第八章(1):嵐の魔闘会本戦
天下一品魔闘会本選の華々しい開会式が終わり、アリーナの熱気は一層高まっていた。
私は控室でグラニートとの第一回戦に向けて精神を集中させる。
研ぎ澄まされた剣先のように意識を高めようとするほど、心の奥底では、ルシアン様に「黒髪の女」がいるというイザベルの言葉が、ねっとりとまとわりついて離れなかった。
「第一試合、特別枠出場者、ゼフィルス! 対戦相手は、魔界四大貴族、グレイシア!」
その瞬間、私は思わず控室の扉に駆け寄り、隙間からアリーナを覗き込んだ。
アリーナ中央には、既にゼフィルスと、冷気を纏うグレイシアが立っている。
グレイシアは全身を氷の鎧で覆い、手には巨大な氷の剣を構える。
見るからに強敵だ。
「始め!」
審判の魔物の声が響き渡ると同時に、グレイシアが凍てつくような冷気を放ちながらゼフィルスに襲いかかった。
無数の氷の刃がゼフィルス目掛けて飛来し、アリーナの床を凍らせていく。
しかし、ゼフィルスは動じない。
まるで氷の嵐が幻であるかのように、一切の動きを見せず、ただ静かにその場に立っている。
「愚か者め、我が氷の前では、お前の力など無に等しい!」
グレイシアが咆哮し、さらに強力な氷の槍を放った。
その瞬間、ゼフィルスがわずかに指を動かした。
たったそれだけ。
氷の槍は触れることもなく砕け散り、グレイシアの放った魔力そのものが、まるで凍り付いたかのように空間に固定される。
グレイシアは驚愕に目を見開いたまま、その場から一歩も動けない。
ゼフィルスはゆっくりと右手を上げ、そのまま指先をグレイシアに向けた。
その掌から、ほんの微かな黒い光が放たれたかと思うと、グレイシアの全身を覆っていた氷の鎧が、まるで飴細工のように溶け落ち、見る間に体から生気が失われていく。
グレイシアは、苦悶の表情を浮かべながらも、声一つ発することなく、その場に崩れ落ちた。
「勝者、ゼフィルス!」
審判の魔物の声が響き渡ると、会場は一瞬の静寂の後、爆発的な歓声に包まれた。
誰もが信じられないといった様子で、あっという間に決着がついた試合に、興奮と驚きが入り混じった声を上げていた。
ゼフィルスの圧倒的な勝利に、鳥肌が立った。
ルシアン様が彼を送り出した理由が、今、はっきりと理解できた。
***
興奮冷めやらぬまま、ついに私の試合が始まった。
アリーナの中央に足を踏み入れると、巨大な体躯のグラニートが、まるで古代の岩像のように鎮座していた。
彼の全身を覆う灰色の岩肌は、無数の戦いを経てきた戦士の鎧のようだ。
「始め!」
審判の魔物の声が轟き、同時にグラニートが大地を揺るがすほどの勢いで突進してきた。
私は聖剣を構え、迫りくる巨大な拳を受け流そうとする。
だが、彼の質量と魔力が融合した一撃は想像を遥かに超え、聖剣を持つ腕が痺れ、体勢を崩しかける。
「セラフィナ、あんたじゃないわよ」
イザベルの嘲笑が鮮明に蘇り、思考が一瞬、白い霧に包まれた。
剣の動きが、ほんの僅かに、ほんの僅かに遅れる。
「グオオオォォォォ!」
グラニートの咆哮が鼓膜を震わせる。
その瞬間、重い拳が私の防御の隙間を抉じ開け、生温かい風圧と共に頬を掠めた。
衝撃で、顔を覆っていた黒いマスクが耐えきれず、虚空に舞い落ちる。
「あ……!」
無意識の内に漏れた小さな悲鳴は、喧騒にかき消された。
アリーナの照明が、剥き出しになった私の素顔を容赦なく照らし出す。
会場を埋め尽くした魔物たちの動きが一瞬止まり、まるで時間が凍り付いたかのようだった。
