バーバラはヒューバートが好き
こちらまでいらしてくださりありがとうございます。
前半はシリアス後半いちゃいちゃです。
軽い気持ちでお読みください。
流血表現、怪我の描写あります。
『ヒューバート、好きよ』
幻聴が聞こえた。
「起きた? ヒューバート、僕のことわかる?」
目が覚めてすぐ野郎の顔、というのは味気ない。
「……バスチャン」
気を失う直前にはかまびすしい幼馴染の泣き顔があったものだから、まず視界に飛び込んだ優男に違和感を持った。
いや、農耕の傍ら医師のようなことをやっているからこの状況では一番初めでもおかしくはないか。
「何があったか覚えてる?」
だんだんと自分がどうやって気を失う羽目になって、なぜベッドに寝ているか思い出してきた。
「ジャジグロットを狩りにコールピーク山に登って、怪我をしてハストダン村に帰ってきた」
「うん。意識もはっきりしてるね」
ここは自宅で、バスチャンは近所に住む青年だ。というか狭い村の中なので全員がご近所といってもいい。こうして気軽にお互いの家に上がり込むくらいには親しい。
ノックの音に返事をしたのはバスチャンだった。
入ってきたのは柔らかいクリーム色の髪をした少女で、ヒューバートが起き上がっているのを見るなり距離を詰めてきた。手に持っていた包みをサイドテーブルに置いて、バスチャンの隣に立つ。
「ヒューバート! 良かった」
「この通りルシアも心配してたんだ、事がコトだっただけに」
「うん、そう。私のためにジャジグロットの肝をとって来てくれてありがとうございました」
突然の謝礼に間を開けて「ああ」とだけ呟いた。
深く頭を下げた少女は「もうどこも痛くない?」と長く濃いまつ毛をパチパチとさせて、身内を心配するようにヒューバートを見つめる。
そもそもの発端はこの娘の病気だった。それで姉であるあいつが病気になったルシアを助けようと、薬の原材料を取りに行くと言い出して雪山に入ろうとしたから、ヒューバートが止めた。
「ルシアのせいじゃない」
「だって、あんな大怪我をして……」
薬の原材料、ジャジグロットを捕まえるのに苦労しなかったとは言わない。黒い背中白い腹の毛皮に、細長い体を持った山岳動物はとてもすばしっこいために追い込んだりはせず罠を仕掛けるのが有効だ。食用には向かないが、臓物の一部は薬になる。そのジャジグロットを仕留めたはいいが、血の匂いを嗅ぎつけて追ってきたコーリメという大型猛獣を振り払うほうが大変だった。まっすぐ逃げて村に招き入れるわけにはいかなかったから。
「コーリメがいた」
「うわ、あいつか。よく逃げ切れたな」
コーリメを撒きつつ巨体を崖に突き落とすのがせいぜいだった。猛獣の爪で左腕も筋肉が深いところまで切れていたし、殴られたときに肋骨はひびが入った。噛まれた足を引きずりながらあいつとルシアの家にジャジグロットを届けて、あとは倒れてそれっきり。
「ぎりぎりな。俺の怪我を治療したのは?」
一人しか思いつかないけれど。得意の回復魔法を使えたとしても彼女の力では、あの怪我を全て治せるほど強力なものではなかったはずだ。
「応急処置はみんなで……あとはバーバラが回復魔法を。傷は治ったけど、きみはなかなか意識が戻らなくて」
ここはど田舎の小さな村で、正式な職業として回復治療を担う者はいない。バーバラも学校に行ったり師匠について習ったわけではなく独学だ。一般的に大怪我を治すのには、回復士と呼ばれる治癒の魔法を使える人間に頼る。しかし彼らも病原菌を主とした病気や体内の腫瘍は治せない。
「そうか。世話をかけた」
「ううん。命を助けてもらったのは私だもの。今日はシチュー作って来たの、食べれそうなら食べて」
「あとで食う。ありがとう」
ルシアは家に戻り、バスチャンが残った。水をコップに注いでくれたので受け取った。
「あいつは?」
何もなければ真っ先にヒューバートの無事を確認しに来る、というか目が覚めるまで家に居座って看病しているだろうにまだ姿を見ない。
「あいつって、誰のこと言ってるの?」
ぎくりとしたのに気づかない付き合いの浅さではない。バスチャンに会って、ルシアに会って、残りは一人だけ。
「とぼけるなよ」
「あー、バーバラだろう? ね、寝てるんじゃないかな」
