血咳猫
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
自分の身体のことは、自分がよく分かっている。よく聞く言葉だけれど、本当にそうだろうか? 心が疲れを感じた時、身体は思った以上に疲労しているのだという。
精神が肉体を凌駕する、というのははた目には熱ささえ感じる流れだ。しかしそのあとで身体を壊し、再起不能に陥ってしまう例も珍しくない。
創作の中ならいい。でも現実ならば、命はまだまだその先も続く。
安易に命を使ってしまったうかつさをとがめるか? それとも、そこまで命をかけられることに出会えた幸せをうらやむか? 人によって考えはいろいろあると思う。
不調はどれほどの不調なのか。そもそもそれは害と呼べるのだろうか?
それを考えさせてくれるきっかけとなった、妙な昔話があってね。聞いてみないかい?
むかしむかし。あるところにひとりの若者が暮らしていた。
彼はここ数年、せきがよく出ていたらしい。それと一緒に、まれに血が飛び出すこともあり、何かしらの病が心配されたそうだ。
確かに、見た目には何かしらの大病に思えただろう。しかし青年には他に、熱などの異状は感じられなかったのだとか。
医療も発達していない時代だ。彼に「大丈夫だ」と根拠をもって太鼓判を押してくれるような人はいない。
ただ、ときどき血を吐くだけ。それなのに周囲は気をつかったり、気味悪がったりする。
いや、そもそも吐血を「ただ」といえるくらい、日常に溶け込んでしまった自分こそがおかしいのだろうか?
青年は日々を過ごしながら、なんの苦痛も伴わず吐き出される自分の血にとまどい、そこに人の視線や関係が絡まって、すっかり心を参らせていたらしい。
そんなおり、彼の住む村に猫を売るという商人が訪れたんだ。
商人の足といわず、頭といわず、様々な毛色の猫がその身をすり寄せ、乗っかって、くつろいでいる。衣服の一部と称しても、違和感を覚えないほどのなじみぐあいだった。
その猫たちを売るのだというから、村人たちは最初、顔を見合わせてしまったという。当時からして猫は貴重なもので、お貴族が自身の評価を高めるため、そばへ侍らすということが多かった。
村々ではかわいがるより、むしろネズミの害をしりぞけるとされ、守護者として珍重されるべきもの。それが村で一匹ではなく、各家に一匹でもなお余るほど連れてこられたのだから、にわかに信じがたいのも無理なかった。
望みとあらば、格安で猫を譲っていく商人。家々をめぐる彼は、とうとう青年のもとまでやってきた。
応対したとき、ちょうど青年はせき込んでしまう。とっさに口へ手をあてたものの、かばいきれなかった指のすき間などから、いくらか赤い飛沫が飛び散ってしまう。
商人はそれらを顔で受ける形になった。にわかに浮かんだ、あばたのような飛沫へとっさに詫びる青年だが、商人本人はさほど動じていない。
それどころか、口元がわずかに緩むのを青年は目にした。
「よろしい……あなた様にはこちらを」
商人は顔にかかった血をぬぐう仕草を見せないまま、足元に寄り添う一匹の三毛猫を、青年へよこしてくれた。お代はいらないという。
「お世話も結構。私の猫たちは自分の面倒を自分で見られますよって。くれぐれもそばに置いておいてくださると、助かります」
商人は青年からの質問は一切受け付けないまま、背を向けてしまう。青年のそばへはべるようになった猫も、つい先ほどまでの主だった商人を見やることはしない。
それどころか、青年が応対する際に開けた玄関のすき間へ入り込み、のしのしと居間へ上がり込んでいく始末。さながら自分が家の主になったかのような、ふてぶてしさだったとか。
商人の言う通り、猫はエサやりをはじめとして、様々な世話を必要としなかった。一日の大半を、いかにもくたびれきった様子で丸まりながら過ごすも、時がくればぴんと身を起こし、家の外へと飛び出してくる。
そうして戻ってきては、ネズミなどの小動物を仕留めて、青年へじかに見せてきた。他の猫にも見られる、自慢げとでもいわんばかりの所作だ。
もちろん、青年にとってはたいして益にならず、さりとて猫の気づかいを無駄にはできず。猫がいなくなった隙にささっとかたしてしまうのが、常だったという。
