1-7 逃がさない
『きゅ! きゅきゅ~!』
足元で白い毛の鼬が意識のない主を心配して鳴いていた。
『きゅ、きゅー! きゅー!』
抱き上げたまま、少女に視線を落とす。やはりあの陣の影響だろう。顔色が悪く、霊力もかなり消耗しているようだ。長い睫毛が微かに震えたのはそのすぐ後だった。虚ろな表情でぼんやりと自分の首にそっと触れて。
「あれ····? 私、首が繋がってる?」
少しずつ今の状況を把握するように、自身の身体を眺めた後、ふと視線がこちらに向けられる。じっと翡翠のような瞳で見つめられ、憂炎は表情にはでていなかったが心の内は動揺していた。
(·····俺は今、なにを考えた?)
少女に見つめられ、ふと頭に浮かんだ"ある言葉"に、慌てて我に返る。
「おい。気が付いたならさっさと自分の足で立て」
そしてものすごく動揺した結果、冷たく突き放す。早く自分から離れて欲しい。
「あ、はい····すみません」
憂炎は突き放しておきながら、少女を気遣うように地面に足が付くまでその細い身体を支えてやった。それはまだ本調子ではない少女が心配だったからであって、けして目の前の少女に対して邪な感情があったからではない、と思う。
けれども目が合った時、不覚にも憂炎は心の中で思ってしまったことがある。
"綺麗だ"、と。
気を取り直すように、少女に問う。少女はやはり道士で、あんなことができるのにまだ見習いらしい。中身のない会話を交わしていたが、今はそんな状況ではなかったと思い直す。それは、あの骸が再び立ち上がったからだ。
千切られて無くなっていたはずの左脚は黒い靄によって新しく形作られている。
特別な宝具である短剣で切り裂かれたはずの胸と腹は、あの靄が入り込んだ影響か、なにもなかったかのように修復されていく。殭屍となった骸は本来のそれとは違い、生前のような豊かな表情で笑みを浮かべてこちらを観察しているようだった。
「俺の名は憂炎。道士の階級は首席。そしてこの怪異は、俺の父の仇だ」
少女の前に立ち、目の前の妖者を冷ややかな眼差しで見据える。あれが、【怪異】の正体なのか。あれが、ずっと捜していた仇なのだというなら、好都合だ。
「あれは、今から俺の獲物だ」
言って、憂炎は短剣を構えた。
◇◆◇◆◇◆◇
その骸は口の端を横に広げ、にたりと笑った。
目の前に立った命の恩人とも呼べる青年の背を見つめ、暁玲は自身の霊力を回復することに集中する。【怪異】を起こしていた妖者が本性を現した。禍々しい穢れに覆われたその骸は、殭屍であって殭屍ではない。
なぜなら、本来殭屍には知性はなく、満たされない食欲を満たそうと、本能のままひとを襲う習性があるからだ。
だが、目の前の骸はどうだろう。暁玲を喰らおうとして襲い掛かって来たのではなく、確実に殺すという意思をもって喉元に切っ先を突き立ててきた。今もこちらの動きを探っているようにも思える。
(やはりあの怪鳥は囮で、自身は最初からあの骸の中に潜んでいたということですね。しかも私に悟られないように、最小限の状態で)
黒い靄自体が妖者だと仮定して、それはほんの少量でも活動可能。しかも本体という概念がない。つまり、あの靄を一気にひと欠片も残さずに浄化しない限り、何度でも逃げられてしまう。
(あの陣でも逃すなんて、あり得ない····いや、私が未熟者だから、陣自体がそもそも完全ではなかったのかも)
確かにこの辺り一帯の穢れは消えた。それでも詰めが甘かったようだ。
「憂炎さん、やはり私も加勢します。確実に仕留めなければ、また同じことの繰り返しになる。この機を逃すわけにはいきませんし、あなたの目的を達するためにも、ここは協力するのが良いかと」
「俺の獲物だと言ったはずだ。そもそもあんたはさっきの陣のせいで満身創痍だろう? 足手まといにしかならない」
イタイところをつかれ、むぅと頬を膨らませた。今の状態はまさに彼の言う通りなのだが····そうは言っていられないのも事実。暁玲は力の入りづらい、冷たい指先を握り締める。
「では、勝手にさせていただきます」
はあ、と憂炎はわかりやすく嘆息し、背を向けたまま「邪魔だけはするなよ」と諦めてくれたようだ。しかし実際問題、霊力が足りない。あの骸の本来の能力も未知数。それに、知りたいこともあった。あの妖者が起こしていた【怪異】の真相。なぜ、の部分がまだなにも解決していないのだ。
左脚が黒い靄で形作られてはいるが、薄桃色の上衣下裳は若い女性が好んで纏うような衣で、左脚の裾の辺りがボロボロになり全体が薄汚れている状態ではあるが、攫われた時のままなのだろう。
骸は嫌な笑みを浮かべて、憂炎越しに暁玲を見つめてくる。あくまでも狙いは自分らしい。
『ふふ。お前、あの時の道士と似たにおいがする』
驚いたことに、骸が口を利いた。それは骸と化した女性の声なのだろうか。それとも妖者の声だろうか。あやしい雰囲気をまとったその声は、艶っぽい大人の女性の声にも思えて、憂炎は短剣を構えたまま眉を寄せた。
『ああ、そういえば、息子がいると言っていたな。お前がその息子というわけか。私の性質に気付いた道士はあやつが初めてだったが、所詮は人間。生かしながらその四肢を一本ずつ千切って、最期は頭を潰してやったよ』
「なんてこと····」
暁玲はその悲惨な光景を思わず想像してしまった。なんとも悍ましく残酷な殺し方だろうか。
「どうりで····俺たちには見せられなかったわけだ」
憂炎は骨になった父の姿しか知らず、それが幼い自分と母に対する最大の配慮だったと思い知る。目の前の妖者は、自分の父親を虫でも殺すように弄んで殺したのだ。
妖者に対する憎悪が明確なものになり、おかげで冷静さが戻って来る。この手で滅するためにずっと追っていた妖者。絶対に逃がさない。
「貴様は俺がこの手で滅する」
「私たち、が、です」
疲れたなんてそんな甘いことを考えている場合ではない。間違いなく、あの妖者はずる賢い分類の妖者だろう。逃げられる前に、なにがなんでも止めるしかない。暁玲は憂炎の後方で援護体勢に入る。
『主菜は必ずいただくわ。男でも女でもこの際だからかまわない。それくらい、あなたの血は価値がありそう。ねえ、可愛い道士さん』
にたぁと骸に不気味な笑みを向けられ、ぞぞっと悪寒を感じた暁玲は、思わず両腕を交差して自身を抱きしめる。
「私なんて食べても美味しくありませんから!」
『きゅ!』
どうやら、男だということはバレていたらしい。この妖者にとって男女の区別は見た目ではなく血のにおいだったようだ。そしてその目的も血を喰らうこと。四人分の血で十年ほど持つということ? では遺体から身体の一部を奪った理由は?
暁玲はそのすべての謎を知るまでは、この【怪異】を解決したとは言えないと思っている。
『お前は要らないから、あの道士と同じように殺してあげる』
妖者は黒い靄でできた鋭い五本の爪をぶんと横にふったと思いきや、一瞬にして距離を縮め、憂炎の眼球を抉らんとその切っ先を迷わず突き立てた!