「いま何時だ?」
バスチャンが時計を見る。
「午前十一時」
バーバラは早寝早起きが得意だ。休日でだらけるとしても、九時には起きる。
「俺が倒れてから何日経った?」
「十日、だね」
昼にルシアが置いていってくれたシチューを食べて、
強張る体をほぐして全身が動くことを確かめるとその日は大人しくしていた。
それまで看病してくれていたバスチャンもヒューバートに記憶混濁がないと知ると自宅に帰ったのでその夜はひとり。寝ようとすると、バーバラの声が聞こえた気がした。
『ヒューバート、好きよ』
毎日のように聞く台詞を、聞けないとなると懐かしく感じるなんて、と自嘲した。
シチューの入っていた容器を洗って返そうと姉妹の家を訪ねると、ルシアが出迎えてくれた。
「後から取りに行くつもりだったのに」
ありがとう、と華やかに微笑する。
「あいつは?」
バスチャンへした質問と同じもの。
「お姉ちゃんはね、ちょっと」
妹からも言葉を濁されて、いよいよ不信感が募る。
「熱でもあるのか」
「あっ、うん、そうなの。発熱みたいなものね」
熱があるならあるとはっきりそう言えばいいのに、『みたいなもの』とはなんだ。
「直接聞く」
バーバラの自室へ向かうヒューバートの腕に縋りついて、ルシアが止める。
「待って、お姉ちゃんはそっとしておいて」
「なにがあるんだ?」
「それよりもほら、そう! ジャジグロットのお礼がまだだったわよね、何がいいかしら?」
「要らない」
妹を助けたようなものだから。
「そういうわけにはいかないでしょ!」
「話を逸らそうとしているようだが、なんなんだ」
「……いま行くとお姉ちゃんが嫌がるわよ」
「あいつが?」
俺に会うのを嫌がる?
ありえない。
逆の立場ならバーバラも邪魔されたって同じことをする。
家は広くはない。ルシアの抵抗を物ともせず目的の扉をノックするとすぐ返事はあった。ルシアが焦って取り消そうとする。
「お姉ちゃん! ごめんなんでもないの!」
「……ルシア? いいわよ、入ってきたら。お喋りする?」
妹と勘違いしているが、訂正はしない。中に入ろうとするヒューバートを、ルシアはもう引き止めなかった。そっと扉を閉め二人きりにする。
昼過ぎだというのにベッドにいるバーバラを見て、ヒューバートは握った拳をぶるぶる震わせた。
頭にも首にも包帯を巻き、わずかな隙間の肌は凍傷で赤く腫れあがりテラテラとしている。せっかくのミルクティー色の髪がボサボサだ。
バーバラの回復魔法はあくまで他人に施すものであって、彼女自身には使えないらしい。オーブンで火傷して水膨れになっても、回復魔法が発動することはなかった。
ボスン、と乱暴に手を枕の隣に突き出せばバーバラがびくりとした。包帯で目が見えていないから当然の反応だ。
「え、な……なに? ルシアなにか落としたの?」
「誰になにをされたんだ」
バーバラのぶわりと膨らんだ唇は割れていて痛々しい。彼女の唇は小さくて、瑞々しい果実のように色づいて可愛かったのに跡形もない。
「……ヒューバート?」
「答えろ、なにがあった」
なんとか怒りを抑え込もうとしたのに、バーバラを怯えさせてしまっている。彼女は弁解しようと舌を回した。
「違うの。これ、あたしが山に入ったせいで……目はね、大丈夫よ。見えるの。でもまぶたの傷が酷くってーーあ、ううん山を登ってるときに木の枝で擦っただけで酷いってほどじゃないし、回復士にすぐ治してもらうからいいのよ」
明け透けな嘘で言い訳を固めるバーバラに腑が煮えくりかえりそうになる。
「山に入った? 俺が何て言ったか覚えてないのか」
バーバラは勉強はできないアホなところがあったが、約束を無視する馬鹿ではなかった。それが過大評価だったことを知る。
ヒューバートはバーバラが雪山に登らないことを条件にジャジグロットを狩りに行った。妹を病で失うかもしれないと半狂乱になりかけていた彼女に絶対家で待っているようにキツく言いつけた。
付いてくると言う彼女を縄で柱に縛りつけようかとも考えていた。そうしておけばよかった。こんな姿を見ることになるくらいなら、やり過ぎだと思われたって構わなかった。
「ごめんなさい……」
