第九章(2):魔闘会を終えて、二人の時間
二回戦が終わった。次は準決勝だ。
準決勝は三日後に行われる。
私はゼフィルスに迎えられて、ルシアン様の元へ向かっていた。
ゼフィルスは試合があったにも関わらず、いつもと変わらず執事の仕事をこなしている。
私は素直な疑問をぶつけた。
「ゼフィルス、あなたも特別枠で出場していたのですね。なぜ、今まで黙っていたのですか?」
ゼフィルスは、いつものように涼やかな表情で、私を真っ直ぐに見つめた。
「セラフィナ様、申し訳ございませんでした。実は、ルシアン様が強く私の出場を望まれ、その一方で、大会の均衡を保つため私の出場は伏せておくようお達しがあったのです。この魔闘会は、魔界の新たな秩序を築くための重要な戦い。私も微力ながら、その一助となればと…」
ゼフィルスは深々と頭を下げた。
グラニート戦での勝利と、素顔が晒されるというハプニング、そして何よりイザベルから聞いた「黒髪の女」の真実に、私の心は高揚と混乱でぐちゃぐちゃだった。
ゼフィルスは、私の顔色をそっと窺いながらも、「セラフィナ様。今日はお疲れでしょう。どうぞごゆっくりお休みください」と、いつも通りの落ち着いた声で気遣ってくれた。
その言葉に、少しだけ心が落ち着く。
ルシアン様の広大な部屋に着くと、彼はソファに座って、私を待っていた。
その蒼い瞳が、私の姿を捉えた瞬間、わずかに和らいだように見えた。
ルシアン様は静かに「ゼフィルス。礼を言う。お前もゆっくり休め」と告げた。
ゼフィルスが深々と頭を下げて部屋を出ていくと、部屋には私たち二人きり。
先ほどまでのアリーナの熱狂とは打って変わって、しんと静まり返った空間に、気まずい沈黙が流れる。
お互い、胸の中に抱える大きな出来事を、何をどう切り出したらいいのか、言葉を探しているようだった。
視線が合うと、すぐに逸らしてしまう。
その時、ふと、ルシアン様の右手の人差し指に輝く漆黒の宝珠と、私の聖剣の赤い宝珠が、まるで呼応し合うように強く輝き、部屋の壁に人間界の様子を映し出していることに気づいた。
その光景をぼんやりと見つめながら、ルシアン様が、「こんな風に人間界の様子が見えるんだ」と、呟いた。
「せっかくだから、みんなの様子を見てみましょうか!」
私が明るくそう言うと、ルシアン様も頷いてくれた。
まず映し出されたのは、アルドロンさんとリリアさんの部屋だった。
二人はソファでお茶を飲みながら、読書をしている……かと思いきや、アルドロンさんの膝の上にはリリアさんがちょこんと乗っかっていて、次の瞬間、アルドロンがリリアの髪に顔をうずめ、まるで愛おしむかのように深く息を吸い込んだ!
「これ以上見ちゃだめ!」
思わず声を上げて、慌てて視線を逸らす。
頬がカッと熱くなるのが分かった。
ルシアン様も、驚いたように目を見開き、少しばかり顔を赤くしている。
「カスパールは…どうしているだろうか」
ルシアン様が、咳払いをして気を取り直すようにそう言って視線を移すと、今度はカスパールとローゼリアが、お互いの腕の中にすっぽりと収まるように、抱き合って眠っている姿が映し出された!
