1-4 王宮の首席道士
落ちてきた無残な姿の骸に気をとられていたのも束の間、黒い靄が上空で渦巻きながらその形を成していく。それはやがて、闇夜でもはっきりわかるほどの漆黒の巨大な鳥の姿となり、大きな翼を広げてこちらを威嚇してきた。
嘴を開いた途端、音のない咆哮が疾風の如く降り注ぎ、次の獲物と認識された暁玲の耳を劈く。纏っていた紅梅色の衣は突風に靡いて大きく舞い上がり、防御するように目の前に覆った右腕の袖がばたばたと不規則に強く揺れ動く。
飛ばされそうになりながらもなんとか腰を低くして耐えるが、そんな暁玲の足元にしがみついている雪玉の長い胴が、道袍の裾と一緒にぷらぷらと旗のように波打っている。視界が悪くなるほどの強風が手前から遠くまであるすべての灯りを奪い、辺りは完全に暗闇と化す。
暁玲が体勢を立て直そうと覆っていた腕を横に広げ、袖からなにかを取り出そうとしたその時、怪鳥と化した靄はなにを思ったのか、ばさりと羽ばたきを一回した後、こちらに向かって物凄い速さで急降下してきた!
「くっ······雪玉!」
『きゅ!』
雪玉はしがみ付いていた裾から離れてくるりと一回転し、地面に着地するや否や暁玲の右肩を踏み台にして、急降下してくる怪鳥の頭の部分に勢いよく跳びかかって行った!
まさかの伏兵に怪鳥は急降下を諦め、ばさりと大きな翼を広げて宙に留まることを余儀なくされる。その隙に暁玲は袖から符を数枚取り出し、なぜか誰もいない場所にすべて放ってしまった。
それを合図にして、雪玉は怪鳥の頭の部分から飛び降りると、華麗に地面に着地してみせる。かなりの高さがあったが、精霊である雪玉にとっては特別なことでもないようだ。
「さすが雪玉!」
大好きな暁玲に称賛され、ピンと黒い尻尾を立てて得意げに可愛らしい鼻をふふんと上げる雪玉。たぶん格好をつけているつもりなのだろうが、どうやっても可愛いさしかないその姿に、暁玲は目の前の脅威を忘れそうになる。
「南斗六星、南斗星君」
相棒に癒され緊張も解れたところで、中指と人差し指を立てて決められた順番で宙になにかを描き出す。師である嗚嵐が考案した唯一無二の陣を発動するための動作は、その技と同じ形の六星をなぞる様に描くことで成される。
そしてその陣の楔となる符は、すでに正しく配置済みだ!
「"生"を司りし者、"聖"なる六星の輝きをもって悪しきものを滅せ!」
発動させる最後の号令と共に、配置された霊符がそれぞれ光り輝く。それは南斗六星を形作るように次々と線と線で繋がっていき、やがて暁玲を中心にして、柔らかな優しい白い光が辺り一帯を包み込んでいく――――。
断末魔は雷鳴の如く。怪鳥の姿は霧散し、元となる黒い靄は陣の白い光が消えると同時に、それと混ざり合って融けるように消え失せた。ゆっくりと戻って来る夜の薄暗闇。穢れの靄で隠れていた半月も姿を現し、闇夜を飾る星々が瞬き始めた。
「はあ······この陣、すごく強力なのはいいとして、普段の三倍は疲れます」
あの靄ごと、この辺りの穢れが一瞬にして浄化されたようだ。暁玲はふらふらとしながらその場に佇み、霊力が戻るのを待つ。ここまでしなければあの【怪異】は鎮められなかったと確信している。簡単に倒したように見えて、実はそうではなく。
あの陣を使わなけばこちらが危なかったし、それくらい厄介な相手だったと断言できる。故に、もうひとつの厄介事がすぐそこに転がっていたことを、うっかり忘れていた。
『ふー!』
目を閉じて、体力と霊力の回復に努めていた暁玲の足元で、雪玉が急に威嚇の声を出した時にはもう遅かった。
『きゅーっ⁉ 』
それは一瞬にして起き上がったかと思えば、雪玉を容赦なく蹴飛ばし、獲物を狙う猛獣の如く暁玲の首を切り裂かんと、鋭く変形した爪を振り翳して襲いかかってきた!