バーバラがもじもじ指を動かすと張り詰めた皮膚が破れて血が滲み出た。痛い、と指を別な手で押さえる。
ヒューバートはハンカチを赤い手に被せて、吐き捨てる。
「ふざけるなよ。金輪際お前の面倒は見ない。関わらない」
「ヒューバート、ごめんなさい!……ごめんなさい」
胸に暴れるのは憤怒であり恐怖。
幼馴染のバーバラを自分との約束だけでは守り切れなかった怒りもあったし、彼女の包帯姿に全身の血の気が引いた。大型猛獣と対峙したときより深く絶望したくらい。
家を出て、バーバラと顔を合わせた日で初めてバーバラの笑顔が見れなかったことに気づき、ギリリと歯を鳴らした。
自宅に帰っても頭に血が上り正常でいられない。木製のテーブルに八つ当たりをした。バキッ、と表面は割れテーブルの脚が折れて床を転ぶ。叩きつけた小指の下に木片が刺さっていた。
使えなくなったテーブルを解体して薪の束に重ねた。
このくらいの傷でも、毎回バーバラが飛んできて回復魔法で治してくれていたな、と回想して自己嫌悪で気分が悪くなる。いまさっき突き放しておいて、もう彼女のことを考えるのか。皮膚に残る破片を抜いて、血止めをした。
「ヒューバート……、バーバラを見たのか」
バスチャンが家に入ってきた。大きな物音に心配して様子を見に来た、察しの良い竹馬の友だ。
「何か用か」
「あのな、きみが覚えてないかもしれないから言うけど、バーバラはきみを追いかけてコールピーク山に入ったわけじゃない」
そういえば、気を失う直前に自宅にいるバーバラと会っているのだ。薬の原材料は手に入ったし、ルシアも元気になっていたから効いたのだろう。ではなぜ山に入る必要があったのか。
「ちゃんと聞いてくれよ。きみがジャジグロットを捕まえてきてくれて、倒れたときバーバラはすごく泣いてた。僕が薬を作ってルシアに飲ませている間、きみに回復魔法をかけられるだけかけていたんだよ」
コーリメが立ち塞がったとき、バーバラが泣くことになるかもしれない、とはヒューバートも想像できた。だから全力で逃げの一手を打った。
「傷は治療できたのにきみは目を覚まさない。というのをバーバラは回復魔法が未熟だったからだ、って思い込んでもっと強い魔法を習得しに行くって家を飛び出したんだ」
バーバラは包帯まみれになってからバスチャンにそう自白した。
「なんだそれ?」
「村長とかばぁばからきいたことあるだろ、魔法の力を高める方法だよ。山の中の祠を雪解け水で清めて祈りを捧げるっていうやつ」
「それを実行したってのか?」
アホだ。バーバラは正真正銘の阿呆だ。
効果の立証されていない伝承レベルの修行法を試しに雪の深い山に入るなんて。都会に行って勉強するとか、師匠を探すほうが堅実で現実的なのになぜわからない。
「ルシアにはしばらく継続的に薬が必要で、僕はルシアにかかりっきりだったから、バーバラが家からいなくなってるのに気づくのが遅れた」
悔恨を滲ませて、バスチャンが頭を下げる。
「祠のとこにいるのを見つけて無理矢理連れ帰ったけど、あの状態で……ヒューバートがいないときに守れなくてすまない。いま山三つ向こうの回復士を呼び出してるところなんだ。それで、バーバラは『治るまでヒューバートには言わないで』って」
村や近隣にはバーバラの他に回復魔法を使える人間はいなかったから外部に求めるしかない。
隠そうとしたのは修行の成果がなかったのが恥ずかしいとか、醜くなった姿を見られたくないとか、きっとくだらない理由。
「いや。あいつが暴走しただけだろ……。お前が見つけてくれてよかった。ありがとう」
椅子に座り、膝をぎりぎりと握りしめた。
むしろ、バスチャンが助けてくれたからあの程度で済んだようなもの。場合によっては手指欠損やら回復士でも手に負えない事態になっていただろう。
そんなにヒューバートやバスチャンとも歳が変わらないというのに、バーバラは小さい頃から抜けのある手のかかる娘で。妹のルシアのほうが落ち着いてしっかりしているから、「どちらがお姉さんやら」と周囲の大人からはからかわれていた。それでも姉妹の仲はとても良く、助け合って生きていた。
子どもの時分から気に入った相手にはすぐ好き好き言うバーバラだったが、妹、バスチャン、よくしてくれる大人と広かったその対象をいつしかヒューバートのみに狭めていた。