カスパールは、ローゼリアの髪に顔を埋め、安らかに寝息を立てている。
そのあまりの親密さに、思わず息を呑む。
「ああっ!」
今度こそ、恥ずかしさで叫びそうになった。
ルシアン様も「もういい!」とばかりに、すぐに宝珠を見るのをやめてしまった。
二人して顔を真っ赤にして、しばらくは俯いたまま、口元を隠すように沈黙していた。
部屋の空気が、まるで熱気に満ちているかのように感じられた。
しばらくの沈黙の後、私は意を決して、彼の顔を覗き込むように尋ねた。
「あの…ルシアン様、以前、宝珠で私のことを見ていてくれたって言いましたよね…推し活の様子とか…」
ルシアン様が、わずかに頷く。
その表情は、まだ少し赤い。
「それ以外も…見てましたか?例えば…着替えているところとか、お風呂とか…」
私の問いに、ルシアン様はカッと目を見開き、慌ててソファから半身を乗り出すようにして否定した。
「断じてそんなことはない!宝珠にはそういう情報は映らないようになっているはずだし、俺がそんなことをするはずがないだろう!」
そう言い切るルシアン様の表情は、いつになく真剣で、どこか焦っているようにも見えた。
眉根を寄せ、真剣な眼差しで私を見つめている。
彼の揺るぎない態度に、私の心は少しだけ安心した。
うん、ルシアン様のことだから、そういうのは本当にしないだろう。
そして、私は深呼吸をして、イザベルに言われた「黒髪の女」の話を切り出した。
「今日、イザベルが私の控室に来て、ルシアン様の夢の話をしてきたんです」
彼の蒼い瞳には、アリーナでの衝撃が確信へと変わる光が宿る。
「それで、ルシアン様がずっと夢に見ていた女性は、黒髪で、奇妙な服を着ていて、小さな紙の束を読んだり、人には見せられないような奇妙な踊りをしていたって…」
私が一言ずつ区切って話すたびに、ルシアン様の蒼い瞳が、みるみるうちに大きく見開かれていく。
彼の顔に、再び深い感動が押し寄せているのが見て取れた。
まるで、信じ難い奇跡を刻み込むかのように、私をじっと見つめている。
彼の角の先が、わずかに震えているように見えた。
「…そして、その女性は、黒い奇妙な上着に、背中から肩にかけて広がる大きな四角い襟、白い線が何本か入って、胸元には鮮やかな赤い布が結ばれている。黒いプリーツスカートをはいて、真っ白なソックスに革靴。黒い小さな袋を持っていて、小さな板を握って、時にはそれを見て笑ったり、ブツブツと何かを呟きながら、あの滑稽な踊りを踊っていたって…」
私の言葉を聞くにつれて、ルシアン様の唇がわずかに開いたまま、息を呑んでいるのが分かった。
彼の表情は、歓喜が確固たる現実となったことへの、深い驚愕と感動に彩られていた。
「そして…いつも髪を一つに結っていて、その髪飾りはピンク色の、小さな花が散りばめられたものだったって…」
私の最後の言葉に、ルシアン様の瞳から、一筋の光が溢れ落ちた。
彼は、ゆっくりと私の手を取り、まるで震える宝物を扱うかのように優しく撫でた。
「……ああ、やはり夢ではなかったのだな」
ルシアン様の声が、震えている。
「幼い頃から、俺はいつも一人だった。父は厳格で、母はいない。広大な城で、誰も俺の心に触れることはなかった。ただ、夢の中に、いつも一人の女性が現れて、俺の孤独を癒してくれた。黒髪で、この世界では見たこともない奇妙な服を着て、奇妙な動きをしていた…」
ルシアン様が語る夢の描写は、私がイザベルから聞いたことと寸分違わなかった。
彼の声は、次第に切実さを帯びてくる。
「その夢を見るたびに、あと少しで、あと一歩で、と歯噛みした。だが、決してその女性の顔を見ることは叶わなかった。五光の勇者として、激務に追われるうちに、その夢も、その女性のことも、心の奥底に沈んでいった。しかし、魔界に飛ばされ、お前たちを寿命で失った時、あの夢が再び現れるようになった。その喪失感と孤独の中で、俺はあの夢にひどく依存していた。そして、お前たちが転生し、宝珠の光が見えるようになってからは、あの夢を見ることはなくなった。代わりに、宝珠の光を通して、人間界で楽しそうに推し活に励むお前の姿が見えるようになったんだ」
ルシアン様の言葉を聞きながら、私の目からは大粒の涙が溢れ止まらなかった。
私が知らなかった、彼の孤独な過去。
そして、私が彼の長年の「光」であったという、あまりにも大きな真実。
「私の、元の世界での名前は…佐倉花、です」
「…佐倉花」
ルシアン様が、震える声でそう言った。
彼の瞳には、深い感動と、信じられないほどの喜びが宿っていた。
「運命を感じずにはいられない…ずっと、俺を捉えて離さなかったのは…お前だったんだ。俺の光は、ずっとお前だったんだ」
ルシアン様は、私の手をぎゅっと握り、そのまま引き寄せるように私を強く抱きしめた。
彼の腕の中に包まれると、彼の鼓動が直接伝わってきて、温かさと安心感が全身を駆け巡った。
彼の魔力が、私の心を満たしていく。
「お前しかいない」
彼の声が、私の耳元で優しく響いた。
私は、彼の腕の中で、ただ頷くことしかできなかった。
遠い日の記憶が結びつき、二人の運命が一つになった瞬間だった。




