1章3話
夜が明け、庵の周囲に朝霧が立ちこめていた。
細い木々の間を漂う白い靄の向こうから、かすかに鳥のさえずりが聞こえる。
田村麻呂は、庵の前で静かに座していた。目を閉じ、深く呼吸をしながら、昨夜の夢――いや、毘沙門天の声を思い返していた。
毘沙門天の姿、宝塔と三叉戟、そして与えられた言葉――
胸に今も残る温もりは、ただの幻ではない。
それは己の中に根を張り始めた確かな“力”のようでもあった。
「心に剣を持て。剣に心を持つな」
老僧の声が背後から響いた。
田村麻呂は振り返らず、静かに頷いた。
「……分かった気がします。剣は殺すためのものではない。“義”を通すための、言葉の代わりなのだと」
老僧は静かに歩み寄り、彼の傍に腰を下ろす。
「では、そろそろゆけ」
「……山を、下りるのですね」
「その時が来た。そなたは、もはや“学ぶ者”ではなく、“選ばれし者”となった。あとは、この剣を持って世に出て、答えを探すのだ」
田村麻呂はゆっくりと立ち上がった。
庵に入り、修行中に着ていた麻衣をたたみ、旅装を身にまとう。
腰に佩いたのは、父より賜った古き直刀。
これまで抜くことすらためらっていたが、今は違った。
剣とは、己の心を映す器である。
老僧に深々と一礼をし、田村麻呂は庵を後にした。
山道を下る道中、朝陽が木々の間から差し込んでいた。
鳥たちがさえずり、苔むした石段に露が光る。
すべてが、彼の決意を祝福しているようだった。
都へ戻るには数日を要するが、田村麻呂は急がなかった。
途中、小川のほとりで休み、野花を摘む子供と出会った。
「お侍さま、どこへ行くの?」
「……都へ戻る」
「つよいの?」
田村麻呂は少し笑った。
「どうだろうな。だが、おまえのような者を守るために、剣を振るう覚悟はある」
子供はにこりと笑い、摘んだ花を一輪、田村麻呂に差し出した。
「じゃあ、これ。おまもり」
田村麻呂は受け取り、それを懐にしまった。 そして静かに歩き出す。空は澄み渡り、風は優しかった。
山を下り、里に近づいたとき、旅の僧とすれ違った。
僧は田村麻呂の顔を見ると、しばし黙して目を細めた。
「剣を持ちながら、仏の香をまとうとは……不思議な御方だ」
「剣と仏は相容れぬものですか?」
田村麻呂の問いに、僧は首を横に振った。
「いいや。どちらも、人を導く道具となる。ただし、その手が穢れていなければ、だが」
田村麻呂は一礼して別れた。
すでに、彼の旅は始まっていた。
坂上田村麻呂、毘沙門天の加護を受けし少年。
この剣がどこまで届くのか、それを知るための旅路は、静かに幕を開けたのだった。
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