バスチャンの茶髪ではなくヒューバートの紺色の髪が好みだったのか。父譲りの青い瞳に憧れるとも言っていた。
ヒューバートも世話を焼いているうちに情が湧いて、幼い好意を受け取るでもなく否定するでもなくやり過ごしていた。
いや、世話をされていたのは実のところヒューバートのほう。
山での狩りや力仕事で負傷する度に彼女は回復魔法をかけてくれていた。
『ヒューバート、好きよ。だからあんまり怪我しないでね』
流行り病で親世代を共に一斉に亡くし、生産性に欠ける田舎でとくに生きる希望もなかったヒューバートにそう語りかけて、生きることを諦めるのを思いとどまらせた。
バーバラはたまに面倒だが、毎日一緒にいて飽きなかったし、笑顔はヒューバートの心を癒したから。
ルシアがやってきて、回復士によるバーバラの治療が終わり傷は残らなかったと報告してくれた。
それから三日。
怒りも露わにバーバラを一方的に拒絶したことへの罪悪感から、彼女の状態が気になるのに見に行けないままだった。村の中を歩いても避けられているのか、顔をちらとも合わせない。
「怪我が治ってから、お姉ちゃんが何も食べないの。水も飲んでくれない」
ずっと病床にいると泣きながらルシアが告げたときに、脊髄反射で走り出していた。
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長い付き合いの中で、あんなに刺々しい感情表現をしたヒューバートは初めてだった。昔からバーバラがなにか失敗しても「仕方ない」と呆れるだけ。
今回の嫌悪はバーバラに向けられていた。それまでバーバラのことを悪く思ってなかったはずなのに、関係の修復は不可能だ、と直感した。
「金輪際お前の面倒は見ない」だなんて、妥当な縁切りだろう。
さんざん尻拭いをさせてきたしわ寄せだろうか。
いつも困っていると助けてくれるのはヒューバートだった。重い物が持てないときも、他人にからかわれたときも。
十年以上も前、額や肩から血を流したヒューバートが大人に担がれて村に戻ってきたことがある。
ヒューバートが山の動物を仕留めるために罠を張っていたところ、獲物を上回る凶暴なコーリメを引き寄せてしまい、頭を殴られ肩を噛まれたと大人は話していた。
このときバーバラは山の祠の神さまに願った。
『どうかあたしに彼を治す力をください』
そのときは冬の終わりの春だった。雨混じりの雪が降りはじめて、バーバラは肩に巻いていたストールで御神体である丸い石を拭いた。
((バーバラよ。優しき幼な子よ))
現れたその頭には後光が輝き、微笑みとも無表情ともとれる顔をしていた。
((他人を思いやるその心は何物にも代え難いものです。しかしその対象枠はごく狭い))
「はい。ヒューバートの怪我を治したいです」
((今のあなたにはわずかな力しか与えられません。それでも力を望みますか))
バーバラに迷いはなかった。
「はい、お願いします」
((ではいらっしゃい))
神の遣いは手招きをする。
爪もしわもない不思議な手をしていた。爪は指先を守るもの、危険から守る必要がなければ爪がないのも当たり前か。
神さまだというかたまりはぼんやり細長いパンみたいな形で、というのもその姿形を認識できなかった。のっぺりして、逆光で目も見えない。
バーバラを連れてきた者は翻訳機なのだな、と思った。神の代わりに言葉を伝えてくれる。人間には神の言語は難しすぎるのだろう。
神は触れることなくバーバラに力を授けてくれた。
((いずれあなたが更なる力を望むときまで――))
全てが終わりバーバラは祠の前に立っていた。山から下りる途中で、ヒューバートが満身創痍で木に寄りかかっていた。
浅い息を繰り返している。
バーバラは神からもらった力を存分に奮った。
額に触れると、ヒューバートは混乱から動揺した。山に入って丸一日、戻ってこない少女を大人に任せられず夜明けから探しにきたところだった。幸いなことに足は無事だったから、止める村人たちは振り切った。
それで少女を見つけたら、遭難していたなど嘘のような平気な顔でヒューバートに駆け寄ってくるではないか。