そして、次の瞬間、静寂を切り裂くように、ざわめきが爆発した。
「おい、あれは……一体誰だ?」
「マスクの下は人間だと!?」
「魔王ルシアン様が連れてきた、あの女か!」
「魔闘会に人間が参加するとは、何事だ!」
「人間界では、伝説の勇者だか知らないが、ここは魔界だろ!」
非難と怒号の嵐が、私を容赦なく叩きつける。
「人間は出ていけ!」
「グラニートを応援しろ!」
無数の敵意が、鋭い刃となって突き刺さる。
観客席の一部では、不満そうな魔物たちが「一体どういうことだ?」と戸惑いの声を上げているのが聞こえた。
***
貴賓席に座るルシアンは、瞬時にアリーナの異変を察知していた。
セラフィナの聖剣の赤い宝珠と、彼女の右手の薬指で憂いを帯びた光を放つ漆黒の宝珠。
二つの宝珠が、まるで彼女の激しく揺れる心を映し出すかのように、不安定な光を点滅させていた。
「……セラフィナ……らしくない」
ルシアンの低い声には、苛立ちと深い憂慮が滲んでいた。
一体、何があった?彼女の強靭な精神を、ここまで揺るがす出来事とは。
彼は魔王として、この大会のルールを破り、直接介入すべきか一瞬迷った。
しかし、それは、セラフィナは望まないだろう。
***
アリーナ全体が、グラニートを異様な熱気で応援する中、私の心には、屈辱と同時に、湧き上がるような怒りが宿った。
侮辱されて黙っているわけにはいかない。
ルシアン様が信じてくれた私の力を、ここで示さなければ。
私を嘲笑する魔物たち、そしてルシアン様を悩ませる「黒髪の女」の影。
全てを振り払うように、私は剣を握り直した。
「来い、グラニート!」
私は全身の力を込めて咆哮した。
呼応するように、聖剣の赤い宝珠が、これまで感じたことのないほど強烈な光を放ち、全身の魔力を奔流のように解き放つ。
聖剣に宿る聖なる力が、私の決意に応えるように、脈打ち、高まっていく。
グラニートは再び地響きを立てて突進してきたが、私の瞳には、彼の動きがスローモーションのように映った。
もはや、あの惑いは微塵も残っていない。
冷静に、的確に。
私はグラニートの巨大な体を滑るように動き回り、聖剣の刃を何度も叩きつける。
硬い岩肌が悲鳴を上げ、削り取られるたびに、グラニートは苦痛の唸り声を漏らす。
「くっ……小癪な人間め!」
焦燥の色を浮かべたグラニートが、渾身の力を込めた巨大な棍棒を振り下ろした。
その僅かな隙を見逃さず、私は大地を強く蹴り上げ、一気にグラニートの懐に飛び込んだ。
聖剣に、ありったけの力を、魂を込めるように集中させる。
「これで終わりだ!」
全身全霊を込めた一撃が、グラニートの最も硬いとされる頭部を、深々と貫いた。
轟音と共に、巨体が崩れ落ちる。
「勝者、セラフィ―!」
審判の魔物の声が、騒然としたアリーナに響き渡る。
勝利の宣言にも関わらず、会場は一瞬の静寂の後、困惑と不満が入り混じった、重苦しいざわめきに包まれた。
「人間が……本当に勝ったのか?」
「あのロックゴーレムを……」
魔物たちは信じられないといった顔で、私を見つめていた。
しかし、その中には、私を警戒し、あるいは新たな強者として認識し始めた者たちの視線も混じっていた。
貴賓席では、ルシアン様が安堵の息を吐き、力強く輝く宝珠を見つめ、静かに頷いていた。
彼の蒼い瞳には、隠しきれない誇らしさが宿っていた。
そして、その視線は、勝利の興奮と疲労、そしてまだ心の奥に残る不安が混じり合った私の表情を、優しく見つめ続けていた。