ただ、青年の猫が持ってくる猫のおみやげは、他の家の猫たちのそれに比べ、明らかに多かった。極端な時には家の軒先に、青年のひざ近くまで積まれていることもあり、青年ばかりか村人たちもいぶかしく思うことが、しばしばあったとか。
そうした生活が何日か過ぎたころ。
青年はぼんやりした意識で、夜に目を覚ました。
手足は不思議と力が入らず、自分は布団代わりのわらの中で横を向きながら寝転がっているのを見て取る。
寝ている際にも、青年はせき込むことがあった。そのせいか、起きてみると床板がところどころ赤く染まっていることも多い。その夜もまた、口に近い数枚の床板に、ぽつぽつと赤い斑点らしきものが浮かんでいた。
だがその日はそれらより、更に奥。採光用の窓近くに猫が座っていたんだ。
いつも見る、丸まった姿勢じゃない。尻を床につけて背を伸ばし、じっと窓へ身体を向けていた。その輪郭にどこか違和感を覚え、青年は意思とは真逆に重くなるばかりのまぶたに抗いながら、なんとか猫を観察していく。
そうして、意識が途切れてしまう直前になって気がつけた。
猫の両脇、光が満足に当たっていない影の部分にも、同じようにして猫が身を寄せ合っていることに。
朝に目覚めた時、猫はいつも通りに、鞠を思わせるかっこうで眠っていた。
青年は起き抜けに、またせき込み。今度は盛大に手を濡らしてしまい、顔をしかめながら水で手を洗い流す。
ここのところ、少しずつだがまとまった量の吐血をすることが、増えてきたような気がする。もし、身体のどこかに痛みがあったなら、そこを根拠に納得できていたかもしれない。
けれども、苦痛のたぐいは相変わらずないんだ。自分はどこが悪いのか、そもそも悪くないのか、宙ぶらりんの判断に任せ、なんとなくの不安を抱きながら過ごすよりない。
猫のおみやげはなおも増えていき、数日後にはどのような場所をめぐったのか、青年の腰近くまでのうず高い山を積んでいたとか。
その晩、青年はなかなか寝付くことができなかった。
ひっきりなしに出るせきが、彼の気をいささかも休めなかったからだ。
どうやら血が出ているらしく、何度目かの咳にはのど奥であぶくの立つ音がし、息も苦しさを感じた。あおむけでいたなら、そのまま自らの血におぼれてしまいそうだ。
横を向く。口をぎゅっと結んでも、その端から暖かいものがにじみ、垂れていくのが分かった。けれども、今晩はそこに聞きなれない音が混じる。
ぴっちゃん、ぴっちゃん……。
まるで水遊びをしながら跳ね回る子供のように、一回と一回の間が長く、そして大きい音。
しばし目を閉じていた青年だけど、次第にその数、その頻度が増してくるのを感じて、せきが収まったおりに、かっと目を見開いてみたらしい。
猫、いや猫たちがいた。
目にできただけで十匹は下らず、闇の中にいるのならもっといたかもしれない。その彼らが、床板の上にこぼれた血の上で跳ね回っていたんだ。
その身体は真っ赤すぎた。青年の元にいた猫は、他の猫たちよりひと回り小さく、輪郭を見ればすぐに判別がついたが、その肌にはもとの三毛はみじんも浮かんではいない。
他の猫たちもそうだ。赤を身体へまんべんなくくっつけて、なお足りない分を得るかのように、血に染まる床板のうえを飛び回っていたんだ。
おそらくは青年の吐き出したであろうものを……。
青年がはっと気が付いたとき、すでに外からはかすかな朝日が差していた。
床の赤はまったく残っていない。身体を起こした際にまたせき込んだが、今回は血の飛沫はどこにもつかなかった。
猫はというと、いつも通りに窓の下で丸くなっている、と青年は最初思ったらしい。
しかし、声をかけても反応を見せず、青年が触ると猫の身体はあっけなくしぼみ、青年の指をなんの抵抗もなく、深々と受け入れたんだ。
猫は皮しか残っていなかった。
しかし、はがれたり刃物を入れたりして、つくであろう傷はぜんぜんない。まるで中身だけがきれいに抜けてしまったかのようだ。
他の家々の猫たちも、同じ目に遭っていた。村からはいちどきに、数十匹もの猫が皮のみを残し、消えてしまったことになる。
皮だけが葬られる、彼らの墓が建てられた。しかし青年は目に焼き付いた、あの晩のことを思うと、彼らはまたどこかにいるような気がしてならなかったんだ。
自分たちの手の届かないところへいる。そこへ行くために、自分の血が必要だったのではないかと。
青年のせき込みは変わらなかったが、そこへ血が混じることはもうなかったのだとか。