そして魔法を会得していた。驚かずにいられない。
ヒューバートは頭の次に肩を押さえてうめいた。
患部に集中してバーバラはもう一度回復魔法を使う。開いていた傷は塞がり、出血どころか痛みも熱も消え失せた。
どこにも行かないようにしっかり手を繋いで帰宅した。
この幼いときの神隠しの経験から、バーバラはもう一度祠に願えば力をもらえると見込みがあった。
助けに来たのに逆に助けられたことを負い目に感じているのか、ヒューバートはバーバラに嫌々優しくする。
ヒューバートはバーバラのことを「アホだ」と正面切って言っても、他の人のように嘲ったりはしなかった。真顔で淡々と言い放つ。
バーバラはそんな彼が好きだったのに、回復魔法を身につけてからは村人からも能力を評価されたのが彼にしたら面白くなかったのだろうか。
彼ときたら仕方なしという態度で毎回手を貸すのだ。
それが悲しくもあり、構ってもらえて嬉しくもあった。
昔に浸りながら畳んだハンカチを握った手から解放して、水差しの隣に置いた。ルシアがいつも新鮮な水を用意してくれていたが、それに手をつけることはなかった。
頭が痛い。
ベッドの上でぼんやりしていると、声は突然降ってきた。
((バーバラ))
真っ白で継ぎ目のない、ゆったりした服を着た存在が窓際に立っている。男なのか女なのか、そう若くもないが年老いてもいない。能面のようであり、微笑みのようにも見える。それは口を動かさずにバーバラに話しかけた。
((あなたの祈りは再び聞き届けられました))
バーバラは願った。
『あたしにもっと強い力を授けてください。もっともっと強い回復の力を』
雪を火で溶かしたもので身を清め祠を清め、祈ることを繰り返した。伝説ではそれで力を得る者があったという。
「いまになって、あたしの願いが叶えられるんですか?」
((はい。あなたに更なる力を授けます。この世に未練のなくなった者にこそふさわしい力です。個に執着しないあなたならば公平に回復の力の施しを与えられるでしょう))
「はい」
その通りだ。全てに関心が失せてしまっている。
((ではともに神の元へ))
もういいか、とバーバラは誘いに乗った。もう、どうでもいいか。あたしの想いなど。唯一の心残りであった妹のルシアも健康になったし気立てのよい子だ。優しいバスチャンもヒューバートも村にいる。姉なしでだって不自由なく生きていける。
力をもらって村を出よう。
ベッドから抜け出すと眩暈がした。
ふわり、と足が浮く。人生初のお姫様抱っこ。
ヒューバートにしてもらいたかったな、と考えたが、すぐ思い直す。嫌われてしまった彼には二度と会うこともない。
目を閉じて全身を預けようとした。
「てめぇなにしてる」
聞こえるはずのない人物の声がごく近くでする。瞬間的に目を開けた。ヒューバート、と呼ぶと苦しげな目が一瞬こちらを見た。
瞳孔を開かせて喧嘩を売りつける。
「バーバラを俺に返せ」
神からの遣いは、ふうんわりとバーバラを手放した。ヒューバートががっしりと両腕で受け止める。
((しがらみをお断ちなさい。それから迎えにきます))
「させるかよ引っ込んどけ」
「え……あ……」
バーバラは両者を見比べる。消えゆく遣いを背に無視して、ヒューバートは腕の中に取り返した娘をベッドに下ろした。
「ここから動くなよ。……頼むから」
こくん、と頷く。
彼はスープ皿を持ってほどなくして戻ってきた。バーバラが座るベッド脇に腰を落ち着かせ、スプーンを差し向ける。
「飲め。ルシアが作った」
「ごめんなさい、お腹空かないの」
ヒューバートは皿を一旦膝に置いた。片手でバーバラのあごを掴んで、真正面から肌色を観察する。
凍傷はすっかり完治して輪郭は包帯をしていた頃より一回り小さく戻っている。
顔をわずかに傾けたと思えば、唇が重なった。
かさかさのバーバラとは違い、ヒューバートのそれはしっとりして、ふわふわだった。
「ふぇ」
すかさずスプーンが開いた口に突っ込まれる。スープが流れ込む。飲み込んだ。口端からあごへ垂れるスープをヒューバートが舌で舐めとった。
ぴくん、とバーバラの肩が揺れる。
もう一口、とスプーンが運ばれる。嚥下を認めると、再び口づけをした。
どうなってるの?