(まずい····彼女の存在を忘れてました!)
身体に力が入らないのに無理に動き出そうとしたせいで眩暈を起こし、ぐらりと前のめりに傾ぐ。意識的にはゆっくりと襲って来るその長く鋭い爪に対して、暁玲は完全に反応が遅れてしまう。
白く柔らかい喉元に切っ先が触れるか触れないかというその瞬間、身体が浮き誰かに抱き上げられるような感触があった。同時に、眼前まで迫っていた恐ろしい形相の女の顔が遠くへ離れて行くのがぼんやりと見えた。
『きゅ、きゅー! きゅー!』
下の方から雪玉の鳴き声が聞こえてくる。
(よかった····無事だったんですね)
あの小さな体躯が蹴り飛ばされた姿が視界の端に映った時、暁玲は背筋がひんやりとしたが、精霊である雪玉があの程度でやられるはずはなかった。
「あれ····? 私、首が繋がってる?」
眩んだ視界のせいで、なんだか夢の中にいるようだった。そっと首に手を当てて不思議そうに呟いた暁玲は、だんだんと戻って来る意識の中で自分が今どんな状況なのかを思い知ることなる。
(思った通り、やっぱりあの資料の違和感の正体はこういう事だったんですね ·····って、あれ? なんで私、浮いているんでしょう?)
改めて自分の状態を冷静に眺めてみると、どうやら誰かに抱き上げられているようだった。そういえば、そんな感覚があの時あったなぁと呑気に思い出しながら、ふと顔を上げてみれば····。
「おい。気が付いたならさっさと自分の足で立て」
「あ、はい····すみません」
反射的に謝ってしまったが、どうやら知らぬ間に見知らぬひとに横向きに抱っこされていたようで、目が合った途端に怒られてしまった。
そのひとは王宮の道士のようで、階級によって色は違うが彼らが纏うのと同じ道士服を纏っていた。年齢は少し上だろうか。
あんな風に冷たく言ったわりに気遣うようにゆっくりと下ろしてくれた。肩を支えられながら地に足をつき、暁玲はじっとその青年を観察する。
凛々しい面立ちだがどこか幼さも垣間見える美形。自分よりずっと背が高く中肉中背だが、腰に差している二本の短剣を見るに『武』を得意とする道士とわかる。
袖が細い白い上衣の上に黒い長袍を纏い、赤い帯の両端の部分を垂らしていることから、かなり階級は上の道士。前髪が長めの黒髪短髪。
雫のような形の透明な水晶が括られた首飾りは、彼の雰囲気にとても合っている気がした。
(無表情ですごく冷たそうに見えて、実はさりげなく優しい、のかも?)
ほんの一瞬でそこまで読み取り、今はそんなことをしている場合ではないことを思い出す。まだ問題は解決していない。じっと見すぎたせいか、切れ長の碧い眼が細められる。
「あんた、いったい何者だ? さっき、とんでもない陣を発動させていただろう?」
「あはは····一応、これでも道士なんです。とはいっても、まだまだ"見習い"ですけどね」
暁玲は苦笑を浮かべて謙遜するが、目の前の青年は胡散臭いものでも眺めるように怪訝そうにしている。まあ確かに、あの陣は見習いが使うようなものではない。だが実のところ、嗚嵐からはまだ認められてはいないし、師によって弟子のひとり立ちの見極めは異なる。
「今の状況を知ったら、詰めが甘いって師父に怒られそうです」
「あれは想定外だろう」
むくりと起き上がった骸は俯き加減で、視線だけこちらを見てきた。千切られて無くなっていたはずの左脚は黒い靄によって新しく形作られている。
驚いたことに、青年の攻撃によって切り裂かれ、剥き出しになっていたはずの胸と腹の傷口にあの靄がずるずると入り込んでいき、気付けば何事もなかったかのように塞がってしまった。
そしてさらに驚くべきことは、恐怖で硬直していたはずの骸の表情がまるで生前と変わらぬ笑みを浮かべたのだ!
「俺の名は憂炎。道士の階級は首席。そしてこの怪異は、俺の父の仇だ」