その年、坂上田村麻呂は、五年の修行を終えて都・平城京へと戻ってきた。


 二十一歳。父・坂上苅田麻呂の推薦を受け、正式に朝廷に仕えることとなり、兵部省に出仕。初任の官職として“兵部少録”を賜った。若年ながらも、その修行と人格は、いくつかの高僧や貴族の耳にも届いていた。


 任命式ののち、ある貴族が田村麻呂に歩み寄った。


 「そなたが、坂上家の三男か。父君には何度かお世話になったことがある」


 その声の主は、参議・宗像清親。代々、海神信仰を伝える宗像氏の嫡流であり、当代きっての陰陽に通じた人物としても知られる。


 「目が静かだな。だが、奥底には剣の気が宿っている。……不思議な若者だ」


 「未熟者ではありますが、誠を忘れず勤めてまいります」


 田村麻呂は深く頭を下げる。


 宗像清親は、ふと周囲を見て、そっと声を落とした。


 「内裏には、時に“異なる風”が流れる。耳で聴くのではなく、気で読め。見た目に惑わされるな」


 それだけを言い残すと、清親は去っていった。


 ──“異なる風”。


 その言葉の意味は、数日後に知ることとなる。


 ある夕暮れ、内裏の文庫にて。田村麻呂が写し物の奉書を探していたところ、ある薄衣の女が静かに佇んでいた。淡い水色の衣に、黒髪は背中まで届く。整った横顔には涼しげな気品があり、年の頃は田村麻呂とそう変わらぬ。


 その目が、ふと田村麻呂を見た。


 「……あなたが、坂上田村麻呂殿ですね?」


 「左様ですが……」


 「私の父より、あなたと話をするように言われました。私は宗像那津姫と申します」


 宗像──那津姫。


 宗像氏は古来、海を司る神を祀る家系。その娘となれば、清親の実娘ということになる。


 「那津姫殿……」


 言葉に詰まる田村麻呂に、那津姫は微笑んだ。


 「父はこう言いました。あなたには、“神と歩む縁”があると。私の役目は、それがどんな縁か見極めることだ、と」


 「神と……?」


 田村麻呂は一瞬、夢に現れた毘沙門天の姿を思い出した。


 「……あなたの内には、静かな“波”があります。凪いでいるようで、底には渦がある。あなたはまだ、何者にもなっていない。けれど、何者にでもなり得る力を秘めている」


 その声は、風のように柔らかく、それでいて確かに田村麻呂の胸を打った。


 「私の一族は代々、神託とともに政に仕えてきました。ですが……私はまだ何も視えていない。だからこそ、あなたのような“渦”を感じたとき、心が動くのです」


 しばしの沈黙のあと、田村麻呂は言った。


 「あなたは……この都で、“風”を読むのですか?」


 那津姫は、わずかに頷いた。


 「都には、形なきものが渦巻いています。名声、権勢、欲。そうした濁流の中にあっても、風は吹き、流れを変えていきます」


 田村麻呂は、静かにその言葉を噛みしめた。


 出仕初日、父・苅田麻呂が言っていた言葉を思い出す。


 ──都とは、人を試す場所だ。


 「那津姫殿。私はまだ、剣を振るうべきか否かを迷っております。しかし、剣の先に“守るべきもの”があるとするならば……私は迷いを振り払うために剣を取るでしょう」


 「その言葉、忘れないでくださいね。きっと……“そのとき”が来ますから」


 それきり、那津姫はふわりと立ち去った。


 後に田村麻呂は何度も思い返すこととなる。この内裏の片隅で出会った女こそが、己の運命の節目に関わる存在となるのだと。


 ──それはまだ、彼が知らぬ未来の話である。


 


 数日後。


 内裏にて光仁天皇に仕える重臣・藤原小黒麿が、陸奥国からの報せを読み上げた。


 「蝦夷より反乱の報あり。各地で砦を襲い、朝廷軍に被害が出ておるとのこと」


 その場の空気がぴりつく。


 「またか……」

 「征討を急がねば」

 「民の不安が広がれば、陛下の御心を乱しかねぬ」


 田村麻呂は、再び“蝦夷”という言葉に立ち止まった。


 彼らは“異”なる者とされた。だが、異なるとは何だろうか。


 異とされる者を、ただ“討つ”ことで国が治まるのか? 修行の中で見た“静けさ”は、争いの先にあるのだろうか?


 夜。邸宅の仏間にて。


 田村麻呂は香を焚き、目を閉じた。


 「……毘沙門天よ。もし我が志に迷いがあれば、打ち砕いてください。されど、この手に握る剣に正しさがあるならば──導きを」


 沈黙の中で、仏像の影がわずかに揺れた。


 それは、祈りに応えた風か、ただの香煙か──。


 いずれにせよ、坂上田村麻呂の心は、すでに都の政に、静かにその根を張りつつあった。


 そして、その根は、やがて東国へと伸びていくことになる。

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