スープを飲むごとに、ご褒美としてキスが落ちてくる。
ご褒美、としての認識で合ってるだろうか。ただの食事の補助にキスは必要ない。離れる間際の吸い付きも、気持ちが伴わなければしないだろう。
キスをされるごとに、「好きだ」と聞こえてきそうだった。バーバラがこれまで送ったたくさんの想いに応えるように。
「ヒューバート、これ以上は……」
皿の半分を飲んで、お腹も胸もいっぱいいっぱいになってしまった。
「そうか」
サイドテーブルに皿を片付けて、バーバラが体を倒すのを助ける。
「これから飯も食えよ」
「うん」
「お前に当たり散らして悪かった。本当にすまない」
バーバラに怒りの矛先を向けるべきではなかったのに。
「ううん、いつも頭足りなくてヒューバートに迷惑かけてごめんね」
「お前はアホのままがかわいい。けど隣で見張っとかないと落ち着かない。だからあの言葉なかったことにしていいか?」
バーバラに「関わらない」なんてできもしないことを言った。
面倒まるごと背負い込んでやる。飯が食えないなら食わせてやる。この世に未練がないと言っても俺が連れ戻してやる。
「うん!」
包帯の取れた額は白い。ヒューバートは体を屈めてそこに唇を押し付けた。
離れようとすると、細い指がヒューバートのシャツの胸元を掴んでいる。バーバラの感情は素直に大きな瞳に現れていた。なんら変わらないはずの蜂蜜色が生気に満ちており美しい。
「ヒューバート」
だから名前を呼ぶだけでよかった。スープで温められはしたが、バーバラの唇に水分がもどるのは時間がかかるだろう。だが、ヒューバートの目にこれ以上美味しそうに映るものはない。
少しだけ深く味わった。
バーバラの手が緩んでパタ、とベッドに落ちる。
「眠かったら寝ていいぞ。そばにいる」
「うん……。あのね、なんか体が変」
バーバラの瞳に水の膜が張る。
「どこが変なんだ?」
てっきり熱でも出たかと額に手を置いたが、そう高くは感じられない。バーバラは『違う』とその手を取って誘導する。腹? と思ったらぐいとさらに下げられる。
「ここ。もぞもぞして熱い。痛い……じゃなくて、苦しい? ぎゅーってなってる」
掛け布団で見えてはいないが、ヒューバートの手がバーバラ自らが服をたくし上げた場所、素肌の下腹部に押しつけられている。大きな手は小さなへそから下着の端まで覆う。やわらかすぎる感触にヒューバートがカチンと硬直した。
男に、そういうことを言うなするなアホ。
「ねぇ、あたし、病気かな……? 山で何か拾ってきちゃった?」
不安そうに見上げてくる姿にヒューバートの体の一部が反応しそうになる。座っているのに足が崩れてしまいそうだった。
「あ、でも治ってきたかも。ヒューバートの手、安心するわ。気持ちいい」
延々と滑らかな心地よい肌に触れていたかったが、理性を呼び起こす。
怪しまれないように真顔で優しく手を剥がし、服を下ろして掛け布団を直してやった。
「飯をしっかり食って寝れば治る。山から何か持ってくるなら俺が先だったろ。……気がかりならまたいつでも言え、山も調べる」
「うん、ありがとう」
へにゃり、と無垢な笑み。ほんのり染まる頬を撫でた。
「ヒューバート、好きよ。……って言っていい?」
「それがずっと聞きたかった。俺もバーバラが好きだ」
バーバラがふふっと笑う。
「目が覚めちゃった」
「なら聞くが。なんだったんだあの誘拐犯は」
「たぶんだけど、神さまからの遣い?」
「お前を連れ去ってどうしようというんだ」
「力をあげるからいらっしゃいって。でも、この世に執着があるとだめみたい。強い回復の力を使うのは対象に平等でないといけないとか。力を貰えたらもっと村の役にも立てたかもしれないのに、機会を逃しちゃったかな」
「そりゃあ失敗してよかった」
妨害しておいてしれっと言う。
その他大勢と同様に扱われて歯牙にも掛けない存在に落ちるくらいなら、バーバラが力を望むとも遠くにいくことを阻止する。
「……ときどき変なことで喜ぶよわね、ヒューバートは」
バーバラがドライフルーツクッキーに甘味料を入れ忘れたとき。もそもそとした非常食のような生地を「甘い物が苦手だから甘すぎなくていい」と平らげた。
