1章1話
坂上田村麻呂が主人公の物語です。
坂上田村麻呂は、天平宝字二年。名門・坂上氏の家に、三男として生を受けた。父・苅田麻呂は文武に秀で、朝廷に仕えながら、清廉な志を貫く武人であった。
田村麻呂は、幼きころから父の背を見て育った。兄たちはこぞって剣を取り、弓馬に通じ、兵法を競った。だが田村麻呂だけは、仏間に籠もり、灯明に揺れる阿弥陀如来像を静かに見つめることを好んだ。
「父上、なぜ人は神仏に祈るのでしょうか?」
まだ十にも満たぬ田村麻呂が問うた夜、苅田麻呂は微かに笑い、膝を折って息子と目線を合わせた。
「人は皆、弱きものだ。祈りとは、その弱さを知り、受け入れること。そして、願いを託すことで、ほんの少しだけ、強くなれるのだ」
その言葉は、田村麻呂の心の奥に、灯火のように灯った。
世は乱れていた。都では権力争いが絶えず、辺境では蝦夷の反乱が繰り返された。争い、戦、血――そのすべてが幼き田村麻呂にとっては、ただの理不尽に思えた。
十五の春。田村麻呂は父に告げた。
「山に籠もりたい。己の道を見つけたいのです」
苅田麻呂は長く黙し、やがて一通の文と護符を手渡した。
「これを持て。近江と美濃の境に、隠棲の僧がいる。人を選んで教えを授けるという。お前が選ばれるかどうかは、己の心次第だ」
こうして田村麻呂は、山へと入った。
人里離れた山中に、苔むした庵があった。風に晒された板戸の向こうに現れたのは、年のほども知れぬ老僧。白い眉が垂れ下がり、目は細く、だがその奥には深淵のような静謐があった。
「名を名乗るな。名は俗世のもの。ここではただ、己の“声”と向き合え」
そう言って、老僧は田村麻呂を庵に招き入れた。
それからの日々は、厳しいものだった。
朝は夜明けとともに起き、滝壺の前で座し、呼吸を整える。昼は山を歩き、葉擦れの音に耳を澄ませる。夜は仏典を写し、言葉を発することも許されぬまま、ひたすら己の内に“静寂”を育てた。
食は一日一膳。粟や芋が主であり、味噌も贅沢とされた。冬は雪を掘って水を汲み、夏は虫の音に耳を澄ませた。都で過ごした快適な日々とは比べものにならぬ。だが、田村麻呂は不思議と、その生活に心を落ち着かせていった。
老僧はときに言った。
「風を読め。葉のざわめきを聴け。世界はすでに語っている。聞こうとせぬのは人の側だ」
田村麻呂はその言葉を、心に刻んだ。
ある晩、庵の裏手にある滝の前に、彼は独り立った。夕暮れの余韻が岩肌に残る中、彼は衣を脱ぎ、滝壺に身を浸した。水は冷たく、皮膚を斬るような痛みが走る。だがその中で、彼は静かに目を閉じた。
滝の轟音が、心を試す。耳を塞がれるほどの水音の中で、彼は“無”を探していた。
──仏よ、我に問いかけを。
その祈りが胸に生まれたとき、ふいに背後の空気が震えた。
風でも鳥でもない。明らかに、“気”があった。
目を開け、振り返る。そこには誰もいない。
ただ、空が、滝の水飛沫が、まるで何かを孕んでいるかのように、光を散らしていた。
その夜、田村麻呂は寝つけなかった。庵の囲炉裏の火が赤く燃える中、老僧に問うた。
「我は、剣を捨てるべきでしょうか」
老僧は火に薪をくべ、しばし黙したのち、ゆっくりと口を開いた。
「剣を捨てるかどうかを問う者は、まだ剣に囚われておる。剣が“殺すためのもの”か、“救うためのもの”か、それを決めるのは、おぬし自身だ」
田村麻呂は、その答えを胸に抱えたまま、庵を出た。
夜の山は、静かだった。空には満天の星が瞬き、梢を渡る風が彼の髪をなでた。
「父上、兄上……我はお二人のようにはなれぬでしょう。だが、我なりの剣を、歩みたい」
そう呟いたとき、星の瞬きがふと、ひとつ揺れた。
その夜、田村麻呂は“夢”を見ることとなる。
──空が裂け、光が降る。
地が震え、山が割れる。
その光の中心から現れたのは、黄金の甲冑を纏い、眼光鋭く天を睨む神将。
左手に高く掲げられた宝塔は、大地を照らし、
右手に握られた三叉戟は、すべての邪を討ち払うとでも言わんばかりに煌めいていた。
その存在の名を、田村麻呂は知らずとも、魂が知っていた。
──毘沙門天。仏神であり、四天王の一尊にして、戦神。
その姿は、静かに彼の前に降り立った。
「問え。我は応えよう。おぬしの剣が、何を守るためにあるのかを」
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