似たようなことが度々あって、バスチャンには味音痴だと診断されている。
偶然村を通りかかった回復士に「弟子にならないか、都会に連れていってやる」と勧誘されたとき。まだ未成年だったバーバラは里を離れる決心をつけられず断った。ヒューバートは「よくきっぱり自分の意思を言えたな」と褒めてくれた。立派な回復士になって村へ戻ってきてくれると期待した村長はとてもがっかりしていた。
隣村との合同の祭りに参加してあぶれたときにだって。せっかく遊びにきているのだから、他の村の住民たちとも交流を深めたかったバーバラの思惑から外れ、友人は増やせなかった。始まりから終わりまでバーバラと過ごすヒューバートは楽しげだったけども。
「もう寝ろ」
ヒューバートはまぶたに唇を落として、バーバラの手を握った。
「元気になったら話がある。俺の家に来い」
バーバラは目を閉じながら「うん」と返事をした。
ヒューバートは連日お昼にやってきて、バーバラがしっかり食事を摂っているかそばで見ている。
バーバラが彼の家を訪ねられるほど元気になるのに数日を要した。
「本当は一昨日来ようとしたのよ? でもルシアが怒ってベッドから出るなって言うから我慢したの。今日やっと、ヒューバートの家に行くならいいって許してくれたのよ」
「そうか」
「ところで、テーブルはどうしたの?」
気持ち広くなった部屋に入ってバーバラは尋ねた。テーブルならヒューバートが怒りの発散のために衝動で破壊した。
「……ちょっとな」
あまり突っ込まないほうがいいだろうか、とバーバラは本題に入った。
「話があるんだったのよね?」
ヒューバートは頷いて、バーバラの手を握る。ぐっと顔を近づけて、じっくりと見つめ合う。
「お前から目が離せない」
「危なっかしいから?」
はぁ、とため息をついて仕切り直す。
「バーバラ。俺と結婚し」
「うん!する!」
してください、まで言い終わらないうちの二つ返事に、ヒューバートはかすかに眉根を寄せた。
「少しは考えようとか、ないのか。結婚だぞ?」
「どうして? ヒューバート、好きよ。ヒューバートのお嫁さんにして!」
バーバラは彼に対する好意に自信しかない。キスしたいのも抱きしめてほしいのもヒューバートだけ。
満面の笑顔に、敵わないなと口元が緩む。
「アホかわいいなお前……」
抱き寄せて、つむじにキスを落とす。「ヒューバートのお嫁さん」という響きは、悪くない。全くもって悪くない。
「いつ村長に言うかな」
村には結婚に則って式を挙げる慣習はない。それは身分の高い者たちのものだから。
単なる村民であれば、戸籍を統括管理している村長に報告するだけで婚姻は認められる。あとは村人に広めるため豪華な食事を振る舞うくらい。
「今日! ヒューバートの気持ちが変わらないうちに」
「俺の気持ちはずっと変わらない。好きだ、バーバラ」
「なら村長のところに行こ!」
強引に手を引かれて、ヒューバートのほうに気持ちの揺れが生じる。アホのバーバラのことだから結婚を軽く捉えすぎているのではないか。
「お前、ほんとにわかってるか? 一生のことだぞ」
「うん。ヒューバートが私の全部をもらってくれるんでしょ?」
言種は語弊がありそうだがこれっぽっちも間違ってない。ふ、と表情を曇らせる。
「ヒューバートがあたしに責任持ちたくないっていうのもわかるわ。一度愛想尽かされちゃったもの。もしかしたらこれまで何度もそういうことがあったのかも。あたしのことを信じられないのなら一生、えと、なんだっけ……遊び? の関係でもいい。捨てたいと思うまでは、ヒューバートのそばにいさせて?」
本音は遊びなんかで終わりたくない。
自分の言葉に胸の奥から指の先まで痛みで痺れて、ぶわりと涙が迫り上がってくる。
「捨てるわけあるか。俺にはバーバラだけだ。それで」
ぐに、とほっぺたを両手で挟んでキスをした。
「『遊びの関係』なんてふざけた言葉どこで覚えた」
隣村に届け物をしたときに、男の人から「ヒューバートしか相手しないのはもったいない、オレとも関係持ってみない? 遊びでいいよ」などと声を掛けられたのだと説明した。急いでたから遊ぶ時間はないと断った、とも。
「あ?」
たった一文字に背中がぞわりとして腰が抜けそうになる。ヒューバートの目は細められ隣村の方向に眼とあらんかぎりの憎悪の念を飛ばしていた。
犯人は特定して血祭りに上げる。決定事項だ。
「それでなんだ、時間があればお前は男と関係を持っておままごとでもするつもりだったのか?」
「まさか、おままごとなんて子どもじゃあるまいし。遊びって言うんだから、ちょっとおでかけしてご飯食べたりするぐらいじゃないの?」
この返答ならば本当に無事なんだな、と胸を撫で下ろした。
「それはまた後で詳しく話すとして村長の家行くぞ」
善は急げと手に手をとって村の中を早足で歩く。
村で一番立派で古い家の扉を叩くと、見慣れた爺が招き入れた。
「なんじゃい、急に二人して」
などと聞きつつも、家の中でも繋いだ手を離さない若い男女を尻目に棚から戸籍の綴りを取り出している。こういった雰囲気にも慣れきったものだ。
「俺たち結婚します」
「ほう。そりゃめでたい」
驚いた様子も見せず、ページをめくって開く。
「ヒューバートにバーバラ、こことここじゃな。
ではお互いに愛を誓いなさい」
男がそっと女の両手を取る。
「バーバラ、好きだ結婚し」
「はいはいはい結婚する! ヒューバート好きよ」
「……最後まで言わせろ、台無しじゃねぇか」
「うむ……」
村長はあごひげを撫でている。
「ごめんなさい? じゃあもう一回!」
改めて「結婚しよう」「はい!」と誓い合うので、村長は微笑んでいた。いつかこうなることをわかりきっていた。
「バーバラにヒューバートよ。ハストダン村長の権限においてお前たちを新たな夫婦と認める。
それぞれ伴侶を大切に、長生きをしなさい」
大変シンプルなお言葉だったが、村長の声音は温もりに満ちて、祝福の想いが込められていた。
はい、と夫婦の返事は重なった。
「バーバラ、愛してる」
ベッドの上でヒューバートは新妻を抱きしめていた。
「気持ちは変わらない、ってお昼に言ったばかりなのに、もう『愛してる』に変わってしまったの?」
「揚げ足取るな。気持ちは変わってない」
「じゃあ『好き』っていうのが嘘?」
「嘘じゃない。ずっと前から愛してた。けど急には言えないだろ」
「言ってくれたらよかったのに。もっと早く結婚できたかもしれないわ?」
「そろそろ黙れ、焦らすな。……優しくできない」
会話に中断されてもだもだしているヒューバートの珍しい姿に、くすりと笑う。バーバラの無駄話に真面目に返事をするところも、大好きだ。
「ヒューバートはいつでも優しいもの。たまにはちょっと意地悪になってもいいわ」
「煽るなアホ」
バーバラの呼吸を無視したキスをーー意地悪をするヒューバートに、彼女はどんどん溺れていった。
他の誰も来れない一番近くにヒューバートが入り込んでくる。それがなにより心地よかった。
バーバラ自身も知らない奥の奥まで暴かれるのは恥ずかしいけれど、それがヒューバートなら受け入れられる。
お前の全ては俺のものなのだと新妻の体に刻み込むのに長い時間をかけた。夢中になっていたら夜が明けていた。
お昼近くになって、バーバラは目を覚ました。
「おはようヒューバート」
「おはようバーバラ、愛してる」
これからはバーバラが飽きるほど「愛してる」という言葉を浴びせる。
おしまい!
最後までお付き合いくださりありがとうございます。
あなたがわくわくする作品にこれからも出会えますように。
ヒューバートが渋い顔をするのは、バーバラの関心が自分以外に向いたり他人の世話を焼く(回復魔法を使う)ところを見るのが嫌な束縛です。
片方が好き好き追いかけて、相手にそっけなくされるけど本当は両思いで最後に振り向いてもらえる展開が大好きなのです。
私のキャラ、ツンができなくてすぐデレちゃうんですが……。
修行します。いやでも最初からでれでれバカップルも好きです。
Feb 21st, 2023
誤字指摘ありがとうございます!
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